モンタージュの魔:「精神」

すっかり日本のドキュメンタリー映画にハマってしまったので、またもや宇多丸師匠お勧めの「精神」を観にいってきた。


想田和弘監督による「精神」は岡山にある外来の精神科診療所に取材したドキュメンタリーだ。ナレーション無し、テロップ無し、BGM無し、そして、なんとモザイク無し。私は一応医療系の企業に勤めていて、医療系の大学院に通っているので、この凄さがよくわかる。これは革命だ。
念の為に書くと、これは50年前とか100年前とかに撮影されたフィルムではない。現代日本で撮影されたドキュメンタリーだ。だからさ、岡山にいったらこの映画に出ていた患者さんと道でバッタリ会うかもしれないわけだよ、いや、逆か。この映画に出演している患者さんが、道でバッタリこの映画の観客と出会うかもしれないわけよ。で、色眼鏡で見られちゃう可能性も当然あるわけよ。周囲に自身が精的神疾患を患っていることを隠している人もいるわけよ。でも、この映画はモザイクを使わない。もう一度書くが、これは革命だ。


ナレーション無し、テロップ無し、BGM無し、そしてモザイク無し。結果としてこの映画は、誰が患者で誰が診療所のスタッフなのか、その境界を曖昧にし、判断を観客に委ねることとなる。


たとえばこうだ。映画の冒頭、男女二人が会話している。どちらもそれなりに太っていて、モゴモゴとした話しっぷりだ。二人とも精神病なのか?それとも、どちらかが患者で、どちらかが医者なのか?二人の会話を注意深く聞いていれば分かってくるのだが、初見ではわからない。
どちらが正常でどちらが異常か?いや、異常とは何か?そもそも、正常と異常の境界などあるのか。これは、初登場シーンから、一方の側に「統合失調症 ○○才」、もう一方に「こらーる岡山 山本昌知」なんてテロップをつけていたら、全く味わえない感覚だ。判断するのは観客だ。なにも考えないことは許されない。この映画は、観客に思考や判断や考察を強制し要求する、恐るべき映画なのだ。

モザイクをかけると患者とそうでない者の関係が固定化され、見てはいけない、触れてはいけないというタブーを拡大再生産するからです。さらに、モザイクをかけることは撮影される側ではなく、撮影する側を守るものだという認識を強く持っていました。出ている人の顔を隠せば、おどろおどろしいBGMを流して異星人のように描いても、責任を追及されない。モザイクは、制作者の被写体に対する責任の放棄であり、映像の自殺といってもいい

http://www.cyzo.com/2009/06/post_2099.html


で、この映画には何人もの精神病患者が登場するのだが、少し驚いてしまうのは彼らの普通さだ。「異常さ」に対置する「普通さ」と言い換えても良い。
例えば新聞やニュースで、我が子を殺した母親のニュースを知ったとする。大抵の人はなんて非道い母親だ!と怒るだろう。だが、新聞やニュースで間接的に知るのと、彼女が自分の言葉でそれを語る映像を観るのとでは、受ける印象が圧倒的に異なる。まして、そんな彼女が介護ヘルパーのおばさんに「ダイエットになるから自分で掃除しなさい」と促され、狭い自室の床を這い蹲るように雑巾掛けするさまを見せ付けられれば、印象は確実に変わる。


想田監督は自身のスタイルを「観察映画」なんて名づけているが、強調したいのはこの映画、ナレーションもテロップもBGMも無いけれど、単なる映像の羅列ではないということだ。監督は漫然と撮影して編集しているわけではない。
例えば冒頭の会話で、いきなりカットが割られて女性の手首のアップが映し出される時がある。その手首は切り傷で一杯だ。そう、リストカットの跡だ。
だが、ここでカットを割らず、女性の手首が画面の端に移りこむだけにしておけばどうなるか?映像の意味合いは全く変わってくる。後者では分かる人には分かる描写に留めているのに対し、前者では監督の意思が伝わってくる。そう、ここで監督はこの女性患者が自殺願望を抱えていることを強調したいのだ。
もう一つ、映画の終盤部で、菅野さんという患者が自作の詩や写真を披露し、その場にいる全員が和むというシークエンスがある。嗚呼、精神病の患者といえどもその内面には豊かな知識や感性があり、健常者と変わらないのだなぁ、と多くの観客は思うだろう。だがその直後、猛烈な勢いで市役所にクレームの電話をかけまくる患者のシークエンスが続き、映画は終わる。単純に、この二つのシークエンスの順列を逆にしただけで、劇場を出る観客の抱く印象や感情は相当変わった筈だ。


こう考えると、他の映像も気になってくる。
インタビューとインタビューの合間には、診療所周辺や岡山の町の様々な風景が挟まる。地下道に座り込んでダベる女子高生、自転車の籠に入れられて移動する犬や猫、壁に貼られた共産党のポスター……。これらは対比か?それとも隠喩か?はたまた、批評的意味合いがあるのか?


つまりさ、この映画の凄さってのは、ナレーションもテロップもBGMも無いけれど、監督の意思や価値観というものは映像的文法を通して、ちゃんと表出しているのだよね。そして、その上で観客にも観客なりの思考を求める。コミットしないことは許されない。つまりは観客が鑑賞することで「映画」が完成する、実に映画らしい映画であった。


精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)
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