一人称マジック:『告白』

巷で話題の『告白』を観たのだが、面白かったわー。
告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)
湊 かなえ
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映画版があまりに面白かったので原作も読んだのだが、こちらも面白かった。映画と原作を比較すると、映画版は原作のストーリーや主題を変える事無く、映像化にあたっての仕掛けをここれでもかれでもかと詰め込んでいる印象を受けた。
押井守は何かのインタビューでカット毎に観客の期待をいい意味で裏切るのが演出家の仕事だと言っていたけど、PVやCM出身の監督はそういうのが上手いよね。つまらない監督だったらTVドラマみたいに月並みに映像化して、原作小説と同じ六部構成にして、一人称ナレーションをつけて終わりってことになると思うのだが、やっぱり『下妻物語』や『嫌われ松子の一生』を撮った監督は違うよね。多分、原作者の湊かなえ大喜びなんじゃあるまいか。
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で、映画と原作を観たり読んだりして、ちょっと思ったことを書こうと思う。


自分は一人称で書かれた小説というのが好きなんだよね。小説というものの肝の一つは視点をどこに置くかということにあると思っているのだけれど、一人称小説は三人称(一元描写)の小説よりも、視点の独特さというものを強調し易いと思う。語り手の主観を形成する様々な要素――性格、性向、教養、偏向なども、語り手の語りとして、三人称小説よりナチュラルに語ることができる。
もっといえば、我々は現実というものを三人称で捉えているわけではないよね。三人称で物事を認識できるのは神か死人だけだ。人間である限り、一人称で――主観で物事を認識せざるをえない。セカイというものを俯瞰から箱庭的に眺め、必要に応じて様々な登場人物にズーミングするのが三人称小説とすれば、セカイを登場人物の視点で切り取り、その断片を寄せ集め、物語を紡いでいくのが、一人称小説だと思う。で、自分は後者の方が好きなわけだ。


さて、原作である『告白』という小説は、5人の登場人物の告白から成り立っている。つまり、複数の人物の一人称から成る連作集だ。この形式の面白さは何かというと、とある人物の目から見た人物評価が実際は全く間違っていたり、同じ人物や出来事でも語り手によって全く認識が異なることを強調できるところにあると思う。


で、映画版『告白』も、5人の登場人物の告白を一人称ナレーションでカブせている。原作小説が章ごとに語り手を変えていたのに対して、映画版はシーン毎にナレーションの語り手が錯綜したりするものの、5人の一人称で一つの物語を構成するという点は同じだ。


ここである疑問が頭に浮かぶ。映画における一人称とは、いったいどういうものなのだろうか?


映像における一人称の定義は簡単だ。それは人間の*1眼球から見た視点、すなわち一人称視点からの映像だ。いわゆるファーストパーソン・シューティングゲーム、すなわち『CALL OF DUTY4』や『Halo』といったFPSをプレイすれば、一人称視点の映像がどういうものか、すぐわかるよね。


しかし、映画における一人称を定義することは難しい。
まず、単に一人称視点映像の羅列を映画とは呼ばない。勿論、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』や『クローバー・フィールド』のように、ホームビデオからの主観的映像を模した映画というのは存在する。だが、それらはカメラマンの心情や心理を描写しているわけではない。『クローバー・フィールド』のカメラマンはただ単に怪獣が出現しても撮影をやめない根性のある素人カメラマンであるに過ぎず、彼の心情や心理は全く伝わらない。観客に伝わるのはカメラの前で逃げ惑うカメラマンの友人ロブの恐怖や絶望であって、ロブの視点で物語は進む。『クローバー・フィールド』はロブの物語であって、カメラマンの物語ではない。つまり、映像の視点と映画(物語)の視点は必ずしも一致しないのだ。
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つまり、映画における一人称とは、単に一人称視点の映像を意味しない。誰の視点から物語が描かれているか、誰の心理や主観が反映されているか、ということと密接に関わってくる。
たとえば『ジャーヘッド』なんかは徹底徹尾一兵士の視点から描かれた映画だ。これに比べると『プライベート・ライアン』や『ブラックホーク・ダウン』などは、軍隊の上層部や敵側の視点も多少含まれる映画といえる。
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逆にいえば、たとえ同じ映像でも映画内における文脈で意味が異なってくる。具体的にいえばモンタージュとナレーションだ。
特にナレーションの力は大きい。
どんな映像でも「僕は○○と思った」というナレーションをカブせれば、強制的に「僕」の物語に改変することができる、「僕」の映画にすることができるのだ、表面上は。『ロード・オブ・ウォー』なんかが具体例になるだろうか。
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で、映画版『告白』だ。


