ひとりの戦い:『選挙2』と『映画「立候補」』と『荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟』

随分前に『映画「立候補」』を観たのだが、同じような題材を扱っている『選挙2』共々、確かに面白かった。自分の仲間うちでは『映画「立候補」』の評価が高く、何故か感想をブログやらSNSやらで書くのが流行っており、それらを読んでいたら自分も書きたくなってしまった。この二本がどういった理由により「映画として面白いのか」について自分の考えを備忘録的に書いておこうかと思う。



『選挙2』は2005年の川崎市市議会補欠選挙における自民党落下傘候補に取材したドキュメンタリー『選挙』の続編だ。
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主人公は東大卒の切手・コイン商(という名の自由業)「ヤマさん」こと山内和彦40歳。ヤマさんは当時「小泉劇場」でブイブイいわせていた小泉純一郎の魅力にあてられ、縁もゆかりもない川崎市宮前区の市議候補の公募に応募し、当選する。党本部から来た支援者にレクチャーを受けながら選挙戦を戦うヤマさん。そして一回でも多く名前を連呼し、一人でも多くの人に頭を下げ、一枚でも多くビラを配る、自民党流の組織選挙とドブ板選挙が繰り広げられてゆく……というのが前作『選挙』だった。己を殺して政策よりも名前を連呼し、電信柱にすら挨拶し、ラジオ体操や運動会やお祭りといった町内会のイベントに足繁く通うヤマさんの姿は、笑いどころであると同時に、日本の民主主義の珍妙さや問題点をも照射する。想田和弘監督自身が「観察映画」と呼ぶナレーションやBGMを排した編集スタイルとも相まったドキュメンタリー映画の傑作であった。
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『選挙2』は前作の主人公であるヤマさんが再度市議選に挑む姿を追ったドキュメンタリーだ。時期は2011年4月――そう、東日本大震災から僅か一ヵ月後だ。
補欠選挙では当選したものの、次の選挙では自民党の公認を取れる見込みが無いことから、出馬を見合わせたヤマさん。無所属での出馬は自分を支えてくれた自民党や支持者への裏切りになるというのが理由だった。しかし、あれほどの原発事故が起きたのに、原発問題が選挙の争点にすらならないことに苛立ち、自分にも何かできることがあるのではないかと、遂に無所属での出馬を果たすことになる。
面白いのは無所属となったヤマさんの選挙活動だ。
今回、ヤマさんにはバックアップする組織が無く、おカネも無い。『選挙』でやりまくったドブ板選挙活動への疑問もある。そこでヤマさんは選挙カーでの名前連呼や街頭演説、駅前での握手といった単に名前を連呼するだけの選挙活動を封印し、政策を明記したポスターと選挙ハガキのみで闘い抜こうとするのだ。最もアピールする政策は当然「脱原発」だ。
選挙期間中、他の候補者が駅前での演説や握手に精を出す中、剥がれたポスターを貼り直したり、やっと印刷できた選挙ハガキを郵送する手続きをとるために郵便局を訪れるヤマさん。選挙ハガキの郵送代金は無料という制度を利用しているのだが、宛名欄は印刷代を節約するため自筆だ。期限ギリギリなため、深夜の郵便局で候補者自ら宛名書きするヤマさん。奥さんにも手伝って貰うのだが、子供の面倒をみる人間がいないため、愚図りまくる子供――という姿が中盤のクライマックスだったりする。前作とはえらい違いだ。
面白いのは、これまでの「観察映画」よりも一歩踏み込む監督想田和弘の視点だ。
今回ヤマさんが行なう選挙活動の画ヅラがあまりにも地味すぎるせいか、想田は前作にも増して他の候補者に取材を行なう。いつもと同様、ひとりでカメラを担いで行なうひとり取材だ。駅前を通りすがる人々に握手を求めるも無視される若い候補者は、どことなく前作のヤマさんを連想させる。自分の名前を連呼していた候補者が「本当は私も政策を訴えたいんだよ!」と逆ギレ気味に語る姿には笑ってしまうが、いったい彼は何にキレているのかとの疑問も沸く。
その途中、ある候補者(現職の市議だという)から取材拒否され、拒否される一部始終を、自分の応答を含めて映画に取り入れているのだ。その時の台詞が凄い。「あなたも社会人ならきちんと許可をとってから取材したらどうですか」などと言われるのだ。
「選挙運動とは公的なものだから自由に撮れるはず」と想田は反論するも、候補者は拒否の姿勢を崩さない。カメラには苛立たしげな表情をした候補者と、涙ぐみながら激高している身内と思しき女性が映っている。彼らは心の底から「取材拒否するのが正しい行為」と思っているのだ。
その後、ヤマさんに一連の出来事を説明する監督の姿が挿入される。「選挙運動とは公的なもののはず」と興奮しながら語る監督にヤマさんがニヤニヤしながら返す一言がまた凄い。
「(彼らは選挙を)私的なものと思ってるんじゃないの?」
選挙活動の最終日、ヤマさんは遂に街頭演説を行なう。タイペック――放射能防護服にゴーグルというコスプレでの演説だ。他の候補者が沢山の支援者やスタッフを引き連れているのに比べて、ヤマさんに同行しているのは妻と息子と地元紙の記者という三人だけ、それも遠くから見守っているだけだ。閑静な町並みに、タイペック姿でひとり佇むヤマさんの違和感が凄まじい。
そして、遂にヤマさんの思いが語られる。「私に投票してくれとは言いません。ただ、選挙にだけは行ってください。投票して下さい」
だが、町を行き交う人々は、そんなヤマさんに注意も払わない。完全無視だ。静かな町に、ただヤマさんの演説だけが響き渡る。彼らは投票するのだろうか。


