ウルトラ・スーパー・デラックスマン・オブ・スティールのリープ・オブ・フェイス:『マン・オブ・スティール』

藤子・F・不二雄のSF短編の一つに『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』というのがある。
藤子不二雄異色短編集〈3〉ウルトラスーパーデラックスマン (ゴールデン・コミックス)
藤子 不二雄F
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ラーメン大好き小池さんにそっくりの句楽兼人(「くらくけんと」と読む)が主人公だ。
正義感は強いものの平凡なサラリーマン、句楽兼人はある朝突然スーパーマンのごとき力を身につける。それまで現実の悪に対して何もできず、投書くらいにしか自身の正義感の持って行き場のなかった句楽は、「小は暴走族から大は政財界の黒幕や公害企業」まで「正義の鉄拳」を浴びせる。だが句楽の「正義」は社会にとって……というお話だった。


このお話、誰もが認める傑作なのだが、句楽の同期である片山の視点で話が進むのが秀逸だった。以前の句楽と同じくらい平凡なサラリーマンで、なんのスーパーパワーも持っていない片山が、本当のスーパーヒーローにみえる、という展開が実にいい。


本作における藤子・F・不二雄のねらいは次の一言に集約されるだろう。

こういういろんな超能力を持っている人間というのは、よっぽど堅固な道徳心を持っていないと、何やらかすかわからないだろうな、というようなことを考えましてね。

http://www.fujiko-f-fujio.com/fan/sf/sakuhin/ultra.html

この「スーパーヒーローにふさわしい心を持っていない常人がスーパーヒーローになることで生まれる悲喜劇」は藤子・F・不二雄お気に入りのテーマであるらしく、『パーマン』以外にも、『わが子・スーパーマン』や『中年スーパーマン左江内氏』といった短編が描かれている。「スーパーマン」という存在を解体すると同時に、「スーパーマン」であるためには何が大切なのか、を描いていると思うのだ。
藤子・F・不二雄大全集 中年スーパーマン左江内氏/未来の想い出
藤子・F・ 不二雄
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前置きが長くなってしまったが、『マン・オブ・スティール』を観て真っ先に頭に思い浮かんだのは『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』のことだったりする。
ダークナイト』のクリストファー・ノーランデヴィッド・S・ゴイヤーが製作・原案・脚本を務め、『300』や『ウォッチメン』のザック・スナイダーが監督を務める『マン・オブ・スティール』は、当初、『ダークナイトライジング』のように共感し難い悩みを抱いたアメコミ・ヒーローが辛気臭くて深刻ぶったドラマを展開するケレン味ゼロの映画かと思われていた……というか、思っていたのだな、おれは。ところが、実際に観てみると、『マン・オブ・スティール』のスーパーマンは、『ダークナイト』三部作のバットマンと同じく自分の存在意義や世の中との折り合いに悩み前半に、『300』や『ウォッチメン』や『エンジェル ウォーズ』を更に発展させたような超人による都市破壊バトルから成る後半を組み合わせたような映画だった。
自分は「悩める主人公」というのがわりかし好きなので、この映画はノーランとザック・スナイダーのええとこどりの映画にように思えたよ。
特に前半の「悩める主人公っぷり」が実にいい。『マン・オブ・スティール』は、超人の肉体と常人の心を持ったおっさんがなにがしかを手に入れて「スーパーマン」になる話で、そこを外してないのがいい。なにがしかを手に入れなければ、ウルトラ・スーパー・デラックスマンになってもおかしくない。実際、クライマックスでそれまで着ていた鎧をそれまで唱えてきた建前と共に捨て去り、スーパーマンと同じく全身タイツっぽい姿になり、ゾッド将軍は、ウルトラ・スーパー・デラックスマンそっくりだ。


では、スーパーマンになるために必要な「なにがしか」とは、具体的に何なのだろうか。


近年、スーパーマンのキャラクター造形にはユダヤアメリカ(それも19世紀末から1920年代までの間に東欧からアメリカにやってきた新移民の中のユダヤ人)的要素が多分に含まれているという言説が一般的になりつつあるらしい。

……といったことが根拠になるそうだ。
Up, Up, and Oy Vey!: How Jewish History, Culture, and Values Shaped the Comic Book Superhero
Simcha Weinstein
1569804001
Disguised as Clark Kent: Jews, Comics, and the Creation of the Superhero
Danny Fingeroth Stan Lee
0826430147


つまり、「なにがしか」というのは、ユダヤ人移民がアメリカ人になるために必要なもの――「アメリカン・ウェイ」なわけだ。だから、「スーパーマンの誕生」というのは、何者でもなかったユダヤ人移民が、アメリカで育つうちに正義と真実とアメリカン・ウェイの正しさと大切さを学び、ラモス瑠偉が日本で生まれ育った日本人以上に日本人であろうとするように、ナチュラル・ボーンなアメリカ人以上のアメリカ人――アメリカン・ウェイの象徴と守り手になる、といった話になる必要がある。


で、1978年のリチャード・ドナー版『スーパーマン』や2006年の『スーパーマン・リターンズ』以上に、『マン・オブ・スティール』はこのことを強く意識していると思うんだよね。


