菌塚探訪 その1

 出張で京都に行ってきた。私の出張はだいたい学会参加が目的なのだが、今回も学会だ。
 その昔、学会とは観光旅行であると偉い先生は言っていた。なんと正直な!と驚かれる方もいらっしゃるかもしれないが、別に学会をサボって観光しまくるという意味ではない。事前に抄録集を良くチェックし、効率的に発表を聞け、という意味だ。事前に参加サークルや新刊本の有無を良くチェックして当日は計画的に同人誌を買いあさるコミケと似ているかもしれない。私はコミケ行ったこと無いけどな!

 そういう事前調査を徹底的にやるので、この時間帯はまったく聞きたい発表がないというコマが連続して数時間続くことが予めわかっている時がある。そのような状況においてのみ、本当に観光に行くわけだ。
 今回もそのような状況があったので、というか総会に参加する人などいるのか?という話で、かねてから興味のあった菌塚に行ってみた。
 菌塚とはどういうものかというと、以下以前に書いた文章の改変。

 それは修士課程でのある授業の事だった。私が通っていた大学院は「院生は授業を受ける暇があるなら論文読むか実験しろ」という方針だったので、ニ週間に一コマしか授業が無かった。だから逆にどの授業も神妙に聞いていた思い出がある。
 その授業の講師は授業中、学問について熱く語りたおす事で有名であり、私は学部生時代から彼の授業に注目していた。他にもそう思っていた人はいたようで、事実、彼の研究室を志望する者は多かった。
 その授業は彼が数十年前から現在まで研究に使用しているマテリアル、放線菌についての授業であったのだが、彼はスライド映写機を用意していた。どうやら学会発表で使用したスライドを使って授業をするらしい。

 パワーポイントで作成したグラフや概念図という大方の予想を裏切って、そこに映し出されたのは一枚の石碑の写真であった。発表の最後に研究室メンバーの紹介などで写真を映し出すのは、特に海外の研究者にありがちなのだが、最初に映し出すのは珍しい。何か研究の発端となった出来事でも話すのだろうか?私は注意深くその写真を見ると、その石碑には菌塚と書いてあった。
 彼は言った。
「これは京都の曼殊院という寺院に研究仲間と一緒に建てた“菌塚”というものです。私は大学院入学以来、一貫して細菌の研究をしてきたのですが、実験に使用して死んだ菌を悼む為に、仲間とこの菌塚を建てました」
 思わず話にひきこまれた私。きっと他の院生も同様であったろう。
「このように細菌にも魂があって、それを慰霊するという考え方は、八百万の神と言われるように、あちこちに魂があると考える日本人独特のものかもしれません。いや、もしかして、当の日本人ですら細菌に魂があると考える人は少ないかもしれません。しかし、私は海外で発表する際、必ずこのスライドを最初に映すのですが、優秀な研究者ほどこの考えに賛同してくれ、発表後に(菌塚や細菌の魂のことで)声をかけられたりします」
 そして彼は続けた。
「皆さんはもうすぐ修士課程を卒業されるわけですが、博士に進学して研究生活を続ける人もいれば、就職して研究とは離れる人もいるかもしれません。しかし何れにせよ、是非とも自分のやってる事に関して、魂があると感じてしまうほどのこだわりを持ってほしい」

 なるほど。当人が人間やその他の動物にいわゆる「魂」があると考えている・いないに関わらず、細菌に「魂」があると考えている者は少ないだろう。特に研究者は日常的に10の数百乗匹の細菌や細胞を破裂させたり、すりつぶしたり、超音波で破砕したりして大虐殺している。しかしその事に罪悪感を感じている人はいないし、いたとしたら間違いなく変人だ。
 だが一方で、研究者は人間やウサギやマウスが、どれほど細菌と似かよっているかを知っているし、共通の祖先から枝分かれした生物である事も知っている。だからこそ疾病モデルや材料として実験に使用するのだが、その延長で我々と同じように「魂」があると感じてしまうのは自然な事であるとも言える。
 私には細菌に「魂」があるかどうかはおろか、人間や他の動物に「魂」があるかどうかも解らない。だが「魂」が存在するかどうかの議論と、死んだ生物を悼む気持ちとは別だ。そして他の生物に対し、自分自身と同じような存在であると感じ、敬意を払う態度も重要だと考える。もしかしてそのような気持ちや態度こそが「魂」の存在に不可欠なのかもしれないとも思う。
 「魂」についてどんな考えを持つ人間にとっても、チューリング・テストを例に挙げるまでも無く、そこに「魂」があると本気で感じるのならば、そこには誰がなんと言おうとも「魂」はあるのだ、その人にとって。

(続きます)