Dead Spaceと穢れと改正臓器移植法

ドラクエ9をプレイする前に積みゲーを消化しようと思いたち、ちょっと前にPlay Asiaにて購入した「Dead Space」をやり始めたのだが、こら面白いわー。
Dead Space(輸入版:アジア)
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最初はさ、グロすぎて日本では販売中止と聞いて、どこまでグロいのか確かめてみようという下世話な興味本位ではじめたんだよね。


http://japan.gamespot.com/news/story/0,3800076565,20380036,00.htm


ところがさ、純粋にゲームとして面白いわけですよ。何処がどういう風に面白いのか、まとめると以下のようになる。

  1. 画面表示の妙
    • 本ゲーム、三人称視点のシューティングゲームであるが、右上にHP表示・左下に残弾数表示みたいな、普通のTPS或いはFPSによくあるような画面表示を廃している。HPはスーツの背中に光のバーで表示、残弾数やアイテムはゲーム世界で主人公が2Dホログラムを呼び出して表示と、あくまでもモニタを通じて別世界を覗き見する感覚に拘って、メタ的な情報表示を徹底的に避けている。持ち物確認や地図表示などの際に大きなホログラムを開いてあーだこーだするさまをみて、これぞ拡張現実!これぞオーグメンテッド・リアリティ!と叫びたくなってしまうのは「電脳コイル」好きな自分だけでは無いだろう。
    • 勿論、この間もゲーム内時間は停止しないので、地図で現在位置を確認してる間に容赦なく敵が襲ってきたりする。
    • 唯一、ポーズのみはメタ的表示になってしまうのだが、これは「ゲーム内世界から離れる」という意味で、致し方なしか。
  2. 部位破壊の面白さ
    • 敵であるネクロモーフは死体に寄生する生物という設定なので、幾ら頭や胴体を撃っても死なず、脚や腕を切断する必要がある。勿論、胴体に比べて目標が小さいので狙いがつけづらい。普通の銃では一発で両足・両腕を切断できず、複数回撃つ必要がある。
    • しかし、上手くやれば弾薬を節約でき、後々ラクになる。また、脚を撃つと動きが遅くなる代わりに飛び跳ねたりする。そのようなところに、ゲーム的な面白さがある。
  3. 戦略性
    • ある程度進むと便利な超能力を身につけるので、1対1では絶対に負けなくなるのだが、床に転がっている死体にとりついてやっかいな敵を増やしちゃうinfector、どんなに四肢を切断しても時間経過で復活するHunterが登場するあたりで、「お前らファミコン時代のカプコンか?!」と叫びたくなるような、嫌らしい敵配置が続出するようになる。
    • 一回死ねば大体どこから敵が出てくるのか把握でくるので、まずこっちの角にてこの武器でアイツを倒してからそちらの通路に移動して……、などという戦略性が必要となる。
    • 死体を見つけたらとりあえず踏みつけてバラバラにするという、リアルで考えれば非道だが、本ゲーム的には重要な習慣もつく。
  4. ホラー映画的恐怖感とSF映画へのオマージュ的期待感がないまぜになったドキドキ感
    • 本作、連絡のとれなくなった宇宙船に潜入したら異星の寄生生物がいてどーのこーのという、「エイリアン」や「遊星からの物体X」にオマージュを捧げたような舞台設定なのだが、演出がまたセンス良いのだよね。例えば、ゴツゴツ音が聞こえるからなんだろうと足を向けると、明らかに恐怖で精神がイっちゃったと思しき生存者が無言で壁に頭ぶつけていたりとか、盲目の生存者が重要アイテムをくれた直後に死んだりする。明らかに生体実験をやった跡っぽい手術室とか、ガラス一枚隔てた向こうで仲間が死にそうなのに何にもできない、みたいなシーンも良い。
    • 今チャプター6なのだが、先の「イベント・ホライゾン」や「サンシャイン 2057」みたいな、「宇宙で目覚めた偉い尊師」みたいな博士が出てきた。
    • また、無重力状態で上方から遅い来る敵を迎撃すると噴出した血液がそのまま靄となって滞空していたり、窒息の恐怖に耐えつつ重力ブーツで宇宙船甲板に張り付いて疾走したり、というようなシチュエーションには燃えた。


ただ、敵の四肢切断にSF的な理由が感じ取れないことは気になった。幾ら撃っても死ななくて、とりあえず四肢切断して動きを止めるだけ、みたいな描写だったら納得したのだけれど。どの敵も、倒したらぐったりして動かなくなるからなぁ。重力の扱いも同様で、重力子を操る超未来技術があるらしく、船体の構造を無視して都合よく無重力の部屋が出てきたりするのだけれど、これは「SF」というよりは「SF映画」にオマージュを捧げてるってことで納得すべきだろうか。ディスカバリー号やレオーノフ号みたいに、ぐるぐる回転する居住区が欲しいところだ。



