嫌われマツコ・デラックス:『プレシャス』

『プレシャス』について、なんかもうすっかり旬を逃した感があるのだが、自分の考えをまとめる為にも書いておこうと思う。


いきなり結論から書いてしまうと、アメリカ人が作った『嫌われ松子の一生』みたいな映画だと思ったよ、勿論中島哲也が監督した映画版の。
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貧困、レイプ、シングルマザー、難病とくれば、真っ先に連想してしまうのはギャラが安い割にイケメンな若手俳優をキャスティングし、ケータイ小説を原作にして、早撮りが得意なテレビドラマ監督とスタッフを使役してテレビ局主導で作られる、いわゆる難病エクスプロイテーション映画だ。


だが、『プレシャス』がそのようなシロモノとは全く違う映画であるということは、観た人の誰もが納得してくれるものと思う。


では、どこが違うのか?


一つは、経済成長が止まり、格差が拡大していった80年代アメリカの黒人社会を良く捉えている、という点があるだろう。

1987年のハーレムという時代設定は、原作をそのまま引き継いでいる。そんなプレシャスの生活には、レーガン政権によって変貌を遂げた社会が大きな影響
を及ぼしている。金持ち優遇の税制改革は、貧富の格差を広げ、黒人社会に打撃を与えた。

+++ レーガン時代、黒人/女性/同性愛者であることの痛みと覚醒――サファイアの『プッシュ』とリー・ダニエルズ監督の『プレシャス』をめぐって 文:大場正明+++


もしかすると、男子が『ウォッチマン』的悪夢と捉えた80年代アメリカを、女子は『プレシャス』のように捉えるのかもしれない。
もしかすると、80年代アメリカの状況を現在の日本に置き換え、論じることも可能かもしれない。やらないけど。



もう一つは、マイノリティの視点からみた映画という点にあると思う。
とにかくこの映画、出てくるのは全員マイノリティだ。主人公は黒人でデブで女性でシングルマザー、先生はレズビアン、学校の友達は移民にプエルトリカンにいじめられっ子、そして子供はダウン症、唯一キャラとして出てくる男性はベジタリアンナースマンと、マイノリティてんこもりだ。
なぜマイノリティの視点を強調しているのかというと、やはり監督がゲイという理由に尽きると思うのだが、単にゲイだからレズビアンやシングルマザーの気持ちが分かるという単純なものではなく、長年虐げられてきた者だけが持つある種のしたたかさというか、開き直りみたいなものも感じるんだよね。


また、ハリウッド映画史的観点に立ち、「映画史上はじめての意図的に作られた男性嫌悪映画」と論じた内田樹の文章も興味深かった

これまで作られたすべてのハリウッド映画は、ジョン・フォードからウディ・アレンまで、『私を野球に連れてって』から『十三日の金曜日』まで、本質的に「女性嫌悪(misogyny)」映画だった。女性の登場人物たちは男たちの世界にトラブルの種を持ち込み、そのホモソーシャルな秩序を乱し、「罰」として男たちの世界から厄介払いされた。
(中略)
『プレシャス』はその伝統にきっぱりと終止符を打った。本作はたぶん映画史上はじめての意図的に作られた男性嫌悪映画である。
本作の何よりの手柄は、過去のハリウッド映画が無意識的に「女性嫌悪」的であったのとは違って、完全に意識的に「男性嫌悪的」である点である。本作の政治的意図は誤解の余地なく、ひさしく女たちを虐待してきた男たちに「罰を与える」ことにある。だが、その制裁は決して不快な印象を残さない。それは、その作業がクールで知的なまなざしによって制御されているからである。

男性中心主義の終焉 - 内田樹の研究室

ただ、自分が面白く感じたのは、この映画の表現手法なんだよね。


劇中、プレシャスがレイプされたり暴力をふるわれたりショックなことを聞いたりすると、突然画面が変わる。綺麗な衣装に身を包み、セクシーな男性とMTVのビデオクリップ風に踊りだすプレシャス。それはプレシャスの現実逃避、妄想の映画的表現だ。


ここで自分が連想したのは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、そして『嫌われ松子の一生だ。両作共に主人公がショックを受けたり気持ちが昂ったりする度にミュージカルパートに移行したりCG加工された映像が流れる映画であった。
それらはつまり、主人公の心理の、脳内映像の映像化だ。映画は映像で物語を説明する。従って、妄想も映像として表現される。同時に、映画世界の現実も映像として表現されるので、結果として妄想と現実が映像という同一のフィールドで戦い合うこととなる。伊藤計劃ミュージカル映画を「虚構が現実を圧倒してゆく映画」と呼んだが、つまりはそういうことだ。
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『プレシャス』の大まかなストーリーラインは最初文盲であった主人公が代替学校で文字を覚え、言葉を手にいれ、現実に対向する力を身につけるというものだ。
だが、ここら辺のシークエンスが、自分には引っかかった。文字を覚えたにしては、その成果を披露するシーンが少なすぎると思うんだよね。
普通のハリウッド映画だったら、文字を覚えたことで、今まで馬鹿にされてた奴らを見返すとか、今までできなかったことが出来るようになるとか、そういう胸のすくようなシーンを用意する筈だ。それはつまり、極めて分かりやすい形での妄想の現実化だ。
でも本作にあるのは、なんとかの賞を獲ったという事実を台詞でさらりと説明するとか、仲間とクネクネするとか、その程度なんだよね。同じような学校を題材とした『フリーダム・ライターズ』と比較してみれば、理解して貰えると思う。
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しかし、一方で本作はある種異様な、同時に本作でしかできないやり方で、妄想の現実化を果たしていると思う。


勉学に励むに連れて、例のMTV風の妄想映像は出てこなくなる。それは、プレシャスが妄想という逃避を止め、きちんと現実に向き合っている証に思える。
プッシュ
東江 一紀
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しかし、その代わりに画面に登場するのは何か? 原作者サファイヤより美人な女優が演じる先生であり、すっぴんのマライア・キャリーであり、ナースマンに扮するレニー・クラヴィッツだ。すなわちMTVで放送されるようなビデオクリップで歌ったり踊ったりするような人間達だ。彼らがレズビアンとかすっぴんとか男性看護士とかいったエクスキューズをしつつ、映画世界の現実に登場する。妄想が現実を圧倒しているのだ。


ラスト、プレシャスは「ようやく母さんのことが分かった」という台詞を残し、母から敢然と訣別する。暴力の連差は途切れ、プレシャスが自分の子供達を虐待することはないように思える。それは美人すぎるレズビアンの先生やマライヤやレニクラがプレシャスに与えた力でもある。
遂に妄想が現実に勝利したのだ。