ライダー先進国・怪獣後進国

先日、まるで灼熱のインドの闇市のような夏コミに行ったのだが、そこで『月刊ヒーローズ』の『ウルトラマン基金』同人誌なるものを買った。

これが面白かったので、ちと紹介したい。



まずは『月刊ヒーローズ』の看板連載らしき、清水栄一×下口智裕@『ラインバレル』コンビによる、新連載『ULTRAMAN』インタビュー。インタビュアーは「クセになるウザさ」という二つ名を『文化系トークラジオ Life』のチャーリーに付けられた宇野常寛だ。
このインタビューによると、新連載『ULTRAMAN』はなんと等身大でスーツを着て変身するウルトラマンらしい。平成ライダーがこれまでのライダーを破壊することで新しいものを作ってきたように「ウルトラマンを破壊する」ことで新しいウルトラ像を作るらしい。

じゃあ「小さかったらウルトラマンじゃねーのかよ?」っていうのを、ぶつけられればいいかな、と。

……と清水は発言している。興味深い。
同人誌の構成として、その後に上原正三のインタビューを載せ、応援メッセージまで引きだしている力の入れようだった。



インタビュアーを務めていた宇野常寛が載せていたコラム「3.11以降のウルトラマン」も興味深かった。

たとえば「ウルトラマンメビウス」が僕ら中高年の昭和特撮マニアにとっては、あの「ウルトラの星」をとり戻してくれた優しい作品だったのは間違いない。
(中略)
だが、私がここで指摘したいのはもっと別のことだ。前述の「マーケティング」とはまったく別のレベルで今、「ウルトラマン」は死にかけている。いや、「怪獣映画」という表現自体が死に掛けているのだ”

怪獣」とはそもそも大戦期の暴力、大量破壊の記憶の生んだイメージだった。その意味において、ウルトラマンは、いや「怪獣映画」というジャンルそれ自体が、70年代の時点で既に壊死を始めていたのだ。作品の基本的な構造を形成する比喩関係自体が、ゆっくりと崩壊しはじめたから。

つまり、怪獣映画やウルトラマンを今「再生」しようと思うのなら、「怪獣」というイメージを更新し、現代における新しい「巨大な暴力」「大量破壊」の比喩として機能させなければならない。それも、90年代のそれ(「平成ガメラ」シリーズ)を下敷きにしたうえでの、さらなる発展形として。しかし、少なくとも現在の「ウルトラマン」の担い手たちはそこから目をそむけ、記憶の中の昭和と戯れているように思えてならない。

この2011年――日本は戦後最大級の「破壊」を被った。どこかの国に爆弾を落とされたわけでもなければ、社会に悪意を持つ誰かが暴走したわけでもない。そして、福島の原子炉たちはこうしている今も、不気味なうめき声を上げ続けている

もし君がウルトラマンを、怪獣を再生しようと思うのなら、まず最初にはじめなければならないのは、現代社会におけるもっとも大きなもの、世界を支える構造とは何かを考えることだ(昔はそれは国家だった)。その上で、巨大な暴力をどうイメージしたらいいかを考えることだ。

君にも「ウルトラの星」が見えるのなら、まずはそれを正しく封印するところからはじめるべきだろう。

この宇野の指摘は極めて真っ当だ。
リトル・ピープルの時代
宇野 常寛
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宇宙戦争』『クローバーフィールド』『スカイライン』『モンスターズ』といったハリウッド製の怪獣映画たちは、911という「巨大な暴力」「大量破壊」の比喩として機能している。成功しているといって良いだろう。怪獣の恐ろしさと人間集団の恐ろしさを同列に描いた『グエムル』も韓国唯一の怪獣映画として成功していた。多分、「平成ライダー」シリーズも、もうちょっとチープな形ではあるものの、成功するだろう。


シリーズとしての「ウルトラマン」や「ゴジラ」はどうか? そういえば第五福竜丸被爆にショックを受けた田中友幸が産んだのが、一番最初のゴジラだった。しかし、平成ゴジラで「原爆マグロ」や「放射能雨」といった言葉が出てくることは無かった。「福島の原子炉たちが不気味なうめき声を上げ続けている」今こそ、新しいゴジラが生まれる時ではないのか。


しかし、日本ではその萌芽すらみえない。もしかして、それを最初にやるのは『モンスターズ/地球外生命体』のギャレス・エドワーズなのか? 日本は怪獣映画という分野でも後進国になってしまったのかもしれん。
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