ニチアサの青空が目に沁みる:『ゴーカイジャー』第28話 「翼は永遠に」

なんか特撮の話が続いているけど、書かざるを得ない。今日の『ジェットマン』じゃなかった『ゴーカイジャー』は泣けたなぁ。以前紹介した『父と暮せば』もそうだったのだけれども、こういうジェントリィ・ゴーストものに自分は滅法弱い。まったく、青空じゃなかった台風の雨が目に沁みやがるぜ……


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八手三郎
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ジェットマン』が放映されていた頃、自分は高校生だった。そろそろ戦隊モノを観ていたら馬鹿にされる年齢だ。いや、そろそろじゃないな、大分か。
でも、男子校なのでオタっぽい奴が多かったことと、当時読んでいたB-CLUBが雨宮慶太を大プッシュしていたので、周囲の雑音など気にせず楽しく観ていたことを覚えている。


なによりも、『ジェットマン』は面白かった。戦隊モノには色々な「お約束」があって、律儀にそれを守ったりあえて守らなかったりすることから時に伝統芸能に喩えられるのだけれども、それまでに無いくらいキャラの立ちまくった登場人物が、それまでにないくらいのハイテンポで三角関係と愛憎と友情を演じまくるドラマに魅了されたのだ。それも、敵味方で。


だから、もはや伝説となっている最終回は本当に衝撃的だった。こっちはもう何年も戦隊モノを観続けてきているわけだから、Aパートで敵組織が壊滅したのを観て、ちょっとおかしいなと感じるわけですよ。早すぎるだろうと。Bパートで何か起こるんだろうなと。大方、倒しきれなかった幹部の一人が復活するとか、ラスボスの体の一部が怪人化するとか、そんな展開を想像していたのだが、まさかブラックコンドルこと結城凱がその辺のチンピラに刺されて殺されるとは……
しかも、ここで大事だったのは「バイラムを倒した男がチンピラに殺された」ってことじゃなかったんだよね。地球の平和という大文字の正義を守る男が、ひったくり犯を捕まえるという小文字の正義を守るためにも命をかけたってことなんだよね。その結果、殺されてしまうというのがショックだった。
何しろ、こっちは一年間彼らの活躍を見守ってきたわけだ。気持ちだけは一年間ジェットマンと一緒に戦ってきたといっても過言ではない。
そんなわけで、後年になって深イイ話で紳助に馬鹿にされた時は腹が立ったなぁ。

佐藤健東映ヒーローの一員だったらもうちょっとフォローしてやれよと。深イイのレバー引いてやれよ、と。



話は戻って、『ゴーカイジャー』なわけなのだけれども、ブラックコンドルがゲスト出演すると聞いて、嬉しい一方で、やっぱり複雑な心境ではあったんだよね。「実は生きてました」的な話も不可能ではないと思うのだけれど、「きちんと生きた」と「きちんと死んだ」は裏表の関係なわけで、あの最終回のみならず『ジェットマン』という番組そのものが汚されるような話は嫌だなぁと思ったのだ。放送から二十年、自分も大抵のことでは傷つかないデリカシーの無いおっさんに成長したのだが、『深イイ話』を公式でやられたら堪らない。
でも、東映スタッフ内でも激論があったとか、シリーズ構成の荒川稔久が最後まで反対したとか、オリジネイターである井上敏樹が脚本を担当するというエントリを読んで、ちと安心した。多分、視聴者と同じ気持ちの作り手が真剣に作っているから、『ゴーカイジャー』は面白いんだろうな。



で、実際観た感想なのだけれども、まず6人目の地球人には結城凱の姿が見えないという設定が、この番組の立ち位置を良くわかってるよね。地球人にしか地球人の霊はみえないとか、5人戦隊の大いなる力は6人目の戦士に受け継がれないとか、はたまた死んでることを分かりやすく表現するためとか、色々と理屈や説明をみつけることはできるのだけれども、自分はもっとメタ的な理由を考えてしまった。
夏の劇場版もそうだったのだけれども、ゴーカイジャーが本来の海賊としての活動を行う時、伊狩鎧は排除されがちだ。唯一の地球人で、他のスーパー戦隊を「さん付け」で先輩扱いする伊狩鎧は、他の5人よりも視聴者に近い、メタ的な存在だからだ。
ギンガマンがゲスト出演した第20話「迷いの森」なんかはそれが上手くストーリーに生かされていた。
しかし、井上敏樹にとって、ヒーローが活躍する世界は、現実とは別の世界だ。父が脚本を書いた番組が今でも映り、死んだ俳優が演じるヒーローが今でも活躍するテレビ(CSだけど)の中の世界は、この世というよりはあの世――常世の国といっても良いだろう。
仮面ライダー・仮面の忍者赤影・隠密剣士・・・ 伊上勝評伝 昭和ヒーロー像を作った男
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そのようなテレビの中の死の世界で、更にそのまた死の世界から蘇ってくる結城凱――彼は二重に「死」を背負っているわけだ。片足を現実世界――「生」の世界に残してきている伊狩鎧に結城凱の姿がみえないのは、そういうあたりが理由のように自分には思えた。
同じようなメタファーの使い方――劇中での生と死を現実と虚構に関連づけるやり方は他にもみられる。一番唸ったのは、他のジェットマン4人がスーパー戦隊を引退して普通の生活を送っていて、結城凱は彼らを巻き込まない為に一人で戦っているという設定だ。これは、他の4人のジェットマン役者が引退(同然)なことを反映させたように思えるんだよね。お前らが引退しても、おれは(そんなに)売れない役者業を続けて皆に勇気を与えるんだ、みたいな。
勿論、こういった描写や演出は、第一話のレジェンド大戦でジェットマンガンガン戦ってたシーンと矛盾すのだけれど、いいんだよ。いんだよ、細けぇ事は!!


もっといえば、この回での描写や演出が既存の設定を超えてしまうことが、この回でのお話――死を乗り越えても戦い続ける結城凱の姿をみてゴーカイジャーが自分達の限界を超えるという話と相似形をなしているように思えるんだよね。最高だったわー。


もう一つ。同じお祭り番組でも、『ディケイド』はヒーローに変身する前の人間を演じる役者は交換可能だった。すなわち、スーツというガワ(+スーツアクター)にヒーロー性が宿っているという価値観だった。
一方で、『ゴーカイジャー』におけるスーツはあくまでも初期装備の一つでしかなく、オリジナルを演じた役者にヒーロー性ーー大いなる力が宿っているという価値観なのだな。だから、死の国から蘇ったブラックコンドルハカセが変身したブラックコンドルとでは、動きも違うしスーツアクターも違うわけだ。
これは、どっちが良いとか悪いとかいう話ではない。似たような話でいうと、たとえば自分は三代目ドラえもん声優をディスる気分になれない。その上で、興味深い差別化だと思った。
……ただ、ということは初代イエローフォーとか絶対にゲスト出演したりしないんだろうなー、とも思ったよ。