「岡田斗司夫の ひとり夜話2」その2
前回の続きです
ガンダムの話-1
- 僕は勝間和代を「師匠」と呼ぶほど尊敬しているのだが、この前出した新書「目立つ力」のオビに驚いた。
インターネットにつながっていると、私は、まるで機動戦士ガンダムでアムロがモビルスーツを操っているような気分になります。インターネットを自己表現に使わない人生など、私にはもう考えられません。ぜひ、みなさんもこの感覚を一刻も早く共有し、あなたも人生のモビルスーツを手に入れて下さい
ガンダムの話-2
- でも、アムロにとってのガンダムってそういうモノじゃないだろう?という思いもある。
- ただ、一口でガンダムファンといっても色々いる。ガンダムなら全てみるという人、ファーストしか許さん!という人、ファーストという言葉すら許さん、他は類似品じゃ!という僕のような原理主義者(笑)。
- そこで、まず認識レベルを統一したい。ガンダムとはどういう話だったのか?
概略
- ジオンが攻めてきた
- 父が作ったロボット、ガンダムで戦え
- 遂にジオンを倒したぞ、バンザイ!
- これは、マジンガーでミケーネを倒してバンザイ!ゲッターで恐竜帝国を倒してバンザイ!というのと全く同じ。何が凄いかって、当り前のロボットアニメの流れに逆らってない。
- テレビというのはある程度の人数に分かって貰うのが前提なので、ニ、三回観なくても大丈夫な作りにしなくてはならない。プロットがシンプルで力強いものでなくてはならない。「コードギアス」なんかはこの辺が駄目(笑)。当り前の構造から入っていけるものじゃないと。
- それでは普通のロボットアニメとの違いは何か?
- ロボット→MSと呼ぶ
- スーパーメカ→単なる兵器に
- 熱血主人公→引きこもり少年
- 敵側が独立を要求して戦争
- 主人公が軍人
- 特に、主人公が軍人という点が凄い。これは日本でやるとPTAその他から抗議がきたりする。最初は民間人で、ゆっくりと軍人になっていくというふうに段階を踏んでいるのだが、上部からの命令に逆らえない主人公や、お母さんが泣き崩れたりする姿などがきちんと描かれている。
- 戦争表現がリアル、無重力表現が上手い、というのもある。靴底の磁石で外壁に張り付くとか、「地球は暑くて虫も多い、早くコロニーに帰りたいなぁ」なんてジオン兵が言ったりする。
ガンダムの話-3
- ガンダムというロボットはアムロにとっての「祝福」と「呪い」である、という二面性を描いている。
- 「祝福」というのは、ガンダムがあれば社会にコミットできるということ。
- 「呪い」というのは、俺はガンダムに乗れるということだけで認められただけじゃないか、誰も俺の内面や人間性を見てくれないじゃないか、という苦悩。
- それは、あらゆる権力は「祝福」であると同時に「呪い」でもあるということ。
- アムロが戦う理由を明確に描かないところも凄い。「君は生き延びることができるか」というナレーションくらいしか言わない。
- 中盤以降、好きになった女性や心を許せる大人が次々と死んでゆく。マチルダさん、ランバ・ラル、ハモンさん、ララァ等々。
- たとえばランバ・ラルとハモンの場合はこう。今まで一緒に逃げていた人たちがいつの間にか上司になっている。で、ガンダムから降ろそうかと相談している。だから家出する。30分のアニメ番組で、主人公が家出して終わりって、なんだよ(笑)。
- 家出でハモンやランバ・ラルと出会う。こんな、ちゃんとした大人たちがいれば、色々と相談できたかも、なんて思う。
- でも、そこでガンダムを持ってジオンに逃亡しようなんて思わない。そんなことをしても自分の居場所はないことをアムロはちゃんと知っている。だからホワイトベースに戻り、ランバ・ラルと戦うのだが、ハモンには「カタキー!」と言われる。
- たとえばララァ。彼女はアムロが唯一分かり合えた人間だった。「ガンダム」では、後にも先にもアムロが100%分かり合えた人間と言うのはララァ以外に登場しない。
