『鈴木先生』とテロリスト

鈴木先生』11巻読了。

11巻感想

鈴木先生』11巻読了。
鈴木先生(11) (アクションコミックス)
武富 健治
4575943150


単行本派な自分は毎回毎回ハァハァ言いながら読んでいるわけなのだが、堂々たる完結だった。
当初から過剰なことが大いにウケていたマンガだったが、最終巻はなんと普段の1.5倍の分厚さ。しかし、お値段は据え置き。
だが一番の驚きは、この段になって岸さんという重要な新キャラを投入してきたことだった。いや、新キャラじゃないな。初読では全く気づかなかったのだが、岸さんはかなり初期段階から後姿で描写されていたのだ。
参考:
ちゃいるどふーず・ねばー・えんど |鈴木先生/岸さんストーキング記録/その1
ちゃいるどふーず・ねばー・えんど |鈴木先生/岸さんストーキング記録・その2
それがこの最終巻で、髪で顔を半分隠しているものの、ハッキリと顔が描かれる。これはようやっと「特に目立つところのないフツウの子」であった岸さんの存在が、クラスの皆に認識されたことを示している。で、岸さんは鈴木先生の挑発的な指導にて、自分の奥底に眠っていた女優としての才能に気づくのだが、才能を爆発させる時だけ、顔が全部みえる。

この岸さんのエピソードは、どうみたって鈴木先生にとって『@掃除当番』の丸山康子のリターンマッチだ。
岸さんも丸山さんも、「目立つ問題児」と正反対の「手のかからない子供」だった。だから、どうしたって教師の指導や励ましは後回しになってしまう。今の教育現場は「手のかからない子供」の放置プレイによって支えられている。先生や生徒ばかりではなく、読者の我々でさえ「手のかからない子供」を認識できず、放置プレイしてしまう。なんという演出。これこそ、マンガでしかできない演出だ。


本題

鈴木先生 全11巻 完結セット (アクションコミックス)
武富 健治
B004WBS3EI

これで『鈴木先生』という物語は完結したわけだ。
第1巻の発売当初、『鈴木先生』は笑えるマンガと受け止められていた。教師マンガにしては過剰な展開。現代マンガとしては過剰な内面描写。青年マンガにして過剰な絵の書き込み。『鈴木先生』は過剰な作者が過剰に力を入れて書き上げた、作者の意図に反して「笑われるマンガ」と受け止められたのだ。


だが、今や『鈴木先生』をそのように評価する人間は少数派だ。『鈴木先生』全11巻を通して、この過剰さでしか表現できないドラマがあり、この過剰さでしか表せない心理描写が展開された。この過剰な絵に、漫画的魅力があった。『鈴木先生』の過剰さは、リアルな学校生活を表すためのものではなく、我々が生きている社会の歪さを象徴としての学校に反映させる為の手法だった。『鈴木先生』の過剰さは、作者の真摯さや真剣さの顕れだったのだ。


全体を通してみてみると、結局、『鈴木先生』はテロリストが他のテロリストに救われるという話を、手を変え品を変え、何重にもやり続けるという話だったのだと思う。


ここでいう「テロリスト」ってのは、マイノリティとしての自分の信条を暴力性を持つ行為で示す人、と定義されるだろう。勿論、『@足子…その後に』で校長が説明しているように、「暴力」とは乱暴な力全てのことで、「暴力性を持つ行為」全てが「暴力」かどうかは状況によって異なる。
これをふまえて『鈴木先生』を読み直すと、それぞれのエピソードの中心人物は全てテロリストだった。


たとえば、『@げりみそ』は、カレーを「げりみそ」と呼ぶテロ行為で自分の信条を訴えようとする話だった。
たとえば『@酢豚』は、酢豚を食べられないマイノリティの無意識の暴力に「酢豚が大好き」という更なるマイノリティが屈し、民主主義はそれを救えないという話だった。
たとえば『@教育的指導』は、「中学生でもセックスしたって構わない」という信条を持ったテロリストが親や学校というシステムに思想的戦いを仕掛ける話だったし、『@鈴木裁判』は、鈴木先生の「結婚前にセックスしたって構わない」が生徒から裁かれる話であると同時に、テロリストである神田マリがテロを諦める話だった。
たとえば『@生徒会選挙!!』は現行の選挙システムに納得いかない西くんが思想的同志をまとめあげ、実際にテロを仕掛ける話だった。


彼らを救うのは、同じくテロリストである鈴木先生だった。同じ道をゆく先達の同士として、同意や共感を示し、真剣に対話し、教師の役を演じて教え、時に教えられる。その過程で生徒達は救われていくのだ。


『@鈴木裁判』において、鈴木先生はこんな台詞を吐いている。

体制の向こうには頭の固い感情的な大人たちが控えている…
彼らの過半数を説得するのはあまりに難しい…


オレは今のところ体制を変えずとも今決められたワクの中で工夫を凝らして――
お前たちに伝えるべきことは伝えられると思っている


そっちに全力を注ぐ方がよほど本質的だし
効率を考えてもずっと生産的でてっとり早いと思っているんだよ


そして…お前たちが立派に変われば――
自然に体制は変わる!