いったい、ヤマさんは何と戦っているのか。逆ギレ気味の候補者は何にキレているのか。タイペック姿で演説するヤマさんの横で、郵便局で愚図りまくっていた子供が虚空を相手に何かと戦っているというシーンで映画は終わる。
本作のテーマは実に明瞭だ。彼らが戦っているのは世の中だ。みたくないものをみようとせず、民主主義社会で求められる投票や権力の監視といった市民としての責任を果たそうとせず、権力者が公的なものを私的にしてしまうことで利益を得ることを許す、そんな世の中だ。




『映画「立候補」』は落選し続ける泡沫候補――中でもマック赤坂を中心に取材したドキュメンタリーだ。
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本作は禁欲的な編集に徹していた『選挙2』とは対照的に、煽情的な編集を行っている。カット割りや場面移動といったテンポも早く、印象的なテロップや音楽も使いまくっている。なにせ、冒頭からこんなテロップが出てくるのだ。

問:あなたは次の内どちらか?
A.今の政治に満足だ。B.今の政治に不満がある


問:Bを選択した人がとるべき正しいものはどれ?
1.家の中でグチる 2.家の外でガナる 3.投票へ行く 4.立候補する 5.革命を起こす

本作は『選挙2』が最後に明示したテーマを冒頭でいきなり示している。立候補せず、投票にいかず、家庭や会社やSNSで政治的な話題を注意深く避ける我々よりも、他人に笑われながらも立候補する泡沫候補の方が、民主主義社会に生きる市民として正しい姿なのではなかろうか。


その後、府知事選に立候補の届け出を出さんと大阪府庁で受付開始を待つマック赤坂の姿が映る。周囲を見渡し、お馴染みの顔がないことに気づき、一言呟くマック。
「羽柴は来ないのか……」
直後、泡沫候補仲間の羽柴秀吉が癌を患い、今回の府知事選には出馬しないことを伝える取材映像が映る。なんという格好良さだろう! 泡沫候補が、まるでスタンド使いやアメコミ・ヒーローのようにみえる一瞬だ。
そして、選挙管理委員会に届け出を出すマック。マックはここが好機と選挙報道の不平等について訴える。同じ候補者なのに、人によって新聞記事の大きさが違うのは不公平だ。民主主義社会としておかしい。これ以上ないというタイミングでテロップが挿入される。
「マックは3年前に朝日新聞を訴え……負けた」