- ニュータイプというのは人間が言葉を介さずに分かり合う能力なのだが、ここには富野の様々な思いが込められている。映像作家として映像で全てを伝えるという夢の暗喩であったり、虫プロの時に盛んだった学生運動が議論の果てに何も生みださなかったことに対する絶望だったり。
ガンダムの話-4
- ここで第1話からガンダムを振り返ってみよう。第1話では、アムロは自室で機械に囲まれている。まるでブログを書いている僕たちみたい(笑)。ここがスタートになる。
- 「ガンダム」のテーマは、大きくいうと「少年が青年になる」こと。「ガンダム」のみならず、成功した富野作品はすべてこれが描かれている。
- 重要なのは、「少年が大人になる」ではないこと。富野作品において「大人」はかなりネガティブに描かれる。
- 「少年」は傷つくことで「青年」になる。「青年」は悩む、或いは傷を引き受ける。その後「大人」があるかもね?というのが主題。これは富野が若者だった、1950〜60年代くらいの青年像である。
- こういうことを何故皆語らないかというと、現代日本では「少年→青年」が否定されているから。そんな悩みなど不要で無駄なものとされている。いきなり「少年→大人」になる。
- しかし、富野作品では悩みを隠したり、否定したりすると駄目な大人になる。じゃ、きちんとした「大人」になるにはどうすれば良いか?そんなの俺にもわからねー、だからアニメ作ってんだバカヤロー!というのが富野さん(笑)。「青年」がわかれば、皆富野さんになれる(笑)。
- 「海のトリトン」も「ザンボット3」も主人公が悩んで終わる。勝間さんの「悩まなくて良いんだよ」というのはちょっと違う(笑)。
ガンダムの話-5
- 僕の見立てでは「ガンダム」は三部構造で、第1〜12話で一区切りになる。この分け方は劇場版なんかと関係ない、あくまでも僕の考え。第一部ではガンダムとアムロの関係性、ロボットを通じた自己実現がテーマである。
- たとえば11話。ラストにイセリナの埋葬シーンがあるのだが、アムロたちはイセリナの名前すら知らない。「この人なんて人なんだろう?」などと言いつつ土をかけている。「僕をカタキと言ったんだ」という台詞がありつつ、銃を持ったイセリナの死体が画面に映る。普通、こんなエピソード描いたら、誰でも少年を青年にしちゃいますよ(笑)。でもまだ11話(笑)。
- 第12話では「坊やだからさ」という有名なシャアの台詞があるが、これはシャアなりの葬式で、本当はガルマの死を悼んでいる。
(ここいら辺は以前の「寝言」イベントでも触れていた)
- そもそもシャアは孤独な人間で、最後まで救われない。自分からは心を開けない。アムロは本音でホワイトベースの皆にぶつかっていけるが、シャアは唯一心を許せる筈の妹にすら「兄さんは変よ!」なんて言われる(笑)。
- ギレンの演説を聴きながらの台詞であるわけだが、弟の死を政治的に利用しているわけだ。ガルマ、お前も気の毒だったな。でも、お前がザビ家だったのがいけないんだぞ。酒を呑みつつ、そういうのがシャアの頭の中でグルグル回っている。
- だいたいシャアが格好良い台詞言う時は、本音を隠している時。良い例が第1話。年上の部下を掌握できないので、くれぐれも偵察だけだぞと念を押しているにもかかわらず、「撃っちゃえ、撃っちゃえ!」で大失敗(笑)。「認めたくないものだな、若さ故のあやまちというものを」というのは、そういう意味。
ガンダムの話-6
- 第二部は第13〜34話になる。テーマはアムロの成長で、名づけて「宿命の出会い編」
- まず母との別れが描かれる。自分に本音でぶつかってくる大人、ランバ・ラルと出会う。大人なのに裏切る、無責任な大人であるエルラン中将なんかも出てくる。クライマックスは酸素欠乏症で頭が変になった父親が出てくる。
- 最初はただ生き延びる為だった→ようやく心を許せる大人に出会ったと思ったら殺し合い→その愛人からカタキよー!と追われる→久しぶりに再会した父親からは「すぐガンダムに乗れ」と、時代遅れのパーツを押し付けられる→そんな俺って、俺の人生って何?