この映画の凄いところは、ある部分では一人称ナレーションを完全には信用できず、ある部分では映像を信用できないところにあると思うんだよね。誰がしかのナレーションが鳴り響いているシーンでも、文脈とは全く異なる映像が映し出されたりする。映像には違う意味が込められていたりする。


以下ネタバレ。


たとえば少年Aの告白だ。
彼はとある女の子とつきあうことになるのだがそれを「単なる暇つぶし」と呼ぶ。勿論、一人称ナレーションの中でだ。
しかし、画面に移るのは超美少女然とした橋本愛が微笑む姿だったりする。で、ああこいつは今まで見下していた同級生の一人にすっかりホレてしまった自分というのを見せたくなくて、なによりも自分で認めたくなくて、こういうことを言っているのだな、なんて思うわけだ。ちなみに「暇つぶし」という表現は原作に登場しない。


たとえば中盤で少年Bや少女Aが中学生活を説明するシーン。そこに映されるのは、まるで一昔前の学園ドラマのように粒子の粗いザラついたフィルムで、楽しげに微笑む中学生だったり、男女がどこぞのプロモーションビデオのようにイチャついたりする姿だったりする。学生が教室の中で演劇的に踊ったり、カーブミラーの中で男女が括弧つきの愛や真実を「告白」したりする。それらはすべて何がしかのメタファーだったり心象風景だったいするのだが、そこに一人称ナレーションが加わると、また違う意味を見出すことも可能になってしまう。


で、このような一人称ナレーションと映像の不一致が何に帰結するのかというと、松たか子演じる森口悠子先生がやっているのが復讐なのか、それとも本当に命の大切さを教える為の教育なのか、よく分からなくなるんだよね。
まさか森口先生のナレーションを字義どおり受け取って、この先生は教育熱心だねー、偉いねー、なんて考える観客は一人もいないだろう。「これは復讐ではありません、教育です」というナレーションみたいな台詞と共に映し出されるのは快心の笑みを浮かべる松たか子のアップだし、彼女がファミレスで見知らぬ少女から飴を受け取った後に嗚咽するシーンは、やはりそれなりに意味があるんだよね。ちなみにこのシーンも原作にない。


しかし一方で、森口先生のやった「復讐」のおかげで、少年Aも少年Bも命の大切さというものを心底実感したというのも事実なわけだ。たとえば映画の中盤まで、同じように虐められていた女子に共感して痛みを知ったり、自分を傷つけるほど反省したり、というふうにみえる、表面上は。それは一人称ナレーションを信用しなければ、という話なのだが、実際の子供はどこまでも自分勝手で他人の命など理解しない生き物であるのかもしれない。我々は自分が子供だったころを忘れているのだ。子供が現実を知り、世の中のルールを知り、社会化していく過程は子供当人からみればこのようなものかもしれないのだ。


一方で、どこまでも自分勝手で他人の命など理解しない生き物であるのは大人も同じである、ともいえる。真っ先に思いつくのはモンスターペアレントである少年Bの母親で、彼女の一人称ナレーションで語られる世界観は息子のそれと同じく字義通り素直に受け取れないものである。
また、どこまでも自分勝手で他人の命など理解しない生き物である大人といえば、森口先生だってそうじゃないかという見方も可能だ。自分の復讐をやりとげる意志の強さを確保する為に教育という言い訳を利用したのか、本当に教育的効果を最大限発揮するために一見復讐にみえる手段をとったのか、映画を観終わった後も判断がつかないのだ。そこが上手い。


何故上手いと感じるのかというと、ひとりの人間にとっての現実というものは、そういうものだからだ。我々は他人のナレーションが聞こえるわけではないし、自分の脳内ナレーションで自分を騙すこともあるのだから。


最後の「なんちゃって」という台詞も、原作にない。

*1:人間じゃない場合もあるけど