童貞が変える世界:『キス我慢選手権 THE MOVIE2』

なんだか完全に時期を逸してしまった気がするのだが、先日豪華版ブルーレイを購入してしまい、もう一回みたらやっぱり面白かったので、書いておこうと思う。
なんのことかというと、『キス我慢選手権 THE MOVIE2』のことだ。
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その時代その時代で、視聴率はそれなりだけれど「注目すべき深夜のバラエティー番組」がある。かつては『夢で逢えたら』や『ガキの使い』がそうだった。『ゴッドタン』は数年前からかなり多くの人の「注目すべき深夜のバラエティー番組」に位置づけられているのではないかと思う。
「キス我慢選手権」はそんな『ゴッドタン』を現在の位置に押し上げた名物企画だ。


「エロい演技で迫るAV女優とのキスをどう我慢するか?」
AV女優にしては演技派なみひろの、本気とも嘘ともつかない(や、演技なのだが)エロい迫り方に、主役である芸人が悶絶する――その姿を観て、深夜番組にエロさを期待するうら若き視聴者も悶絶する。キャストが一部重複するおねマスと同じく、官僚主義コンプライアンスの激しさをひらりとかわす現代のギルガメッシュナイト的企画――収録前、番組スタッフの間での「キス我慢選手権」はそのような認識だった筈だ。
だが、劇団ひとりとみひろの場合は違った。キスをするまいと劇団ひとりかます、まるで海外ドラマの日本語吹替のようなアドリブを、涙で目を潤ませたみひろや、完璧なキャラ作りをしたかすみ理穂が受ける。スタッフの期待*1を上回る、まるでジャズセッションのようなアドリブ合戦が展開された。「キスを我慢する」から「アドリブ合戦で勝利する」に番組内容が変わった瞬間だった。
「キス我慢選手権」は話題を呼び、シリーズ化され、DVD化もされた。有名俳優や舞台人も参加するようになった。
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そして、とうとう「映画化」された。


そう、「映画化」だ。テレビより豪華な舞台、テレビより豪華なキャストで、テレビと同じ「映画」を作り、テレビで大規模な宣伝を行い、シネコン映画館で上映する――お馴染みの「世界の亀山モデル」による映画化だ。シャープは液晶市場を読み違えて凋落した。亀山千広が社長になったフジテレビは視聴率低下に苦しんでいる。しかし、「映画化」における「世界の亀山モデル」は堂々と生き残っているのだ。


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ここにきて、我々は「果たして映画とはなにか?」という問いに直面することとなった。
確かに『キス我慢選手権 THE MOVIE』は面白い。劇団ひとりやみひろによるアドリブ演技合戦は最高だし、舞台もカメラワークも編集も凝っている。だが、これを映画館で観る意味とは果たしてなんなのだろうか? 本質的にはテレビと変わらない映像、本質的にはテレビと変わらない企画、本質的にはテレビと変わらない笑いだ。


最も気になったのは、「五賢人」なる扮装をして「ウォッチングルーム」に陣取ったMC陣によるつっこみ、いわゆる「天の声」だ。つっこみというのは、笑いどころの指摘であり、解説であり、説明だ。極端な話、つっこみとは「おまえら、こう観ろよ」という指示だ。
せっかく脚本家が書いた様々な意味合いのある台詞が、「天の声」のつっこみにより、一つの意味に限定されてしまう。せっかくみひろが仕掛けた様々な情感に溢れた演技が、「天の声」のつっこみにより、一つの解釈しか許されなくなってしまう。せっかく劇団ひとりかました衝撃的なアドリブも、「天の声」のつっこみにより、衝撃が薄れてしまう。「ここで笑え」「これはこういう意味だから笑え」「これはアドリブなんだから笑え」……そんな指示ほど「映画」的でないものはない。
何故なら、全部説明してしまうのが「テレビ」であり、観客に解釈の余地を残すのが「映画」だからだ。
果たして、『キス我慢選手権 THE MOVIE』は「映画」なのか?


