空気を読む力:「意志の勝利」その1

もうそろそろ上映終了っぽいので一念発起して渋谷で「意志の勝利」を観てきた。


どんなにつまらなくてもライダーやガンダムの新作を観るってのはオタクにとっての教養だと考えているのだが、この種の映画を観ておくってのはシネフィルというか映画観てブログで戯言書いてる人間の教養だと思ったのだ。


Triumph of the Will (Rmst Spec) [DVD] [Import]
Leni Riefenstahl
B000E41MRC
amazonヤフオクでDVD版を購入可能であることは知っていたのだが、日本語字幕付で、劇場で観たかったのだな。
で、感想なのだが、面白い・面白くないでいえば、圧倒的に面白かった。


まず映像がスゴい。スゴいスゴいと聞いていたのだが、確かそうだった。いや、今の目から観ればスゴくないよ。でも、この映画は1930年代の映画なわけだよね。当時のカメラは馬鹿デカくて、ズームも望遠もステディカムも高感度撮影も無かったわけだ。戦前・戦中に日本で撮影された映像と比較してみれば一目瞭然だろうが、MTVとCGIで脳が腐った21世紀の人間から観れば普通にみえる映像でも、当時の人間が受けた衝撃のほどは察するに余りある。


編集と音楽も、製作年代を考えると越境的だ。まず、今の我々の眼から観てそんなに違和感が無いというのが凄い。
1カットに込められる映像的意味合いというのは、年月の経過に連れて増加している。たとえば、リュミエール兄弟がカメラに向かってくる汽車を撮影した時、そこにはこちら側に汽車が向かってくるという意味合い以上のものは無かった。しかし、映画的技法が進歩するに連れて、ただ汽車が走り行く映像にも、駆け落ちした二人の逃避行とか、個人の時代に追いついたり追い抜かれたりする様とか、孤高を貫く人間の力強さとか、様々なものが重ね合わせられるようになる。
それに連れて1カットの秒数は短くなっていく。作り手の編集技術も観客のリテラシーも、共に上がっていくからだ。だから21世紀に住む我々が1950〜60年代に製作された名作と呼ばれる映画を観ると、確かに物語的には面白いけれどテンポも悪いしダラダラ長くてかったるいぜー!みたいなことになりがちなのだが、「意志の勝利」にはそういうのがあんまり無いのが凄い。これは、音楽の使い方が、説明的かつ過剰になる一歩手前で辞めているのが大きな要因だと思う*1
飛行機からの空中撮影、車からの移動撮影、演説とそれを聞く群集のカットバックの多用等々、現在の映画にて当然のように使われている技法も、当時としては画期的だったのだろう。群集で一杯の建物に入るヒトラーをカメラの上下移動で追いかけるカットなんかは、構図といいタイミングといいまるでポップ・スターがコンサート会場に入場するかのようだ。
つまりこの映画は、1930年代に製作された未来の映画なのだな。


映像美といえば、確かに映像美だ。莫大な人数が整然と行進*2し、幾何学的に整列する、こんなの今再現したらどんだけ人件費かかるんだと妄想してしまう大掛かりなパレード映像も美しいが、その合間に、民族衣装を着た若い女性がパレードしたり、ヒトラー・ユーゲントの金髪隻眼*3の半裸男子が笑いあいながら水遊びしてる映像を挟み込むんだりするところなどが、監督レニ・リーフェンシュタールが天才と呼ばれる所以だろう。地平線の端まで延々と続く、ヒトラー・ユーゲントの野営キャンプを航空撮影で捉えた映像なんて、あまりの壮大さにクラクラする。あの中に金髪隻眼の半裸男子が何人もいて、朝が来るたびに笑いあいながら互いに髪を櫛で溶かしあったり、くんずほぐれつじゃれあったりしてるさまを想像すると、腐女子でなくてもクラクラしてしまうというものだろう。我々ヒトは空気を読み合って生きる生き物なので、こんなの魅せられたら、確かに「ナチ最高!」となる人が出てくるかもしれん。


ただ、夜間撮影のシーンにはどうしても時代を感じてしまう。ちょっと暗すぎて何がなんだかわからないカットとかあるんだよね。「バリー・リンドン」でキューブリックNASA用に開発されたレンズを使用してロウソクの灯りだけで撮影したのは1975年、高感度フィルムが開発されたのは1980年代だ。そういや、ステディカムを始めて映画に取り入れたのもキューブリックだったよな。


あとさ、この映画、確かにナチス党大会を題材にしているけれども、主役は聴衆であり国民であるのだね。ナチス幹部がフレーム中央に映し出される、すなわち主役になるカットと、無名の聴衆や民衆が主役になるカットの秒数を測り、総和を出して比較してみれば、絶対に後者の方が多いはずだ。つまりこの映画の主役は党大会で格好良く演説をするヒトラーヒムラーではなく、彼らを熱狂的に迎え入れ、演説に熱心に聞き入り、右手を挙げて賞賛する聴衆であり国民であるのだ。この時代にも冷静にヒトラーナチスを見つめ、彼らに批判的な人間がおり、彼らが演説で口にする政策にも暗部*4があった筈だが、そういうのは全く画面に出てこない。映像は美しいけれど、批判精神とか、批評精神とか、多様な視点が全く無い*5。この点こそが、映像的充実度にも関わらずこの映画がプロパガンダ映画と蔑まれる所以だろう。


