しあわせの在り処:『監督失格』

監督失格』鑑賞。
その内面の吐露に観客を巻き込む表現技法から「表現に関わる全ての人にみてもらいたい」なんてコメントをツィッターでみかけたが、むしろ「愛」と「死」がテーマとなっている普遍的な映画だと思った。


自分はAV女優やピンク女優としての林由美香のことが、あまり好きではなかった。単純に好みのタイプで無かったというのもあるし、自分がAVを積極的に観るようになった頃、既に林由美香はAV女優として盛りを過ぎていた、というのもある。AVコーナーの片隅に数本残っていた主演作の中の彼女は、いかにもな80年代的ルックスで、積極的にレンタルして、観て、彼女をネタにオナニーしたいとは思えなかったのだ。


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だが、『あんにょん由美香』を観て、皆が林由美香という女優のどこに魅力を感じ、どういう所を愛していたかが、それなりに分かった。つまり林由美香は多くのAVやピンク映画監督にとってのミューズだったのだな。ゴダールにとってのアンナ・カレリーナ、タランティーノにとってのユマ・サーマン周防正行にとっての草刈民代ティム・バートンにとってのヘレナ・ボナム=カーター、伊丹十三にとっての宮本信子……はちょっと違うか。
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タランティーノユマ・サーマンとの不倫疑惑が持ち上がった時、「彼女はぼくのミューズだよ。そんなことするわけないじゃないか」とコメントしていた。タランティーノの気持ちは痛いほど分かる。実際につきあって、セックスしたら、ミューズとしての神性が失われてしまう、という価値観だ。ミューズは現実に存在するわけじゃない、神の世界――監督の頭の中にこそ存在するからだ。



だが、ミューズと実際につきあい、セックスし、結婚までする映画監督は多い。『監督失格』の平野勝之にとっての林由美香もそのような存在だ。だから、この映画の前半――『由美香』から素材を引用した北海道への自転車旅行のパートは、現実の林由美香と監督の頭の中の林由美香との対決として再構成される。
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しかし唯一、二人の林由美香が共通して主張していることがある。「どんな状況でもカメラを回して、”作品”としなきゃ監督失格」というメッセージだ。これは、本作における林由美香の子供じゃなかった由美香ママにも受け継がれる。で、本作が「オナニー」ではなく「作品」になっているのは、その葛藤が主題の一つとなっているからだ。



だが、自分がこの映画を好きなのは、別の主題が気になるからだったりする。「表現とは何か」というよりも、「恋愛とは何か」の部分に惹かれるのだな*1

気持ち悪いのは監督が、そういう自分自身に酔ってる匂いが漂ってくるところ。被写体のAV女優より、自分のことを好きだとしか思えなかった。

……TVブロスでは渡辺麻紀が本作を上記のように酷評しているのだけれど、全く同じ理由で自分はこの映画が好きだ。
だいたい、人が人を恋する時って、目の前の相手そのものに惚れてしまうものなのだろうか? そうじゃないだろう。我々は目の前の異性を好きになったり愛したり恋したりするのではなく、彼なり彼女なりを成り立たせる諸要素から好みのもののみを取り出して、自分の心の中に再構成された相手に惚れるんじゃなかろうか。本作で林由美香が口にする「恋愛が長続きしない理由」も、これと同様のことだと思う。


だから、平野監督が愛していたのは現実の林由美香ではなく、自分の頭の中の林由美香だったってことなんだよな。何が凄いかって、それを監督自身が自覚してることだ。「自分が張り付いてる」って、そういうことだ。で、男にとっての恋愛って、すべからくそういうことなんじゃないか?



どうしても比較してしまうのは、やはり『あんにょん由美香』だ。あの映画に出てくる林由美香は、全部誰かの撮った二次映像を使用していた。多分、比較的(あくまでも平野やカンパニーと比較してという意味)林由美香に思い入れの無い松江哲明が撮ったのは「おれたちにとっての由美香」だった。
だが、『監督失格』はどこまでいっても「おれにとっての由美香」だ。ある時、それは現実の林由美香をも超える。「自分にとっての自分だけの由美香」になる。生前の林由美香が「しあわせだよね」と呟くシーンをあんなにもアイロニーたっぷりに挿入する平野は、半ばそのことに気づいてもいる。やっとの思いで見出した「お別れしたくなかったんだ」という結論すら、本当に自分の思いであるかどうか分からない。


だから最後の矢野顕子の歌――『しあわせなバカタレ』の歌詞は本当に重い。幸せというのは個人個人の頭の中にあるものだ。だから、幸せじゃなくても幸せだった。現実にあるのは痛みだけ、自転車のペダルをこいだ筋肉痛の痛み、ぎっくり腰で泣くほどの痛み、6年間も自分の作品を作れなくなってしまうほどの喪失の痛み、孤独であることに気づいた痛み。現実の林由美香がいなくなった瞬間から、苦痛だけが現実だ。
そういうわけで、泣きながら自転車で疾走する自分撮りは腑に落ちた。

*1:この二つの主題はある程度重なっているわけだけれども