『キャタピラー』と『鈴木先生』

少し前からうちのブログの人気エントリ第一位は丸尾末広による漫画版『芋虫』の一コマだったりする。



芋虫プレイ - 冒険野郎マクガイヤー@はてな


芋虫 (BEAM COMIX)
江戸川 乱歩 丸尾 末広
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理由はハッキリしている。若松孝二の『キャタピラー』だ! 正確に書けば、『キャタピラー』の主演女優の寺島しのぶベルリン国際映画祭にて最優秀女優賞を受賞したとの報がなされてからこちら、「芋虫 乱歩」の画像検索でやって来る人ばかりなのだ。


これは若松孝二にあまり興味のない自分も観なければならぬ。
そう思って『キャタピラー』を観たのだが……あんまり面白く無かったよ。Twitterやブログなんかでは高評価な感想が多かったので、意外だ。


なんでつまらないと感じたのか。つらつら考えてみる。
たとえ正式に原作とクレジットしていなくても、この映画はどう考えたって江戸川乱歩の『芋虫』をベースにして成り立ってる作品だと思う*1のだけれど、センセーショナルな素材を使い、「反戦」というテーマで一丁仕上げました! という安易な印象を受けるんだよね。


それが一番象徴的に表れているのが御真影や勲章の使い方だ。


『芋虫』では、手足を失って肉塊と化した主人公は最初こそ自分の武勲を伝える新聞記事と勲章といった「二た品」を自分の前に並べるよう要求するものの、すぐに興味を失ってしまう。

だが、彼女が「名誉」を軽蔑しはじめたよりはずいぶん遅れてではあったけれど、廃人もまた「名誉」に飽き飽きしてしまったように見えた。彼はもう以前みたいに、かの二た品を要求しなくなった。そして、あとに残ったものは、不具者なるがゆえに、病的に激しい肉体上の欲望ばかりであった。かれは回復期の胃腸病患者みたいに、ガツガツと食物を要求し、時を選ばず彼女の肉体を要求した。時子がそれに応じない時には、かれは偉大なる肉ゴマとなって、気違いのように畳の上を這いまわった。
江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)
江戸川 乱歩
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それが『キャタピラー』では、最後まで勲章にこだわり続けるんだよね。


勿論、同時に妻の肉体も要求するよ。
その濡れ場シーンも、「芋虫」とセックスする寺島しのぶの演技は確かに熱演だと思うのだけれども、『芋虫』という作品を映像化するにあたっては最低限必要な演技をこなしているだけ、ともいえる。なんかいかにも外人が賞賛しそうな感じ、とでも言おうか。
むしろ、「フリークスとのセックス」というせっかくの見せ場を、こんなにも退屈で平凡な構図やカット割りで済ませて良いのか? 「表現」として観客の心を動かす力はあるのか? セックスする男女の情動や愛憎を映像表現として表すなら、本作に勝る「表現」はAVに幾らでも見出せるのではないか? ……なんて考えてしまったよ。


なんか上手くいえないのだけれど、乱歩が「エロス」や「嗜虐」という深海に挑む為に軽く通過した「戦争」や「反戦」という浅瀬に脚をとられてしまったという印象だ。
というか、もしかするとこの監督は「エログロ」よりも「反戦」の方が高尚で深遠なテーマであると勘違いしているのではなかろうか?


それと、全体的に演出が安易なんだよね。
たとえば、劇中ではラジオから大本営発表玉音放送が流れるシーンがあるのだけれど、なんとその内容が口語訳されてテロップで示されるのだ。それだけじゃなくて、エンディングテーマとして流れる元ちとせの歌の歌詞や、太平洋戦争の死者数までテロップで表示されるのだ。正直、げっそりした。これ、どこのテレビ局製作の映画だよ! と思ったよ。



キャタピラー』には何か足りない。
反戦のメッセージは理解できるのだけれども、心を動かされない。
でも、乱歩の『芋虫』や丸尾末広による漫画版では、そういうことは無かった。それは何故か? その違いはどこにあるのか?
……そんなことをうんうん考えながら日々を過ごしていると、この前単行本が出た『鈴木先生』第10巻に「これぞ!」というシーンがあったので紹介したい。