- ここいら辺、周囲から絶望しか貰えない「さまよう少年」を描く、富野さんの語りが上手すぎる。
- そこでアムロが出会うのがララァ。あのね、ただでさえアムロはミステリアスな出会いに弱いんだから、こんな雨の日にインド人の少女がいたらホレちゃいますよ(笑)。「女三倍の法則」と呼びたい(笑)。この回はタイトルもロマンチック、それまで「ガンダム破壊命令」とか「敵の補給艦を叩け!」だったのに、いきなり「運命の出会い」。
- ニュータイプなので、お互いに好きということが一瞬にして分かる。アムロはお父さんの家ととララァの所と交互に通うという恥ずかしい行動(笑)をとるのだが、ここで一番出会いたくないやつに出会ってしまう。
- そうです、シャアです。しかも、どうみても二人はつきあってる。えー!お前こんな奴とつきあってるの!ってなもんですよ(笑)。
- しかもしかも、アムロの車はぬかるみにハマっていて、敵軍の兵士だけれど中立コロニーなので助けてやろうという、完璧に大人な対応までされてしまう。「どひゃー!」ですよ(笑)。
- 母には棄てられ、仲間には道具としか思われてない。父は頭がおかしい。唯一心を許せると思った女性はあの、ウッディ大尉を殺したシャアの愛人。こいつ絶対ララァとヤってるよ!(笑)。
- だからその後、怒りと絶望で戦うアムロの活躍でコンスコン艦隊は全滅しちゃう(笑)。でも、鬼みたいに戦った後もアムロの切なさは消えない。自分には帰る場所が無い。戦う理由も無い。
- ガンダムが凄いのは、この場面を肩組んでテレビで観ているシャアとララァの姿を描写すること。次いで、これをテレビで観ている一般市民も映し出す。「ガンダム」というアニメの視聴者である僕たちは、この場面に思わず自分たちの姿を重ねてしまい、ドキっとする。
ガンダムの話-7
- 第三部は35〜43話。ここでのテーマは「アムロと戦争」。戦争当初はジオンの方が強かった。
- しかし、ここまで来るとジオンの敗北は誰の目にも明らかになってくる。連邦とジオンの戦いの残酷さというのも強く描かれるようになる。たとえば、ここで出てくるソーラレイ・システムという兵器が狙うのはソロモンのスペースゲート付近。出入り口を壊して、ソロモンにいる人間を全員焼き殺そうとしている。つまり、降伏を認めない殲滅戦が描かれている。
- これまでアムロは仲間よりも敵と心を通わせる機会が多かった。たとえばククルス・ドアン。たとえば「時間よ、止まれ」のジオン兵。たとえばランバ・ラル。対して、連邦側の上官と心を通わせる場面というのはあまり無い。
- ニュータイプ能力が開花し、ガンダムもマグネットコーティングで強化され、アムロはどんどん強くなってゆく。しかしアムロは、そんな自分とは何かと悩みはじめる。
- 凄いのは、アムロの戦闘能力が高まってゆくに連れて視聴者の心も高揚してゆくところ。アニメの中のアムロの心だけが置いてゆかれる。
- ア・バオア・クーで絶対防衛線という言葉が出てくるが、これは日本でいえば沖縄。ここで負けたらジオンは最後ということ。いや、ここが戦場になるということは、ジオンの敗北はもう決まったようなもの。だから戦争がどんどん弱いものいじめになる。