さて、本作が日本で発売中止となった理由について色々と取り沙汰されている。ある者は「グロテスクな表現が過剰すぎるから」といい、またある者は「日本では人体欠損表現が認められないからだ」といっている。
だが実際は、CESAElectronic Artsも発売中止となった理由について具体的に述べていない。


http://japan.gamespot.com/news/story/0,3800076565,20380036,00.htm


「グロいから発売中止」という説明は、ちょっと納得できかねる。最もグロテスクなものは何か?という問いに答えるのは簡単で、それは人間の変形したものだ。奇形や変異体と言い換えても良い。
本作におけるそれらはネクロモーフということになろうが、それらが原因で発売中止になったというのは考え難い。だって、バイオハザードサイレントヒルでは、ゾンビという名の人間の変形体がガンガン出てくるのだもの。


一方、「日本では人体欠損表現が認められないから」という理由は、それなりに合点できる。「Gears of war」も「Dead Rising」も「fallout3」も、人体破壊表現が無くなるか、規制により傷口や流血や切断面の描写が抑えられるなどした。手や、足や、頭が飛び、人体が生きたまま破壊される表現は、日本では認められないのだ、と。


何故、同一の表現が欧米では認められ、日本では認められないのか。文化が違うといってしまえばそれまでなのだが、理由の一つは、死生観の違いにあるのではないかと思う。


キリスト教文化圏では、肉体と魂は別のものだという価値観が主流だ、と思う。たとえ腕の一、二本無くなろうとも、魂さえ傷つかなければ、それほど問題ではない。キリストはどんなに拷問され磔にされ肉体が傷つこうとも、聖的な属性を失わない。それどころか、聖性が増しさえする。


一方日本においては、神道にも仏教にも魂や霊魂の概念はあるものの、肉体と魂は密接にリンクしており、肉体が傷つけば魂もそれなりに傷つく、というような価値観が根底にあるのではなかろうか。


つまりは「穢れ」だ。
「穢れ」の定義は、神道と仏教で異なる。宗教的、民族的、文化人類学的観点からも、それぞれで異なる。だが、おしなべてネガティブな状態を指すことは共通している。元来は現代語の「怪我」からきていて、単に負傷することを意味していた。
つまり、怪我や出血が死を怖れる価値観と結びつき、ネガティブな意味合いを持つようになった。歴史学者網野善彦によれば、人間と自然のそれなりにバランスのとれた状態がまずあり、そこに欠損が生じたり均衡が崩れたりした時に「穢れ」が生まれるらしい。「穢れ」は、自然の均衡が失われることを原因として、人間社会内部に発生する畏れや不安と密接に結びついている概念であるという。


現代日本人の多くは無宗教だ。だが、大衆が超自然的な何かを信じていないわけではない。誰もが葬式に行くし、お盆に墓参りをし、正月に初詣をし、クリスマスにはケーキを喰う。その価値観の根底には「穢れ」の概念が染み付いていて、意識するしないに関わらず、時にそれが論理の枠をこえて作動し暴走する時がある、ということは経験と感覚から分かる。
例えば、そこら辺を歩いている女子高生が「穢れ」の概念を意識しているわけではなかろう。しかし、「穢れ」の概念は彼女が女子高生に育つまでの年月で、確実に染み付いている。クラスのキモオタをバイキン扱いし、電車の手摺には触らない。自分の下着と父親のそれを同じ洗濯機で洗われることを拒否する。それはまさしく「穢れ」だ。
おくりびと」にて、主要登場人物の中で最も若い広末涼子演じる主人公の妻が、納棺夫という仕事に最も強い忌避感を表明したのも、同様の例となるだろう。多分、あの若妻は当初「穢れ」という概念を知らず、自分の中で「何故、納棺夫という仕事に嫌悪感を抱くのか?」という理由について言語化もしていなかったのではなかろうか*1
新フルエンザ感染者を犯罪者扱いとか、その際の豚肉や鳥肉の風評被害なんかも、「穢れ」意識と無関係ではなかろう。ナメック星人の指が増えたり、テレビ版では志波空鶴が義手つけたりするのも……あれは抗議を恐れてのことかな。


ここで思い出したのは、冬樹蛉氏の「脳生は人の生か?」というエントリーだ。

 日本人が文化的になかなか脳死を人の死だと認め難いメンタリティーを持っていることは、おれも実感としてよくわかる。しかしそれは、裏返せば、脳生を人の生だとも認めがたいということなのではあるまいか? たとえば、目の前の水槽みたいなものに浮かんでいる脳髄とコミュニケートできる技術基盤が確立されたとしても、日本人は、その灰褐色の塊を“人格”として尊重できるのであろうか?

