21世紀の鈴木先生

鈴木先生 6 (6) (アクションコミックス)
武富 健治
4575941980

 「鈴木先生」第6巻を読んだのだが驚いた。いや、私はいつも「鈴木先生」面白いなーと思いながら読んでいたのだが、今更漫画を読んで本気で驚くことがあろうとは思わなかった。

 「鈴木先生」が凡百の教師漫画と大きく異なる点、それは過剰さにある。例えば1巻では給食のカレーを「ゲリミソ」と囃し立てる男子生徒や、不人気メニューである酢豚の廃止を残念がる女子生徒が出てきたりした。普通なら先生も親も、そして当の生徒達でさえ日常のヒトコマとして流しそうな、これら事件とも呼べないような事件に対して、主人公である鈴木先生は「何かが引っかかる」と思い悩み、もんどりうちながら考察し、周囲を巻き込み議論する。それは勿論言葉によって行われるのだが、そこに過剰さがある。コマの半分をフキダシが占めていることなどこの漫画にとって珍しいことではない。時には言葉がギチギチに詰まったフキダシにキャラクターが圧迫されていたりする。
そのような過剰な言葉のやりとりからマナーというものの本質や民主主義の限界が浮かび上がってくるのだが、果たして作者は冗談でこのようなことをやっているのか、真剣さ故の天然なのか、判断がつかなかった。

 だが、続く第3話では中学生の性問題が描かれ、それまでと変わらぬ過剰さで、即ち熱意と情熱を伴って、事件に取り組む鈴木先生の姿に、もしかして作者は全部計算してやっているのではないかという思いを抱いた。そして続く2〜5巻でその思いは確信に変わっていくのだが、第6巻には驚いた。

 第6巻で描かれるのは鈴木先生出来ちゃった婚に対する生徒達の反応だ。
今時、デキ婚など珍しいことではない。少子化が社会問題となっている現在、「おめでた婚」と呼び換える風潮まである。現実に中学教師が恋人を妊娠させたとしても、結婚という社会的責任をとっている以上、影で眉をひそめる人はいても、表だって非難する人はいないだろう。
 だが、漫画作品としての「鈴木先生」はそれを許さない。机をコの字型に並べ、簡易裁判を始める生徒の姿に、この漫画なら当然だとさえ感じる。「この勝負に勝って…オレは男になる!!」と気合をいれる鈴木先生に頼もしさを感じ、この期に及んでも同僚教師に「何かを発見するべき場所に行くのに最初からがっちりとした結末を持ち込むわけにはいかんのです!」と宣言する鈴木先生に真摯ささえ感じる。
 とはいうものの、鈴木先生はこの難局をどう乗り切るのか。鈴木先生はこれまで中学生ながらに同級生とセックスしたり小学生とつきあったりする生徒達、そしてその親御さん達に彼なりの指導を行なってきた。その時に使ってきた言葉と折り合いをつけられるのか。

 同僚教師から単なる吊し上げになるのではと懸念された学級会だが、日頃の教育のおかげできちんと議論を進めていく鈴木先生の生徒達。議長を選出し、意見を黒板に版書し、彼らなりにきちんと議論を進めていく中学生達の姿にリアリティを感じられないとする意見もあるかもしれないが、ここまで読み進めてきた読者はリアリティよりもこの議論がどのような展開を経て、どのような決着に至るかに心を奪われていることと思う。
 「責任とって結婚するかどうか」「出来ちゃった結婚はよくない」「先生なので問題」「鈴木先生だから悪い」「結婚していないのに子作りするのが悪い」「子供ができたのに結婚しないのが悪い」……次々と分解され、それぞれについて議論される鈴木先生の「罪」。いつしかそれは普遍的な議論となり、当の生徒達にも無関係なものではなくなってくる。何かを否定することは、誰かを傷つけることでもある。そう、今時の中学生の家庭環境は様々だ。シングルマザーもいれば、出来ちゃった婚により生まれた生徒もいるのだ。

 桂という生徒はいう。「うちはもともと結婚してなくて…ずっと母さん一人で育ててくれたんですけど、私のパパとママはダメな人間だっていうことですか?」
しばしシンとする教室。桂の父さんや母さんを否定するつもりは無かったのだと釈明する同級生。
「でしょうね!わかってるわ!!つまり…気づかないで否定してたわけよ!身の回りにはそれを言っても生々しく傷つく人のいないような…『戦争はいけないと思う』みたいな…読書感想文書く時みたいなつもりでさ…何の想像力もなく理屈で思いついた考えを垂れ流して口に出してたのよ!」

