蘇るアニキ:『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』


『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』などという膝カックンな邦題がついてしまった『Vengeance 復仇』を観たのだが、やはり面白かったよ。


ザ・ミッション 非情の掟 [DVD]
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恥ずかしながら、ジョニー・トーにハマったのは最近で、『ザ・ミッション 非情の掟』も『ヒーロー・ネバー・ダイ』もまだ観ておらず、それどころかいわゆる香港ノワールと呼ばれるジャンルに対する知識も中途半端この上ない。
だが、そういった言い訳をした上で思い切って書くと、やはり本作はジョニー・トーのフレンチ・ノワールに対する思いが溢れた映画だと思うねぇ。それも、現在進行形の。


劇場版グレンラガン 紅蓮篇 【完全生産限定版】 [DVD]
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たとえば、自分はオタクなのでアニメを例に挙げると、『天元突破グレンラガン』ってロボットアニメがあったじゃん。あれに出てくるアニキ――カミナというキャラは、日本の70年代アニメにおける熱血キャラのメタファーやシンボル的存在だった。
このような、キャラクターをある哲学とか歴史観とか流れのメタファーとして捉え、描写するという行為は、様々な作品にみられる。たとえば『仮面ライダーW』のおやっさんこと鳴海荘吉は「古きよき時代」の象徴だ。『仮面ライダーディケイド』なんて、そういうものの集合体というか、そういうものでしかできてない作品だった。
アニメや特撮を離れると、『火垂るの墓』や『デビルズ・バックボーン 』の登場人物は当時の日本やスペインの象徴であるという読み方が可能であるし、50〜60年代くらいの東映ヤクザ映画は当時の映画会社の労働争議で起こった事件をそのまま再現したりしていた。……そう考えると、昔やくざ映画で行なわれたことが、現在は特撮やアニメでやられているのかな? おのれ! これもすべてディケイドのせいだ!!


で、本作は香港映画にもかかわらずフランス人フランシス・コステロが主人公で、フランスの国民的歌手と呼ばれるジョニー・アリディが主演を務めているのだが、これの意味することは火をみるよりも明らかだろう。つまり、コステロはフレンチ・ノワールというものの象徴なんだよね。


自分がネットやら本やら映画秘宝やらで聞きかじった知識によれば、『男達の挽歌』から始まったといわれる香港ノワールはフレンチ・ノワールの強い影響下にあるジャンルだという。しかし、香港ノワール参照元であったフレンチ・ノワールが衰退した後も生き続け、ジョン・ウーが香港を去った後も作られ続け、『ザ・ミッション 非情の掟』や『インファナル・アフェア』といった作品を契機に第二の隆盛を極めたりした。香港ノワールは現在も新作を世に送り出し、ジャンルとしてまだまだ発展途上で、この先もビビッドに進化・変革していきそうなのに対し、フレンチ・ノワールは完全に行き詰まり、化石化したジャンルのようにみえる。


つまり本作は、一見、一緒に飯喰って一緒に銃を撃てば誰でもマブダチ♪ という、いつものジョニー・トー映画に思えるのだが、決してそうではないと思うのだ。
香港ノワールの一人者からみたフレンチ・ノワールというものが、コステロに投影されているのではなかろうか。



以下ネタバレ。



まず、映画開始からしばらく経った後、主人公の娘はアジア人と結婚し、マカオに住んでいだということが分かるのだが、上記のようなフレンチ・ノワールから香港ノワールという流れを考えると、はっきりいって意味深だ。ジャンルの遺伝子がフランスから香港に受け継がれたことと対応しているように思える。


本作の主人公であるコステロが老いた殺し屋で、かつて頭に受けた銃弾のせいで記憶を失いはじめているという描写も意味深だ。コステロが無くした記憶、それはつまりフレンチ・ノワールというジャンルにとっての映画的記憶というやつだろう。


そう考えると、コステロの侠気に感じ入った香港の殺し屋三人組(というかいつもの面子)がコステロの為に命を張るという展開が意味するものは明らかだろう。単に、国や民族の壁を越えて共感を示したというだけの話には思えない。



つまり、かつてフレンチ・ノワールから大きなものを受け取ったジョニー・トーが、今や風前の灯となったフレンチ・ノワールに対して、自身が築いた香港ノワールという場所から思いを返すような話に思えるのだ。


中盤以降の展開も、表面上の物語とは違ってみえてくる。組織の上下関係と男の友情の板挟みになるというのはこのジャンルにありがちな話で、前作『エグザイル』も同じ展開があった。だが、特に本作は生理的に嫌な人間でも仕事を請け負う為には我慢するとか、仇敵が殺し屋稼業を家族に秘密にしているとか、殺し屋なのにサラリーマンの辛さが滲み出ているんだよね、香港側の登場人物は。


だが、コステロだけはそのような世のしがらみとは無縁だ。つまり、浮世ではなく、伝説の中に生きている。それは言い換えれば、死んでいるのと同じだ。


終盤、そんなコステロが海に体を沈め、それまでに映画の中で力尽きた死者たちを迎えるシーンがある。
家族であり、仲間であり、現実をしっかりと生きた死者達。彼らは、生きながら死んでいるコステロとは全く異なる存在だ。ジョニー・トーのこの系統の作品はどれもそうなのだけれども、特にこのシーンはひときわ幻想的で、美しい。


コステロは、ここで死者達と同一なものとなる。フランスの老いた殺し屋と、その子や孫たちと、香港(マカオだけど)の同業者が同一化するわけだ。そして彼らは、真の意味で人生を生きる。記憶が無いのもなんのその、復讐というミッションを果たそうとする。


ジョニー・トーは次作から作風を意識的に変えるらしい。きっと本作でノワール監督としてのミッションを果たしたのだろうな、と思った。