鈴木先生(10)ーアクションコミックス
武富 健治
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文化祭で『ひかりごけ』を上演することになった鈴木先生のクラス。学生時代に演劇に打ち込んでいた鈴木先生は「鈴木式」演劇指導で生徒達を圧倒する。
「鈴木式」演劇指導も終盤に入ってきた頃、鈴木先生は「上演についての心得確認」と称して『ひかりごけ』のテーマを生徒達に問う。口ごもる生徒達。ニンマリする鈴木先生。以前なら、みんな堂々と自信を持って迷わずに述べていたはず。それをしなかっただけでもこれまでの演劇特訓の甲斐があった。その自分で疑わしいと思った答えを言ってみてくれ、と無理やり口を開かせる。

「…人肉を食べるということに対して――
頭でっかちの偏見で他人の極限状況をちゃんと想像もせず非難することの是非――」
「せ…戦時中の思想統制による思考停止とヒステリーの恐ろしさ…」
「人が…人を裁くことのおろかさ…難しさ…」


そういった生徒達の絞り出すような回答に対して、鈴木先生は満足そうにこう応えるのだ。

「――うむ
これらはどれも国語のテストの回答としては悪くない…
なかなかに優れた感想だ」


「だが――
言った本人たちがするどく悟ったように、
演劇をやる上での解釈としては不合格となってしまう…!」


「今のような解釈を前提に芝居を作れば――
観た人間の口からも…おおよそ似たような感想が出るだろう」


「そんな感想をすらすら言われるようじゃ――
その芝居は失敗だ!」

「!?」
「!!」

驚く生徒たち。この先生、なんてこと言い出すんだ!

「なぜならそれは――
観客が…安全な檻の外で――
作品のテーマをゆるく消費して片付けてしまった
証拠に他ならないからだ!」


「そしてそれは時として――
演じた側もがお手軽に自己実現の手段として
この作品のテーマを利用してもてあそび
観客と共犯でちょっとためになるような気分を
ひと時共有して味わったという
ユルさの証明にすらなりかねん」


「ちょっととりつくろうのが上手い観客なら
自分が安全地帯にいて物語を消費したことを隠すため
こんなことを言うかもしれん


”自分もその時代にいたら
船長を責める側についていたかもしれません、
本当におそろしい”」


「そんなのっぺりした感想など絶対に言わせるな!
言わせたら負けだと思え!」


唖然とする生徒達。
鈴木先生の演劇にかける熱量は本物だ!


「知っての通り…
戦時中の狂気がどうとか
人肉食の是非がどうだとか…
我々現代の日本人は――
こういうことについては案外と平気で他人事として考えたり
おしゃべりしたりすることが出来てしまうものだ」


「だから…
作品に描かれた表面的なことをそのまま再現したのでは――
それをいくら深刻に激しく本気でやったにしても…
作り手と観客の「真剣ごっこ」で終わってしまう」


「この作品は…
戦時中の――人肉食の問題を素材として使いながら――
我々が現代の今!
日常的に犯しがちなのがれがたいおろかで悲しい罪…
業について――
寓話として象徴的に…
かつ同時に生々しく描き切っている!
この両立がこの作品の命だ!」


他人の褌を借りるようで心苦しいのだが、この鈴木先生の言葉は、私が『キャタピラー』に感じる不満にそのまま当てはまってるように思う。


と同時に、「寓話として象徴的に…かつ同時に生々しく描き切っている!」ってのはさ、『鈴木先生』という作品そのものや作者である武富健治自身の作劇論への自己言及でもあるんだよね。


ちなみにこの後、「寓話として象徴的に…かつ同時に生々しく」するには具体的にどうすれば良いのか、鈴木先生が熱弁をふるい続けて生徒達をオルグするシーンが続くので、気になる方は読んでみて欲しい。
ここら辺は『鈴木先生』という作品における一つのクライマックスだと思うのだが、まさかゲリミソとか酢豚とか言ってた1巻を読んだ時はここまで凄い話になるとは思って無かったよ。

*1:たとえば主人公の顔の火傷の跡は原作準拠