……そんなことを思っていたわけなのだが、続編である『キス我慢選手権 THE MOVIE2』は確かに映画だった。



以下ネタバレ



テレビの特番、劇場版……と枠が大きくなるにつれて、『キス我慢選手権』は変質していった。
現在の『キス我慢選手権』は、ある意味、プロデューサーや監督や脚本家といったスタッフ陣――つまりは「システム」と、劇団ひとりによる戦いである。スタッフ陣による脚本やキャスティングは、劇団ひとりを追い込むための「仕掛け」であり、この「仕掛け」に、劇団ひとりがアドリブでどう返すか? 「仕掛け」に乗るのか、乗らないのか? スタッフ陣が半ば期待し、予想するリアクション(それは視聴者の期待であり予想でもある)をどう裏切り、かつ面白くするのか? ――勿論、これはスタッフ陣と劇団ひとりの信頼関係に基づいた「SMプレイ」であり、「天の声」のつっこみにより一から十まで解説されるので、全部説明する「テレビ」の範疇の攻防である。


今回、プロデューサーや監督や脚本家といったスタッフ陣が用意したのは、メタフィクショナルな仕掛けだった。
たとえば、ほとんどバラエティー番組には出演しないイメージのある伊藤英明*2や、劇団ひとりと同期ともいえる元アクシャン安井順平がキャストとして起用されているのだが、注目したいのは彼らが吐く台詞――つまりは脚本だ。


たとえば中盤、舞台となる高校の敷地内にあるプールにて、劇団ひとりとヒロインである上原亜衣によってなされるやりとりは意味深だ。

「私ね、この世界がずっと嫌いだった。今まで出会った中には二通りしかいない。私の力を怖がってとことん避ける人と、私の力を利用する人。だから私、本当の自分を誰にもみせられない。
ねえ川島くん、私の力って本当に望まれてるのかな? もっと強くなれって。でも人前では力を使うな、秘密にしろって。いつもそんなこと言われて、私、どうしたらいいのかな?」

この台詞、「力」つまり「超能力」を「才能」の隠喩として捉えると、なんだか心がざわざわさせられる。クレーンを使った力の入ったカメラワークも相まって、テレビでは「セクシー女優」と名乗らざるをえない職業――AV女優である上原亜衣の、虚実入り混じった思いを感じてしまうのだ。


これに対して劇団ひとりが返すアドリブは、学園一の人気者でスーパースターだけれど、本当はただの童貞だという告白だ。

「高校入ったら必ず学園一の人気者になってやろうと思ってさ、死ぬ気で勉強がんばった。スポーツも一生懸命やった。一生懸命爽やかな男も演じたよ。本当はろくでもねぇ人間なのにさ。
それでやっと手に入れたんだよ、<学園一の人気者>を」

「人間はな、皆つらいんだよ。皆悲しいんだ。この世で生きてくってのはそういうものなんだよ。
だから、無理して笑うことだって山ほどある。
でも不思議なもので、無理して笑うことで、なんだか本当に嬉しい、そんな気分になってくる」


そして劇団ひとりは、キスをせがむ上原亜衣に対し、本当は童貞だからキスなんてできないとかわす。

「確かにおれは学園一の人気者で、皆からみればスーパースターかもしれない。けど、本当はただの童貞。分かった?」


「童貞」とはつまり、芸人でもテレビの中の劇団ひとりでもない、素の人間としての自分のことだ。劇団ひとりこの「童貞」という言葉をそこここで用い、それらは伏線として、最後に安井順平が死ぬシーンできっちりと回収される。


安井順平は死ぬ間際に、心の底で主人公「川島省吾」にずっと嫉妬していたという台詞を吐く。

「おまえは世界を救う力を持っている。だがおれはそうじゃない。
おれとおまえで何が違うんだって思ったよ。情けないだろ?」

これまた意味深だ。
世界を救う力とは、つまり劇場やバラエティ番組で客や視聴者を笑わせ、現実に疲れた人間を救う力のことだ。今やゴールデンのテレビ番組に無くてはならない存在となった劇団ひとりはこの力を持っているが、安井順平は持っていない。同じ時期にデビューしたものの、劇団ひとり安井順平は芸能界での立ち位置にはっきりと差がついてしまった。劇団ひとりがテレビで活躍しているさまを、売れない自分は負け犬のような気分でみつめるしかない、情けないだろ?――そういう意味に聞こえてしまう。
これに対する劇団ひとりの台詞が凄い