「体制」「システム」「革命」……これはもう、完全にテロリストとしての、テロリストの教師としての台詞だ。
『@教育的指導』での「大人なら秘密を守るべき」という理屈は、「テロリストなら秘密を守るべき」という理屈だったのだ。「立派なテロリストになれ」といっていたのだ。


何故「立派」にならなくてはいけないのか? 『鈴木先生』での「立派」とは、「普通」に対置する言葉だ。
この世界では「普通の人同士で不幸が起こる」。だから「立派」を目指すべきということが『@鈴木裁判』の回想シーンで示される。

2人とも「普通」だ!
ともに「立派」とは言えんがいたって当たり前の――「人間だもの仕方ねェさ」で片付く程度の問題だ…
(略)
ただ…一つだけ言えるのは――2人とも今の「普通」のままでは今後も必ず再び…普通のもの同士で何度でも他人ともめることになるってことだ…


大人たちでもしごく普通に――そうやって互いにもめながら多くの人が暮らしている…
お互いに気分を害したり…時には周囲に迷惑をかけたり――流血沙汰になったりもしながら…仕方がないそれが人間だものと認め合って…自分を変えずに生きている
(略)
だがもし…いさかいがイヤだと思ったら――例えばさっき言ったようなふうに自分を変えることもできる…
そうすればその人は「普通」以上になる――つまりまあ…ちょこっと「立派」な人間だな…


そうすれば「普通」にしていたらもめているはずのところでもめずに済むし――
おまけとしてちょっと人から好かれたり 一目置かれたりするかもしれん…


もしその気になったら自分を変えてみろ!そしたら少なくともオレは一目置くぞ…
別に…そんなの嬉しくないかもしれんがな…


この「普通」という言葉で生徒を指導し、追い込んでゆく、鈴木先生は立派なテロリストであり、テロリストの教師だ。


だが、このような鈴木先生の思想信条も、常に試され、裁かれる。桃井先生や山崎先生、岡田先生や足子先生といった面々は別のテロリストであり、鈴木先生の影法師だ。
彼女がいなければ、鈴木先生も山崎先生のようになっていたかもしれない。疲労が溜まれば、鈴木先生も足子先生のようになっていたかもしれない。彼らは「普通」の教師だった。
一方、桃井先生や岡田先生は「立派さ」を持った教師だ。だから、相容れないところもある筈なのに、「バツが悪くてもおどけて苦笑してなごむ」ことができる。
たとえば岡田先生は西くんというテロリストに完全敗北した。しかし、「立派」な大人であるので、桃井先生や山崎先生のように自分を見失わずに済んだ。自分をちょっとだけ変えることでテロリスト同士の流血沙汰を避け、生徒というテロリスト救うことにも繋がった。彼らと生徒たちとの関係は、あるべき「立派」な大人の姿だ。だからこそ彼らは物語の最後の最後まで、教師を演じられたのだ。


そして最終巻、遂に最強のテロリストが登場する。本当のルサンチマンを胸に秘め、本当の暴力を使いこなす、本当のテロリスト、ユウジだ。
しかも、彼が誕生した直接的なきっかけは、「公園の喫煙所」が「普通」の人々のクレームで潰され、システムがそれを認めたことだった。鈴木先生や川野先生も過去に利用していた喫煙所だ。鈴木先生や川野先生も、学校の喫煙所という居場所がなかったら、ユウジのような凶行に及んでいたかもしれない。
煙草を吸いながら、川野先生は疲れた顔でいう。

世の中いろいろとキュウキュウとしてきて…正直たまらなくなりますね
わたしはもう…キレて犯罪に走る若者を――心の底からしかりとばすことができません


その前にはり倒さなきゃいけない人物が一般の中にたくさんいる感じがしましてね

ユウジもまた、鈴木先生や川野先生といった立派なテロリストたちの影法師なのだ。


だが、ユウジのテロは失敗する。
鈴木先生の生徒達は、宅間守や加藤智大のように教室に飛び込んだユウジに対しても、自分たちを見失わず、冷静に対処した。鈴木先生の教育的指導――「普通」をこえて「立派」になれという指導の賜物だった。「げりみそ事件」「鈴木裁判」「生徒会選挙」といった経験が、彼らを鍛え上げたのだ。個々人がテロリストになれるほどの「立派さ」があれば、テロに対抗できるという構図がここにある。

勘の鋭い者はそろそろ気づいているようだが…今話していることは演劇訓練を潤滑に進めるための手段ではない…!
己を知ること…
そしてそれをコントロールすること…
何をどうすれば何がどうなるか…
自分がどう動けば全体にどんな影響を及ぼすのか…
こうしたあらゆる「関係」に鋭敏になること!
これこそが演劇に取り組むにあたっての最も重大な訓練なんだ!


そしてユウジもまた別のテロリストに救われる。『鈴木先生』における最強のテロリスト、小川蘇美だ。
そういえばこの作品で、唯一心理が克明に描写されず、唯一最初から完璧なのは小川蘇美だけだった。全ての登場人物の学びの中心にいたのは小川蘇美だった。鈴木先生ですら「神の娘」である小川蘇美に何度も何度も学び、救われているのだ。
普通なら、彼女は作品のバランスを壊す存在だ。
彼女が何故「神の娘」だったのか。何故、物語が始まる前からバターナイフを持っていたのか。何故、小川蘇美をみて丸山康子を思い出すのか。何故、丸山康子は突然死したのか。何故、丸山康子は「私の中に入った」のか。そして何故、『鈴木先生』はシリアス極まりないドラマなのに、時折爆笑してしまう一面があるのか。そういったことが「あとがき」でよく分かった。
そんなわけで、『鈴木先生』で一番感動したのは、この11巻に掲載された作者自身による「あとがき」だった。自分の中にもテロリストが入った、そんな気がした。



……と思いきや、作者のホームページをみると、驚愕の一文が。

第一部最後の大長編「@神の娘」編後半部スタートです!

http://www.oxna.net/books.html


我々はまだ『鈴木先生』という物語の入り口に立っているに過ぎないのかもしれない……