俺たちアスホール・オッケー世代 その2:『ソーシャル・ネットワーク』

ソーシャル・ネットワーク (デビッド・フィンチャー 監督) [DVD]
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(前回の続きのような、続きでないような)


映画『ソーシャル・ネットワーク』は色んな見方のできる作品だと思うのだが、自分は非モテ非コミュの持つリア充への愛憎ってのが最大のテーマとみたな。


世間では、この映画の主人公マーク・ザッカーバーグはイヤなイヤなヤツということになってるらしいが、映画の中のザックは現実のザッカーバーグ本人より魅力的じゃないかと思ったよ、私は。常にキレキレな目で、どんな状況でもふてぶてしい台詞を吐くジェシー・アイゼンバーグはザック役を好演している。


つまり、この映画でザックがやろうとしていることは、一言でいって復讐だと思う。


タイラー・ダーデンが自分を飼い慣らそうとする世の中に復讐するように、ゾディアックが70年代という時代に復讐するように、マーク・ザッカーバーグは自分を拒絶した彼女に復讐を果たそうと決意する。それが、映画の冒頭――10分間にわたる彼女との会話で説明されるのだ。
彼女は――実のところ象徴に過ぎない。女という意味だけではない。つまりは自分のようなナードを嫌悪し排斥する存在――ボート部に、名門クラブに、リア充に、アメリカ社会の支配者たるエスタブリッシュメントだ。


復讐に使う武器は才能だ。非モテ非コミュといった呪いと引き換えに手に入れたプログラマとしての才能がザックの武器だ。それを誇示するかのように、他の若者やオトナ達がTPOを踏まえた服装をしている中、ザックはいつもパーカーに短パンでマウンテン・デュー。やっぱり炭酸はハッカーの証だよね。


だから、心の中にジョーカーやトラヴィスロールシャッハを抱える我々のような観客にとって、この映画は痛快すぎる。被写界深度の浅さは視野の狭さ、世界の狭さだ。見ろ。おまえらお坊ちゃん兄弟がボートで水遊びし、ヨーロッパのパーティーモナコなんて小国の王子とエスタブリッシュメントの真似事なんかしている間に、おれの作ったFacebookはウイルスの如く世界中に広まっているぜ! こんなこと、おまえらリア充たちには逆立ちしたってできないだろう?


だが、いつまでたってもザックは満足しない。復讐は終わらない。何故か。それはザックが復讐を決意した動機に関係している。


復讐の動機。それは、誰もザックのことを人間として認めてくれないからだ。ザックの才能を認めてくれる人間は沢山いる。だが、呪いなんて認められても、嬉しくもなんともない。おれの人間性を認めてくれと、大声で、早口で、心の底から喋れば喋るほどに、彼は冷たい一言で拒絶されるのだ。”You are asshole! (あんた性格サイテー野郎ね!)”と。


例外として、同じような非モテ非コミュの仲間は自分のことを人間ろして認めてくれる。だが、それでは駄目なのだ。実のところザックは復讐の対象を心の底から憎んでいると同時に、それを手に入れようと激しく求めてもいるのだから。


それとは……ザックが求めようとしながらも、このままの非コミュな生き方を続けていたら手に入らなさそうなもの全てだ。


全然ソーシャルじゃないのにソーシャル・ネットワークの設立で成功した男の悲喜劇がここにはある。ウィンクルボス兄弟や親友だった元非モテからの訴訟も、ちょっとコミュニケーションに気を付けて要領良く振る舞えば、充分回避可能なトラブルだ。しかし、ザックにはそれができない。というか、そんなことができる普通の男に、Facebookは立ち上げられなかったのだ。


だが、映画の最後の最後、ふとしたこと(それもザックには珍しい自分からのお誘い)がきっかけで、ザックは観客の代表を象徴する司法研修生から、とある言葉をかけられるんだよね。同じ"asshole"という単語を使いながらも、その言葉にはザックの呪いを解く力があるのかもしれない。もしかすると、これでザックはちょっとだけオトナになれるのかもしれない。最後の最後になって『ソーシャル・ネットワーク』はゼロ年代の、ポスト・ドット・コム時代のビルドゥングス・ロマンであることを高らかに宣言するのだ……



……というのが自分の見立なのだけど、おそらく全く違う視点からの見方も可能だと思う。
たとえばエドゥアルドからみると、非コミュアスペルガーでコンプレックスの塊であったザックが、社会的成功を望む為に同族だった非モテを裏切る映画にみえる。最後、ザックは味方である筈の弁護士に食事の誘いも断られ、億万長者にはなったものの、友達を作ろうとしてもFacebookのボタンを押すことしかできない孤独な人間になったかのようにみえる。


前回のエントリで言及したように、FacebookSNS紹介映画、新しくWebサービスを立ち上げて成功する際の艱難辛苦物語としてみることも可能だろう。ビジネス系リア充がこの映画を「SNSを使ったビジネスの参考に!」なんていってる状況は映画以上に面白い。「面白い」と書くのは、絶対に参考になるわけねーと確信してるからだが。


様々な視点からの鑑賞に耐えられ、様々な立場の人間が感情移入できる映画――それは普遍性のある映画ということだ。フィンチャーの前作『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』は一組のカップルの人生にまつわる形での普遍性があったが、本作におけるそれはは革新的な技術やサービスを立ち上げて世界を変えたり、或いは復讐したりする際にまつわる普遍性ということだろうか。
この作品が「ゼロ年代の神話」なんて呼ばれているのも良く分かる。