『マン・オブ・スティール』は、なんとカル・エルことクラーク・ケントことスーパーマンが母の産道を抜け出てこの世に生まれるシーン――出産シーンから始まる。これはイエス・キリストやモーゼといった聖人の一生を伝える物語が必ずこの世に生まれたことを示す描写から始まることを意識しているのだと思う。
で、ヘブライ人に男児が生まれたら殺害せよと命じたファラオから逃れるために母の手によりナイル川に流されたモーゼと同じく、カル・エルもゾッド将軍のから逃れるために母の手により宇宙船に乗せられて宇宙に流され、地球にたどり着く。
ここでカル・エルカンザス州に住むケント夫妻に拾われ、クラーク・ケントという名を得る。カンザス州はアメリカにおける田舎の代名詞だが、これは「東北こそ日本の中の日本!」みたいな言説のアメリカ版を反映しているわけだ。また、義父であるジョナサン・ケント役にケビン・コスナーがキャスティングされているのだが、これはコスナーが『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や『ワイアット・アープ』といった西部劇――アメリカのファンタジー――で重要な役割を果たしていたり、『フィールド・オブ・ドリームス』のようなアメリカの田舎でアメリカ的美徳を讃える映画に主演していたことと無関係ではない。
そして、33歳のおっさんになったカル・エルことクラーク・ケントは、USBメモリ・ライクな記憶媒体を介してエミュレートされた父ジョー・エルの人格と再開し、自らのオリジンを知る。ここら辺、物心ついてから民族の歴史を学んだり、それぞれのエスニック・アイデンティティを得るアメリカ人*1、という感じがする
つまり、本作のカル・エルことクラーク・ケントことスーパーマンにはクリプトン星人の父母とアメリカ人の義父母という二組の父母がいて、彼らのおかげ*2で「なにがしか」を学び、「スーパーマン」になるわけだ。



以下ネタバレだけどなるべくネタバレにならないように書くよ。



だが、本作には、実のところもう一人の「父」が登場する。
それはなんと、教会の牧師なのだ。


本作のカル・エルことクラーク・ケントは父の死後、33歳までジャック・ケルアックのごとく放浪の旅を送っているという設定だ。33歳というおっさんになるまで「大人」になれなかった――何も決断できず、家族や友人以外の「他人」を信頼できず、自分が何者か分からなかったわけだ。
そんな彼は、ある時決断を迫られ、思い余って教会に相談しに行く。どう考えてもプロテスタントの教会で、相談相手は牧師だ。
で、「信頼を得たければ、自分から」なんて言われるのだが、言語ではなんと"You must take a leap of faith. Trust will follow."と言ってるんだよね。
“a leap of faith(リープ・オブ・フェイス)”というのは、信仰(faith)に基づいて結果を考えずに跳躍するという、キリスト教文化圏に伝わる格言みたいな言葉だ。現在この言葉の持つ宗教性は薄くなり、「論理を飛躍して決断する」「信頼に基づいて結果を考えずに行動する」「信じがたいことを敢えて信じる」「理屈ぬきに目をつぶって決断する」……といった意味で使われるようになっている。
参考リンク:ヤンキー的精神というLeap of faith - 冒険野郎マクガイヤー@はてな
でも、たとえ宗教性が薄くなっているとはいえ、ユダヤ人(をモデルとしたキャラクター)がプロテスタントの教会で「周囲からの信頼が欲しければleap of faithしろ」と言われるのは、相当なことだと思うんだよね。世界恐慌直後や第二次大戦中、ユダヤ人が生き延びるためにプロテスタントに改宗した歴史的事実をちょっとだけ連想してしまったりしたよ。


で、その後カル・エルことクラーク・ケントは神父の言うとおり家族や友人以外の「他人」を信頼するようになり、アメリカ市民やアメリカ軍を無償の愛で助け、「スーパーマン」になる。leap of faithしたおかげでスーパーマンになれたわけだ。特にfaithが無い人*3でも理解できるし、どんなfaithを持つ人間にも通じる普遍的な話にしているところは流石ゴイヤーと思うのだが、実際は結構深い話であるような気がする。そういえばゴイヤーもユダヤ人だった。


で、そう考えると、後半における都市破壊バトルシーンも意味深に感じる。普通に考えればこれは、どんな題材でもCGIを駆使した大破壊アクションシーンを入れずにはいられない、ザック・スナイダーのオタク的ビジュアリスト的資質の産物のようにみえる。
だが、破壊されるメトロポリスはどことなく911で破壊されたニューヨークのようにみえる。スーパーマンが同じエスニシティを持つゾッドを評する「彼らは共生を考えていない」という言葉は意味深に聞こえるし、メトロポリスの反対側であるインド洋でも大破壊が起こっているにも関わらずインド人の被害者は全く描写されないし*4、最後は軍人が輸送機を特攻させて勝利を得ようとするわけだ。


どんなにスーパーマンを人間として描こうとも、スーパーマンアメリカの象徴だ。そう観ざるを得ない。最後、スーパーマンがゾッド将軍に行う仕打ちを含めて、やはりこの映画は死者を含むコラテラル・ダメージを受け入れざるを得ないことを国民のほぼ全員が認識している21世紀のアメリカ――つまりはスーパーマンをきちんと描いているのではなかろうか。

*1:たとえばニューヨークにあるアメリカ自然史博物館に行くと、人類学部門のアフリカ展示コーナーには黒人が、中南米の展示コーナーにはヒスパニックがいて、ほぼ単一民族である日本人の自分はちょっと驚いたりする

*2:ダイアン・レイン演じるマーサ・ケントの「世界を小さくしたら?」という台詞が実に良い

*3:たとえば日本人とか

*4:デイリープラネット編集部員をはじめとして、アメリカ人被害者はそれなりに出てくる