「お別れに一ついいことを教えてやるよ。おまえ、おれが完璧だと思ってるんだろ?
本当は童貞だ」


ただ、これらはまだ可愛い方だ。
なんと終盤で、劇団ひとりや仲間たちが繰り広げていた第一部の学園生活や第二部のポストアポカリプスな反乱劇は、すべて主人公である「川島省吾」が脳内でみている夢であることが明かされる。「現実」の「川島省吾*3はとある研究所で昏睡状態となっており、頭蓋骨を開けられ脳に電極が刺され、みている夢を「プログラム」でコントロールされているという描写がなされる。
そしてラスト。近藤芳正演じる研究所長が登場し、「プログラム」とは「番組」のことであり、主人公のふるまいに視聴者が一喜一憂していることを告げるのだ。

「これをみて、無責任に笑う連中のためにお前は苦しんだり悲しんだりしているのだ。悔しいか?」

「こんなプログラム、現実世界にはなんの影響も与えない。多少笑えるものを作ってもな、現実はもっと辛くて厳しい。お前らがやってることに意味なんてない!」

まるで『トータル・リコール』と『トゥルーマン・ショー』を合わせて劣化コピーさせたような設定だが、意味することは明白だ。『ゴッドタン』をはじめとするバラエティーを作り、皆を笑わせ、視聴率のために一喜一憂する……そういったことを反映させているわけだ。バナナマン設楽が「テレビみたいなことかー」というツッコミに、ちょっと冷めてしまうが。
それでも、これらは予想の範疇でもあるといえる。前作『キス我慢選手権 THE MOVIE』では、全ての元凶はウォッチングルームにいる五賢人という同じくメタフィクショナルな仕掛けが用意されていた。続編である本作で、同様の仕掛けが高いレベルで用意されているのは当然だ。


凄いのは、これに対する劇団ひとりのアドリブだ。
なんとたった一つアドリブ*4でスタッフ陣の仕掛けをひっくり返し、物語の主導権を自分のものとしてしまうのだ。『キス我慢選手権』がスタッフ陣と劇団ひとりによる戦いなら、これは逆襲だ。どんな童貞でも、どんなちっぽけな人間でも、台詞一つ、言葉一つで世界を変えられるのだ。


近藤芳正は苦しそうに言う。何故苦しそうなのかというと、この台詞も近藤によるアドリブだからだ。
「やりきれないよ。
言っとくがな、このプログラムが消えるってことは、お前の命も尽きるということだ。
だが、くだらない現実だけは続いていく。
おまえは常に負け続けるんだよ。それでもおまえは続けるのか?」


これに対する劇団ひとりのアドリブもまた凄い


「ああ、続けるね。
くだらない現実だっていうんなら、おれが面白くしてやるよ」


「天の声」による解説が「決まったー」だけなのも良い
「おれが面白くしてやる」の意味は明白だ。劇団ひとりはあくまでも芸人だ。どんなに苦しくて悲しい番組づくりであっても、おれが面白くしてやる。くだらない現実だけが続くとしても、常に負け続けるとしても、おれが面白くしてやる。メタフィクショナルな展開に、メタフィクショナルなアドリブで返しきると共に、フィクションの素晴らしさを謳う劇団ひとりの凄さがここにある。


もっといえば、これは劇団ひとりから視聴者や観客に向けたメッセージでもある。「童貞」であり「くだらない現実」を生きているおれたちに、「現実を面白くするのはおれであり、おまえであるのだ」と言っているわけだ。


もしかして、この最後のアドリブのやりとりこそが、映画館でこの「映画」を観る理由なのかもしれない。」

*1:劇団ひとりのみもうひとつのセットが用意されていた

*2:あくまでもイメージであり、番宣がらみで嬉しそうに『めちゃイケ』に出演し、ドキュメンタリー風ロケコントをやっていたのが印象深い

*3:当然、人形なのだが

*4:さすがに書けん