プロパガンダといえば、ゲッベルスが演説で「これからはプロパガンダを大切にしないと……」なんて言ってたのが面白かった。この時代、「プロパガンダ」という言葉が持つ意味は現在でいうところの「広報」や「宣伝」レベルのもので、それほどネガティブな意味合いが無かったのだろうな。
他にも、「まず平和を愛せ。そして従順、勇敢であれ」とか、「総統は国家の運営に私心を持たない」なんてアジってるのが面白いところだ。
つまりさ、ナチスがどういうことをしてきたか充分理解している現在の我々の視点でみると、彼らが「平和」とか「私心を持たない」なんて口にしてるさまが、悪い冗談か何かのように思えるんだよね。でも当時これを聞いている聴衆は彼らの言葉をそれなりに信じていたわけだ。


インターネットというのは素晴らしいところで、検索してみるとノンフィクション作家の岩上安身が生前のレニ・リーフェンシュタールにインタビューした記事をみつけた。

「あの頃、ドイツ人は誰もヒトラーのことを疑ってませんでした。ナチスの政権が始まってわずか1年で600万人もいた失業者が激減したんです。短期間に生活はすごく良くなりました。戦争がこれから始まるなんて、誰も考えていませんでした。あの当時、ナチスに反対する人なんていなかったんです。誰ひとりとして!」

http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/berlin.htm


世界恐慌第一次大戦の賠償金で瀕死状態だったドイツ経済を救ったのはアウトバーン建設なんかを含む公共事業への注力だったというのは有名な話なんだが、これを読むと、やはり現在の我々が置かれた状況に考えが及んでしまう。「誰ひとりとして!」か……。本当に怖いのはナチスでもプロパガンダでもなく、それを国民の総意として民主的手続きで選択した歴史的事実なのだな。



ただ、そのような映画でも、純粋に素晴らしいと思えるのは、ナレーションが無く、説明的なテロップ*6も最小限なことだと思う。これ故に、我々はこの映像を自由に論評できる。同じ映像にもプロパガンダを感じる一方で、映像美を感じられる。
もっといえば、上映開始前にナチスは○万人のユダヤ人を虐殺し……というテロップが流れるのだが、何十年間も公式には上映されず、現在でもこのようなエクスキューズ付きで上映されるところが最大の批評的ポイントだろう。映像から何を読み取るかはその人の自由で、どんな受け止め方も正しい(と同時にその人の読解能力も正しく反映される)筈なのだが、最初からあうべき受容の幅がテロップによって制限されてしまっているのだな。


「コンタクト」という小説に、こんなシーンがあった。
SETI計画の研究員である主人公が、知的生命体が発したと思しき有意な電波を遂に受信する。解析してみるとそれは、演説するヒトラーの映像だった。動揺する研究者達。いったい宇宙人の真意は何なのか?調べてみるとそれはベルリンオリンピックの開会式の映像で、世界初のテレビ定期試験放送であった。議論する研究者たち。初めて異星の電波を受信した彼らは、とりあえず存在を示す目的で、その電波をそのまま返信したのではなかろうか?異星に住む彼らは地球の歴史も、ヒトラーナチスの歴史的意味も分からないので、ただ純粋な映像と捉え、返信したのではなかろうか?


コンタクト〈上〉 (新潮文庫)
4102294015


コンタクト〈下〉 (新潮文庫)
4102294023


同様のことをこの映画にも感じる。宇宙人の如くヒトラーナチスの歴史的意味を知らない純粋無垢な観客は、この映画をただ純粋に美しいと感じてしまうだろう。その純粋無垢さは、多分監督の純粋無垢さとまるきり同一なのだ。


ただ、我々は宇宙人でなく地球人なので、それは愚鈍と紙一重の純粋無垢さであるのだけれど。



そんな「意志の勝利」であるのだが、めでたくも上映延長が決まったらしいので、気になる皆は要チェックだ。
同じ監督の「民族の祭典」と「美の祭典」もなんとワンコインで購入可能。いい世の中だなぁ。

民族の祭典[DVD]
4774718343


美の祭典[DVD]
4774718351

追記

やはりというかなんというか、Youtubeに全編アップされていた。


*1:ゲームにおける音楽の使い方に似ている気がする

*2:とはいうものの、ちょっと足を乱す人がいたりするのも笑える

*3:白黒映像なんだけど

*4:ユダヤ人迫害政策とか同年にあったレーム事件とか

*5:勿論、そういう要素があったらレニ・リーフェンシュタールはこの映画を発表することができなかった、ってのは分かる

*6:上映中は人物や場所紹介のテロップが出たが、これは後年付け加えられたものだろう