マックには政策が無い。「日本をスマイル溢れる国にしたい」「世界平和を訴えたい」などと抽象的なことをいうが、当選した際にとる具体的な政策については全く口にしない。鬼ころしを飲みながら街頭でパフォーマンスするマックは「真面目なことをいうと皆集まってくれないんだよな」などと嘯くが、真面目に訴える政策が無いのだ。勿論、作り手はそのことをマックにインタビューするが、きちんとした答えを返さない。落選確実なのに、選挙に出る理由すらはっきりしないのだ。
そこで作り手は、マックの秘書である櫻井や、マックの息子 健太郎にインタビューする。彼らのマックに対する評価は冷めたものだ。「面接の時には時給四千円と言われたが、採用後に半額に値切られた」と苦笑しながら語る櫻井には重い遺伝病を患った娘がおり、色々と嫌なこともあるけれど治療費のために我慢していると断言する。「目立ちたいから立候補したと思っていたが、最近は違うのかなと思っている」と語る息子はマックが興した会社を継いでいる。「彼の会社ではスマイルダンスは行われていない」というテロップが、またもや絶妙のタイミングで挿入される。


だが、映画はそんな二人が徐々に変わっていくさまを、きちんと映している。
大阪府知事選であるのに選挙区外である京都大学前で演説しようとするマックに群がる警察官や公安に「選挙法知らんのか!」と対抗する櫻井は、金のためだけにやっているとは思えない。選挙戦最終日、マックは「他の候補者の街頭演説に割り込まない」というローカルルールを無視し、大阪駅前の大群衆の前で演説せんとする橋本徹に割り込むのだが、大勢の維新の会支持者の罵声や恫喝、屈強な維新の会 SPを前にして、櫻井は笑いながらマックを守る。後のインタビューで櫻井はこう語る。
「群衆のほとんどは橋本さん支持だし、維新の会のSPは沢山いた。うちは二人きりで、とても敵わない。でも、そんな中で笑っていれば不気味に思ってくくれるかもしれない。対抗できるかもと思って」


白眉はラスト、秋葉原での演説合戦だ。
大方の予想通り、大阪府知事選に落選したマック赤坂。一年後、マックは東京都知事戦に立候補する。都知事戦最終日、マックは一年前と同じく、有力者の演説に割り込む。秋葉原安倍晋三麻生太郎といった大物政治家が演説する自民党の街頭演説会が開催されるのだ。そして、これまで父の選挙戦を手伝わないことを名言していた息子の健太郎が、何故か同行している。
自民党ゆかりの政治団体が招集されたのか、日の丸の旗を持った特攻服の集団が口々に「あべしんぞう」コールを叫ぶ中、演説に割り込むマック。当然のことながらマックに罵声が浴びせられる。「マック帰れ」「恥ずかしいわ」中には「非国民」、「売国奴」と叫ぶ、どう考えてもカタギでない坊主頭の青年もいる。当初はマックのスタッフTシャツを着ることすら拒んでいた健太郎だが、群衆の心無い罵声に激昂する。
「ひとりで戦っとんねん。ひとりで戦って何が悪い!」
そう叫びながら、何千人もの群衆を睨みつけ、ひとりで対峙するのだ。
その背後、ロールスロイスを利用した選挙カーの傍で、これまた多くの罵声や恫喝を浴びつつ、マックはニヤニヤしながら一部始終を見守っていた。




荻上チキが『立候補』について「解釈したら終わり」とコメントしていて爆笑してしまったのだが、どうしても政治的な解釈せずにはいられない。『選挙2』『立候補』と二本観たらなおさらだ。


