それぞれのナラティブ:『その街のこども』

タマフルでもDigでも噂してる『その街のこども』を観にいった。昨年の1月にNHKで放送され、大反響を呼んだ結果、再編集版が劇場公開される運びとなったという話を聞くに及び、観たくて観たくて堪らなくなったのだな。噂通り、面白かったよ。


どういう話かというと、阪神大震災という共通体験を持った男女による一夜限りのロードムービーといった感じだった。男女と書いたが、勿論NHKなので濡れ場はなく、というかラブストーリーですらない。
一番驚いたのは画面の質感だ。NHKのドラマといえば、ご自慢のハイビジョンカメラでどこまでもハッキリクッキリな人工的ビデオ映像というイメージがあったのだが、この映画の画質は荒い。多分、ドキュメンタリー映画なんかでよく使われる安い手持ちのデジタルカメラを使っているのだと思う。
八割は夜の神戸の住宅街を彷徨うシーンなのだが、照明も独特で……というか街灯だけ(にみえる照明)で、役者の顔が暗く潰れていることもしょっちゅうだ。
森山未来サトエリの演技も独特で、自然といえば聞こえは良いが、ナチュラルすぎる演技の連続だ。多分、最初の居酒屋のシーンはほとんどアドリブなんじゃないだろうか。


普通、こういう作り方をした映画は安っぽくなるものなのだけれど、それらがことごとくプラスに働いているところが、この映画の凄いところだと思う。
森山未来サトエリは、二人とも神戸出身で、阪神大震災の被災者だ。しかも、脚本には二人の体験も反映されているという。だから役者としての二人はいつも以上に役に入り込んでいる。プラス、この半分ドキュメンタリーみたいな撮り方だ。そうなると、どこまでが創作で、どこまでが実体験か、分からなくなってくるのだな。


たとえば居酒屋のシーン。サトエリ森山未來はボックス席みたいなところで飲んでおり、手持ちカメラが二人の顔を交互に捉えるのだが、時折森山未來の顔がスダレで隠れる。それは、森山未来が心を隠していることの象徴だったりする。
たとえば、時折、壁やガードレールに体をもたれかけさせて休んだり、運動して体を温めたりするカットがインサートされる。その時の二人の距離感――寄り添うでもなく、他人同士でも無くといった立ち位置が、やけにリアルだ。
たとえば冬の夜の住宅街。深夜なので、誰一人いない暗くて静かな住宅街を、二人は白い息を吐きつつ歩く。月光に青白く光るアスファルトや、外灯に黄色く照らされるコンクリートの中を二人は進む。まるで死語の世界や誰かの心象風景の中を歩いているような静謐さがある。


夜の街を歩きながら、二人は語り合う、阪神大震災の時、自分は何を体験したかを。何を感じたのかを。その後、どう生きてきたのかを。
それは、単に震災で苦労したとか、単に友達や家族が死んで悲しかったとか、有り体の言葉や物語に回収されない、自分自身の言葉で紡がれた物語だ。


だから、同じくDigで紹介されていた「テレビディレクター岡宗秀吾のすべらない震災話」も、とても面白かったし、心に残った。
2011-01-16
涙が出るほど笑えつつ、それ以外のものも確かに感じる、良いトークだった。ありきたりの受容の仕方ではなく、不謹慎の一語で切り捨てるのでもなく、こういう、言語化不可能なものを伝える為に、小説や映画や物語というのはあるのだと思った。
そういや、黒沢明もプラカード立てるのは嫌いみたいなこと言っていた。小林よしのりの『戦争論』も、ジープでジャングルを徹夜で疾走したなんていうような、太平洋戦争に冒険譚や英雄譚を見出す箇所は、当時の自分にとって刺激的だった*1



……映画の話に戻ろう。
本作は、二人のナチュラルな会話シーンが続いたら、たっぷりと間をとったモンタージュのシーンを必ず入れている。
この二種のシーンの連続がもたらすものは何かというと、観客の心の没入なのだな。観客は自分の震災体験を、喪失を、エクストリームで極端な何かを思い出すのだ。


特に、サトエリが口にする「くふう」というのが、いつまでも心に引っかかった。森山未来が「あてどがないわ」と話を打ち切ろうとするあたりの一連のやりとりだ*2


ここで自分の頭に思い浮かんだのは、物語というものが一人の人間に果たす役割についてだったりする。
我々は現実というものを現実そのままの形で受容できない。ある程度単純化し、要約し、意味付けし――物語化する必要がある。剥き出しの現実では情報量が膨大すぎ、刺激が強すぎるのだ。それが震災や友人の死といった、極端でエクストリームなものなら、なおさらであろう。
しかし一方で、自分自身のオリジナルな体験がありきたりな物語に回収されたくないという思いも確かに存在する。地震で生活が苦しくなるとか、友達が死んで悲しいとか、そんな一言で済ませられない思いというものが絶対にある。物語化するということは単純化するということで、それが他人の不用意な手によって行われると、自分自身の物語ではなくなってしまうのだ。


つまり、誰だって自分の思い出は自分自身の言葉で、自分自身の物語として語りたいのだ。というか、そうでなければ、極端でエクストリームな現実に耐えられないだろう。震災や戦争や難病や自分や他人の死といった、人がその人生で出会うであろう対処困難な現実に。


人はやがて死ぬ。愛する家族や友人も、いつかはいなくなる。帰る家は失はれ、肉体はやがて朽ちる。
サトエリのいう「くふう」というのは、震災の時だけに限らない。だからこの映画も、震災被災者以外のこころにも響くのだろう、なんて思った。

*1:それ以外の部分にはついていけなかったが

*2:ここいら辺の川岸を歩くシーンからは、ラストに向けて構図や編集のテンポも調整してるのが上手い