http://ray-fuyuki.air-nifty.com/blog/2009/07/post-f8c8.html


先の臓器移植法改正での騒動は象徴的だ。あれは要するに、脳死を人の死と認めるか否か?についての議論だった。脳死=魂が肉体から離れた状態と見なせば、キリスト教価値観においては「人の死」として受容され易いであろう。
だが、身体の欠損=穢れと捉える日本神道的&日本仏教的*2価値観においては、たとえ脳機能が無くなっていても、パッと見で肉体が健康*3なら、魂はそこにあると考える。五体*4満足で、呼吸して、点滴に含まれる栄養成分を代謝して、心臓が動いている限り、まだ生きていると考える。というか、そう考える人が多い。ざっくりいって、そういうことなんじゃなかろうか。


そう考えると「脳生は人の生か?」という問いは重要だ。多分、どんなに知的で人間的な思考を表出しようとも、多くの日本人は単なる脳髄や高度な電子部品に人格を認め難いのだ。哀れジェイムスン教授は、日本的価値観の下では、人間と認められない。
一方で、見た目に健康な肉体を持ち、人間の形をしていて、穢れていないものについては、人間あるいは人間に近しいものとみなし、「仲間」として受容しやすい。ペットである犬猫や、大枚はたいて買ったフィギュアや、オリエント工業リアルドール達に名前をつけ、声をかけ、愛でたりするわけだ。


多分、「穢れ」と身体欠損とが密接に結びついており、「穢れ」への忌避感が身体欠損への忌避感に繋がるからこそ、単なるガキの遊戯とみなされているゲーム上にて身体欠損表現が許されないのであろう。
で、そもそもからしてグロくて穢れているゾンビやスーパーミュータントには、その規制は適応されない*5。穢れMAXなゾンビがこれ以上穢れても知ったこっちゃない、というわけだ*6。やっぱあれだね。この娘は小学生ですけどゾンビなんです!とか、ゾンビなんで陵辱とかレイプとか成立しないんです!とか主張するわけだよね、児ポ法が改正したら。


たださ、実際にゲームを、「Dead Space」をプレイしていると、次第に身体欠損やグロ描写に、それほどショックを受けなくなってくるんだよね。それは、そういうのに一々ショックを受けるよりも、迫り来る敵を処理し、サバイブすることの方がプレイヤーにとっては重要だから、つまりゲームが面白いからだ。
そう、ゲームの面白さってやつは、これまで何百何千年と日本人を縛ってきた「穢れ」という価値観から、我々を解き放つのだ!……なーんつってな。


そう考えると、海外ではゾーニングの対象とされながらも販売可能なゲームについて、日本語ローカライズする際に、CESACEROが規制の名の下に横槍を入れてくる理由も良く分かる。あまりにも日本的価値観と馴染まない残虐表現や性的表現を含んだものについて正規の日本版を出してしまうと、それを理由にバッシングされてしまうからだ。
だが、科学や医療の発達した現代社会において、「穢れ」を理由にあるものを表に出しあるものを裏に隠すというような行為が、如何に意味が無いことであるかを我々は知っている。畏れなくても良いものを畏れ、忌避する必要の無いものを忌避し、常に必要以上の恐怖に怯えることが、どれだけ偏見や差別を助長するかをしっている。だから五体不満足乙武くんは市民社会の一員として堂々と生きているし、新型インフルエンザの感染者が私刑にあうようなこともない。
願わくば「Dead Space」の正規日本版が発売されるような世の中にならんことを。



デッドスペース エクストラクション
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……でもでも、続編である「Dead Space Extraction」は日本版が発売されるらしいんだよね。それも、幸せな家族が笑顔で仲よくプレイする次世代ゲーム機Wiiで!
やはりこれは、臓器移植法が改正となって、「脳死は人の死である」という価値観が一般にも受容されたことが明白となったからであろう。そうだそうだ、そうに違いない。

*1:物語が進むに連れてその感覚も変化していくように描かれているけれど

*2:いや、本当の仏教では死を穢れとみなさないらしいけどね

*3:勿論、脳という臓器は不健康であるが

*4:繰り返すが、脳は含まれない

*5:日本版「デッドライジング」ではゾンビもバラバラにならなかったけどね

*6:日本版「fallout3」にて、普通に敵として襲ってくるグールはバラバラになるけれど、町に住んでいて会話可能で人間づきあいできるグールはバラバラにならない事実は象徴的だ