日本の選挙において大事なものは「地盤・看板・カバン」の「三バン」であると言われている。それぞれ、組織力知名度・資金力を意味している。
自民党公認を得た『選挙』のヤマさんには少なくとも「地盤」と「カバン」の二つがあったが、『選挙2』のヤマさんには一つもない。仮に訴える政策が同じで、政治家としての能力が同じでも、カネや組織や知名度が無ければ落選してしまう。選挙は公正に行われているので、「正しい」民主主義とはいえる。しかし、「機能している」民主主義といえるのだろうか。そんな疑問が沸く。
マック赤坂はヤマさんと違い、「三バン」をある程度持っている。元会社社長*1なのでカネはそれなりにある。秘書兼ドライバーとしてスタッフを一人だけ雇っている。そして、なによりも、マックには知名度がある。スマイル体操や政見放送を収めたYoutube映像は何万回も再生された。大阪府知事に当選した松井一郎は最も印象に残った候補としてマックの名前を挙げるシーンで映画は終わる。


そんな風に対照的な二人だが、選挙戦で冷遇されているという一点において共通している。ヤマさんもマックも、選挙戦で自分を冷遇する世の中――これには選挙管理委員会対立候補やその支持者のみならず、自分たちや選挙そのものを無視する市民も含まれる――と戦っているのだ。孤独に。ひとり*2で。ヤマさんやマックを応援する想田監督や櫻井秘書や息子 健太郎もひとりでその戦いに協力している。


この「ひとり」という部分こそ、政治的のみならず映画的にこれら映画を面白くしている重要な要素なのではないかと考える。



民主主義は市民の不断の努力によって達成される。世の中に溢れる雰囲気やムードに流されてはいけない。周囲からの声や情報に耳を傾けつつも、「ひとり」で必死に考え、真剣に悩み、戦わなければ達成されないのだ。「社会人」という美名の下で取材拒否を当然のものとする立候補者の態度や、演説場所争いのローカルルールを当然のものとする短絡思考は、民主主義を劣化させる。群集心理や数の優位性をバックに「非国民」や「売国奴」のレッテルを張り弱者を追い込む輩は民主主義の敵だ。「ひとり」で彼らに対抗する勇気こそ、民主主義を守れるのだ。


更に、「ひとり」の戦いは映画的見せ場でもある。
荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟 (集英社新書)
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荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟』は『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』に続く、荒木飛呂彦が好きな映画について分析する新書だ。『奇妙なホラー映画論』はその名の通りホラー映画について具体作を挙げて分析していたが、『超偏愛! 映画の掟』ではサスペンス映画について分析している。
本書の魅力は冒頭の「よいサスペンス、五つの条件」やエロチック・サスペンスやイーストウッド作品の分析等、多岐に渡るのだが、荒木がいいたいことはあとがきに集約されていると思う。

僕は、「人間」とは、家族や仲間、友人、恋人のことを何よりも大切にしている存在で、それこそが人生に目的を与えてくれるといってもよいと思っています。しかし、何かとても大切なことを決断するとき、あるいは病気になったとき、お腹が空いたりしたときには、結局のところ人間は「ひとりぼっち」なのです。
そして「ひとりぼっち」はまさにサスペンス映画やホラー映画で描かれる状況そのものです。「まえがき」にも書いたように、サスペンス映画やホラー映画は、その、寂しさに打ち震える恐怖を癒してくれます。そして、そうした恐怖をほんの少しでも癒してくれることこそ、先述した、映画を観ることで得られる「理屈抜きの楽しみ」であり、有意義な時間なのではないでしょうか。
「ひとりぼっち」でいることの恐怖に打ち震えるからこそ、人は、身近な付き合いから人類の共存共栄、平和まで、あらゆる人間関係を大切に考えます。


『選挙2』の取材拒否シーンやヤマさんの街頭演説シーン、『立候補』の大阪や秋葉原での演説割り込みシーンが異様な迫力に満ちているのは、こういう理由があるからなんじゃなかろうか。

*1:レアメタルの輸入で成功した

*2:取材拒否してきた候補者に比べて、ヤマさんの妻がそれほど協力的でないことは何度も描写される