- ギレンはコロニーレーザーの使用を決断する。ジオンはコロニー国家であり、宇宙で国民がゼロから作ったコロニーで成り立っている。コロニーを兵器化するということは、思い出が無くなるということ。政治家の使命は国民を幸せにすることなので、この時点での正解は降伏することなのだが、こんな決断をしていては政治家として終わり。コロニーレーザー作成の為、一般市民がコロニーから疎開する姿も描かれる。
- ジオンは地球で戦っている間に講和条約を結ばなければならなかった*1。でも、戦いは宇宙に移り、連邦軍は羽根を一枚一枚もぐように、死にゆくジオンを追い詰めていく。
ガンダムの話-8
- 「光る宇宙」。シャアは宇宙服を着ていない。「お願いだから宇宙服を着てください」とララァは言う。でも、シャアは着ない。何故なら、シャアにとってララァは、この時点では、その程度の女だったから。
- だが、ララァにとってのシャアはそうではない。自分を初めて好きと言ってくれた人がシャアだったから。だからエルメスがゲルググをかばう。ゲルググに一つでも傷がつけば、空気が抜け、シャアは死ぬ。この時、シャアが宇宙服を着ていたら、あそこまでかばう必要は無かった。実際に肉体関係のある男女の結びつきはこんなにも強い。
- この時のリアクションが凄い。アムロは「取り返しのつかないことをしてしまった」と嘆く。シャアは今までみせたことのない涙を流し、壁を叩く、初めて本音をみせる。
- 普通なら、これで切ない音楽でもかかって終わるところなのだが、ソーラレイの発射シーンが続くところが凄い。レビル将軍とデギンが死んで、「あれは憎しみの光だ」なんて言わせて終わる。もうそれから一週間待つのがツラいことツラいこと(笑)。
- で、一週間経って「ア・バオア・クー」。ここでギレン三度目の演説シーンがある。「アニメ夜話」でも語ったのだが、一、二度目とは違い、なんと一般兵を前に演説している。演説の口調は変わってないにも関わらず、国力の疲弊を表す良いシーン。
- 滅びゆく若者達の姿も描かれる。たとえば「ああっ、母さん」と叫んで死んでゆくザクに乗った学徒動員兵。彼はアムロにとって、数ヶ月前の自分である。自分も彼のような立場におかれる可能性があった。自分と同じく、大人たちの命令で戦っている若者たち、そんな彼らに死と破壊を与える若者、それが自分である。そうアムロは思う。
- ここでシャアはジオングに搭乗する。これはスーパーメカなのだが、このジオングでなければアムロと戦えないというのはシャアにとって屈辱的なこと。最初は「モビルスーツの性能の違いが、戦力の決定的差でないことを教えてやる!」なんて言っていたのに、もうシャアのプライドはズタズタだ。
(この後、最終回の解説等の話などが続くのだが、ネタバレ防止の為省略)
質疑応答
- Q:「ウルトラQ」がBD化に合わせてカラー化するという噂があるが、どう思うか?*2
- A:一応買ってから文句を言いたい。高画質になるというのは功罪あって、「ウルトラQ」もVHSはOKだったのだけれど、DVDになったら新東京駅が釘丸見えでカッコ悪かった。
- Q:ライバルは誰?
- A:みうらじゅんと勝間和代。ギリギリ勝てなさそうなところがライバルとしてふさわしい(笑)。
- Q:勝間和代と仕事をする予定は?
- A:「Chabo!」という発展途上国に学校を作るプロジェクトに誘われたが、メーリングリストに参加して積極的発言することが条件に含まれていたので辞めた。
- Q:「ヱヴァンゲリオン 破」についてどう思うか?