 まさに泥濘のような議論。自らが始めた行為の怖ろしさに、もう辞めようと言い出す生徒まで出る始末。だが、出口の見えない問題に挑む際の議論とは本来このようなものなのではなかろうか。傷つけ合いながらも互いの臓物を引き出し、腑分けするような行為こそが議論の本質なのだ。
 鈴木先生はいう。「何かを発見したり治したりするために手術として腹を切って開くことは悪業ではない。だがやみくもに開腹しといて何も見つけず治さないまま縫い合わせもせず放り投げたら、それは大悪業だ。ここまでやったなら…辛抱してもう少し続けてみろ」

 その後、「シングルマザー」と「出来ちゃった結婚」についてのやりとり、自らの家庭環境の開陳と同意や共感といったものが繰り返されるのだが、そこで口を開いたのは松野という女生徒だった。
「私は…出来ちゃった結婚がダメなのは…経済的な責任をとれないからだって思ってました」
 松野の父親は弁護士なのだが、若い頃は司法試験の勉強にかかりきりで、貧乏のために結婚をしても子供を作ることが出来なかったのだという。やっと弁護士になって経済的に安定した頃には高齢で、高齢出産の為に二回も流産したのだと。
「せめて自分たちは本来するべきじゃないことしてるんだって——それを許してもらってるんだってくらい謙虚な気持ちくらい持つべきなのよ」

 その後、過去の発言との兼ね合いから生徒に試される鈴木先生という緊張感溢れるシーンを経て、出水という男子生徒が発言する。彼こそ第1巻で「ゲリミソ事件」を起こした張本人だった。
 出水の父も研究職で、若い頃とても経済的に苦しかった。だが彼の両親は貧しいうちは結婚などしてはいけないという考え方だったのだという。そこで両親は結婚しないままずっとつきあい続けて、そのうち収入も少しずつ増えてきたのだが一人前には届かない気がし、いつ結婚したらいいのかわからなくなってしまったのだと。
「そんな時ぼくができて…ようやく結婚にたどり着くことができました」ハッとする生徒達。「そんなわけで…うちは出来ちゃった結婚だったんです」

 出水は続ける。「大丈夫だと思う!松野とののしり合いにはならないよ…」実際、松野は何かを悟ったような顔で頷くシーンが続くのだが、読者である我々も、彼ら二人が罵り合わない展開を当然だと感じてしまう。
 このシーンは感動的だった。しかも、二人を見て感化される生徒達の姿も描かれ、彼ら一人一人がこれまでに経験したエピソードが見事な伏線となっていた。捨てキャラなど一人もいない、見事な構成。イデオロギーも生い立ちも異なる二人が、議論の果てに分かり合うその瞬間を、これ以上ないという展開でやり遂げる。私は、「鈴木先生」という作品が、ここまでの地平に到達するとは思わなかった。単に中学の教室の風景を、教育問題として描いただけとは思わない。現実の世界の縮図として、一つの寓意として、教室という場所を利用しているのだ。

「もしこれがこの討論をする前とか…始まってすぐのことだったらけんか腰になっちゃってたかもしれないけど…ボクとしては松野さんの意見にボクの意見を加えることで協力して何か大事な答えを導き出せるような気がして手を挙げたんです!!」

 ここで描かれているのはつまり、近代的な正義とは何か?ということなのではないかと思う。
 前近代、正義という概念に疑いを差し挟むものはいなかった。何が正しく、何が悪なのか、人々はそれをきちんと峻別することができた。
 だが現在、我々は何が正義で何が悪か、きちんと指し示すことができない。もとから善悪というものはそのような性質を持っていたのかもしれないが、ごく一部の知識層だけでなく全階層の人間が多少なりともそう感じているという意味で、これまでとは違う。
 そのような時代の正義とは何か。勿論、特定の価値観を絶対的に正当化することではありえない。唯一の正解は様々な価値観を可能な限り尊重していくことだろうが、単なる価値相対主義ではない。価値観の多様性が許される社会を実現していこうという姿勢そのものが「近代的な正義」というものではなかろうか。

 読んでいる途中、私はこの「鈴木裁判」というエピソードが鈴木先生の最終話であってもおかしくないと感じていた。それまでのエピソードの登場人物はほぼ全て登場し、しかもきちんとした役割を持ち、皆それぞれ答えを見つけていく話になりそうだったからだ。
だが、カバーに書かれていた作者コメントを読み、私は驚愕した。

「@鈴木裁判」は、「@げりみそ」以来の一学期編の各テーマを横糸で有機的に結びつけていくよう内容で、学期末のアチーブメントテストのようになっています。

 今後、「鈴木先生」が我々をどのような新たな地平に誘ってくれるのか、楽しみで楽しみで仕方が無い。