モザイクが守るもの:「精神病とモザイク」

精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)
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映画監督の書く文章が好きだ。普段は映像というメディアで語る彼らが、文章というメディアにおいては、感性よりも論理に重きを置くからだ。欲求不満を爆発させるのか、饒舌かつクールな文章を繰り出してくるのが気持ち良いからだ。
故に、押井守黒沢清の新刊はだいたいチェックしているのだが、「精神」の監督である想田和弘の著書「精神病とモザイク」も気になり、読んだ。クールだった。


早い話、この本はメイキング+関係者の座談会や対談を収めた本である。これをこのまま映像化したらDVDの特典になりそうな内容だ。にも関わらずクールだと思える点は、想田監督の理想とするドキュメンタリーなり、映像なり、作品なりが、すっきりした文体で言語化されている点にある。

第五に、ナレーションやテロップによる説明、音楽を使わない。今述べた通り、ナレーションは撮影現場を堕落させる。「ナレーションはなし」と決めてしまえば、後でそれに頼れないわけだから、自ずと撮影方法も変わってくる。
また、ナレーションや説明テロップや音楽には、本来多義的である筈の映像を一義的で平坦なものに変えてしまうという、大きな弊害がある。例えば、ある人物をナレーションなしで映し出すとする。観る人は、彼を「太った人」と思うかもしれないし、「笑顔の素敵な人」と思うかもしれない。ところが、そこに「躁うつ病を患う○○さんです」というナレーションを入れたらどうか。その瞬間に、映像の多義性が失われ、「躁うつ病患者の絵」という一義的でフラットな記号に堕してしまうのである。


「堕落」とか「堕してしまう」とかいう単語の使い方が印象的だ。当然、監督はモザイク使用も「堕落」と考える。


その態度の貫徹が、思わぬ場面で思わぬ効果を生んだというエピソードも紹介されているのだが、これが強烈だ。

例えば、「精神」を観てくださった、テレビ番組の作り手たちは、そのほとんどが「モザイクなしでこんな映画を作るなんて、患者さんも診療所も相田さんも、すごい勇気ですね」と情景の眼で賞賛してくれた。ところが、いざ彼らがテレビ番組で映画を取り上げようという段階になると、モザイクなしであることそのものが、大きな障害になった。
というのも、映画を紹介するためには、その一部をクリップ映像で見せる必要がある。ところが、それをモザイクなしで見せて本当に大丈夫なのか、本人や家族や一般の視聴者から苦情が来たりしないのか、テレビ局側としてははなはだ不安になるのである。とはいえ、作品の趣旨が趣旨であるだけに、クリップ映像にモザイクをかける訳にはいかないし、僕がそんなことを許すはずがない。大きなジレンマである。その挙げ句、クリップ映像は使わずに、僕のインタビューだけで番組を構成しようという苦肉の提案すら受けたりした。
実は、僕と配給会社は『精神』の広報活動の戦略を練る際、テレビを含めた日本のメディアが、映画やそれに出ている患者さんたちをセンセーショナルに、いわばホラー映画のように扱うことを、最も警戒していた。そのための対策も、いろいろ議論したりした。
ところが、それは僕らの杞憂に過ぎないことが分かった。メディア側はむしろ、映画の登場人物やその近親者を傷つけたり、彼らから反感を買ったりしないよう、最新の注意を払っていた。腫れ物に触るがごとく、警戒していた。
そしてそういった態度は、患者さんの顔にモザイクが掛かっていないことにこそ起因していることは明らかだった。モザイクが無いので、映画を取り上げる彼らにも被写体に対する責任が生じ、やりたい放題するわけにはいかないのである。
それは僕にとって、驚くべき発見であった。同時に、モザイクを掛けることがいかにメディアに責任を放棄させ、堕落させてきたのか、再認識させられた。モザイクを掛けないことが、実は被写体のイメージを守っているという、その逆説に、宇宙の真理を発見したかのような感動を憶え、身が震えた。


そうなんだよね。最近のテレビ番組は、お笑いであるバラエティー番組でさえ、屋外ロケする時はモザイクばっかなんだよね。
で、それは写り込む一般大衆を守っているようにみえて、作り手を守っているだけなんだよね。そのことに自覚的であるか否か。責任を取るか否かが、作品の「重さ」や「強烈さ」に繋がるのだな。背負っているものが大きなヤツほど強い、みたいな。


その他、撮影助手を務めていた奥さんがインタビューに影響されて精神的に不安定になり、取材対象である山本医師の診察を受けることとなるのだが、「これは面白い展開だ!」とばかりにそのシーンを撮ろうとしたら、奥さんからこっぴどく怒られたことや、診療所からすんなり「患者さんに許可をとること」という条件で撮影許可が出て、信用してもらえたと嬉しがっていたら、診療所が信用していたのは監督ではなく患者の判断力であったことなど、イイ話が一杯だ。
また、座談会や対談では、結局この「精神」という映画は患者が本当に苦しんでいる場面をカメラに収めていないこと、取材対象であるこらーる岡山が奇跡的なまでに良心的な診療所であることなどに、きちんと触れられていて、大変興味深い。


特に、最後に収められている斉藤環*1との対談が凄い。

相田:やはり外来の診療所よりも、入院できる施設のある病院のほうが、経営的には楽なのですか。
斉藤:それは楽です。一〇〇床以上あると、社会的入院の人をどんどん取り込んで生活保護を申請してしまうわけです。そういう人は入れておいて、絶対治療費の取りっぱぐれがないからです。だから自動的にお金が入ってくる。
古い病院には今でもそういうところがありますが、入れたら入れっぱなしで、医者がほとんど入院患者の面接をせず、状態をチェックしないのです。私が今いる開放病棟は六〇床しかないので、週二回以上は面接できていますけれども。大きい病院の慢性患者さんは、精神科医の悪口で昔からよく「牧畜業者」と言われますけれども、群れとして扱われてしまうのです。ひどい話ですが事実です。
これは本当に怖い話で、なにしろ患者さんは文句言わないですから。たぶん地方の大病院でまだそういうことをやっていると思います。これは一番誤解されていますが、今医療の中でもっともクレームをつけない患者は精神科の患者さんです。


うへえ。


……ともかく、「精神」を観た人なら、絶対に読んで損の無い本だ。

*1:この本に収められた座談会や対談の相手の中で、唯一この映画の関係者でない第三者