- A:自分が見る必要はなかった。ガンダムと同じで、本当に面白いと考えているものならガンダムじゃなくて良いじゃん!というのと一緒。富野さんは「Zガンダム」やりたくなかった筈。でも、「イデオン」や「ザブングル」をやって、それが「ガンダム」より売れなかったから「Zガンダム」をやらざるを得なかった。でも、売れることが作る目的では無かった筈。庵野くんもテレビの「エヴァ」以降色々やったわけだけれども、風呂敷を畳むよりは広げて貰った方が嬉しい。最初の劇場版で、量産型エヴァを観たアスカが「完成していたのね!」と叫ぶシーンはゾクゾクした。ああいうのが今回の新劇場版には無い。
- A:こういうのをブログで書くのは難しい。長文になるし、長文になっても伝わりにくい。「ひとり夜話」向き。(だから、このブログに記載した応答の流れもあまり信用しないで欲しい。本人が「難しい」という内容を、私がきちんと書ける自信がない)
- A:大阪でも「エヴァ」と「ガンダム」に関する質問が出た。皆、「エヴァ」と「ガンダム」が好きなのか?そうではないだろう。20世紀型の人間関係はライバル、仲間、お客さんのうちどれかだった。21世紀型の人間関係はそれに同業者が加わる。自分のブログに書くに当たっては、ガンダムやエヴァの話が欲しいというのが本当のところではないか。つまり、ここは競り市や卸市場で、ブログは小売店みたいなもの(笑)。
- Q:以前の遺言イベントにて、庵野秀明が西崎義展に「最初のヤマトをそのままやらせて欲しい」と頼んだエピソードを話していたが、今回の「ヱヴァンゲリオン新劇場版」をやる理由もそれと同じようなものなのではないか?
- A:「ヤマト」は庵野くんの作品じゃないが、「エヴァ」は自分の作品。これは劇場版ガンダムやその続編を作った富野さんと同じじゃないのか?
- A:僕に何を言わせたいの?だから、俺に庵野くんの心の中を測らせないで!それは、君が君の「エヴァ」に対する思いとして語れば良いんじゃないの?
(ちょっと質問が聞き取れなかったり、メモできなかったりしたところもあったり)
- Q:もう落語2.0はやらないのか?
- A:言い忘れてましたが、今までのは全部落語2.0です(笑)。
感想
いや、今回も面白かった。フカダくんの話や10万円分の花火の話は岡田斗司夫の話芸を堪能した。「実は全部落語2.0です」発言の時は気づかなかったのだけれど、「その1」をアップ後、岡田斗司夫本人からオチを書くのは勘弁して欲しいとのメールがあって、それでやっと気づいたのだけれど、これは岡田斗司夫の話芸だったのだね、純粋な評論というよりかは。「遺言」や「寝言」イベントと同様に考えていたよ(岡田斗司夫はそれも話芸だというかもしれないが)。そんなわけでオチのネタバレが無いように修正したりもした。今後、地方講演やDVD化も予定されているようなので、気になる方は機会があれば実際に御覧になって頂きたい。
実際、質疑応答の時間なんかはかなり熱くて、「俺に庵野くんの心の中を測らせないで!」という岡田斗司夫の口調はレジュメを元に話芸を披露する口調とは全く違っていて、この話題が岡田斗司夫にとってナイーブなものであることを伺わせた。この質疑応答の部分も、DVD化する際は是非収録して欲しいな。
ガンダムの話も熱かったのだが、ちょっと「若きウェルテルの悩み」が頭に浮かんだりもした。なんというか、ビルドゥングスロマンを大きく二つに分けるとすれば、少年がそのまま大人になるものと、少年が青年になるという過程に注目したものになるのかもしれない。で、「ガンダム」は勿論後者だ。
イベントは競り市や卸市場で、ブログは小売店というのは、確かにそうかもしれない。これまで岡田斗司夫のイベントに限らず色々なトークイベントのまとめ記事をアップしてきたけれども、ちょっと再考する必要があるかもしれないな。