オナホとヘーゲル:「空気人形」

やけに評判の良い「空気人形」を観にいったのだが、確かに面白かった。

かなり前のことなのだが、たしか「志村けんのだいじょうぶだぁ」だったと思うのだけれど、コントのメイキングみたいなコーナーの中で、半裸のマネキンが出てきた。子供がマネキンを人間に見立ててイタズラして興奮する、みたいなコントに使われた直後だったので、半裸だったのだ。で、ヅラもとって眼鏡もかけて、すっかり素に戻っていた志村けんは、その裸のマネキンの下半身にさりげなく布を被せていたんだけど、その仕草に志村けんの優しさみたいなのを感じたんだよね。「空気人形」はその種の優しさに満ちた映画であった。


色々な人が言及しているのだけれど、映画の冒頭、板尾創路オナホールを洗うシーンで、この映画は信用できると思った。
オナホってのは使用後にそのまま放っておくとカビが生えちゃったりするわけで、一回一回洗わなきゃいけないのだけれど、まぁ、そんな姿を他人に見られたくなんかないわけだ。しかも、「もうこんな時間だから今日は風呂やめとくか?」とダッチワイフに話しかけた後、風呂場でオナホを洗っているわけだよ。これは、単に孤独な独身男の哀愁を意味するだけでなく、彼にとって「オナホを洗う」という行為が虚構と現実のどちらに、或いはその狭間のどこら辺に属するかを、わずか数秒で説明してしまう恐るべきシーンだ。


あと、ペ・ドゥナの脱ぎっぷりの良さというか女優魂にも感動した。その昔、「お笑いウルトラクイズ」にて、ビートたけしに「ダッチワイフみてえな顔したアナウンサーだな」と言われた大神いずみは番組終了まで思いっきり不機嫌な顔していたけれど、ペ・ドゥナは嬉しそうに「ありがとうございます!」と返しそうだ。



……そんなわけでこの映画、映像も作風も上品極まりないのだが、オナホ・下ネタ関連で膨らませれば幾らでも語れる。だが、本作で特筆すべきは、その視点であると思う。


人形が意志を持つ映画としては80年代に「マネキン」というのがあった。続編である「マネキン2」と共にテレビで何度も放送されたので記憶にある方も多いだろう。また、ダッチワイフを題材にした映画としては昨年「ラースと、その彼女」というのがあった。こちらも話題作だったので実際に観た方も多いと思う。
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これら過去の類似作との最も大きな相違点は、本作のほとんどがこころを持ったダッチワイフの視点から語られる点にある。孤独な老人とか年をとりすぎた独身OLとか拒食症の星野真理の姿などを空気人形がみた街の風景の一部とみなせば、導入部とラストを除いた全編に渡って人形の始点が貫かれているといってもいい。


ここで連想するのがヘーゲルの自己意識論だ。

つまり、自己意識にたいして他の自己意識が存在するとは、自己意識がみずからとひとしいものを、自分の外部に見いだすことである。つまり「みずからとはことなった存在において。じぶん自身とひとつである」ことである。自己意識は自己を他者として、他者を自己として見いだしている。他者が私でもあり、私は他者でもある。


他者は他者であるとともに他者における自己でもあるのだから、他者を否定して自己を肯定することは同時に自己を否定することであり、逆もまた同様である。かくして、他者と私との「両者はたがいに承認していることを相互に承認しあっている」。自己意識は、かくて「承認されたもの」としてのみ存在する。


熊野純彦 ヘーゲル―“他なるもの”をめぐる思考
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自己と他者の対立、闘争、コミット、承認、これによって始めて自己意識が存在する。スタンドアローンな状態を脱け出して他者とコミットしない限り、いつまでたっても自己意識を確立できない。そうヘーゲルは言っている*1。だからこそこの映画では、当初孤独だった人間同士が繋がりあうさまが描かれるのだろう。
一人の人間にとっての他者とは、隣のクラスの名前も知らない男子であったり、横に座っている誰かであったり、町ですれ違う名も無き人々だったりする。個人レベルではそうだ。だが、人類とか、総体としての人間にとっての他者とは何だろうか。
SFというジャンルにおいて、それはロボットだったりアンドロイドだったり宇宙人だったりした。「アトム」や「2001年宇宙の旅」や「ブレードランナー」では、アトムの視点から人間というものが語られ、HAL9000との闘争で人類が語られ、レプリカントとの対決で人生が語られた。「人形の気持ちにもなれ!」と説教をカマす「イノセンス」などその最たるものだ。人類以外の何ものかの視点を通じて初めて、人類のことが分かるわけだ。


で、「空気人形」は愛する他者の代用品としてのダッチワイフの視点から人間を語る点に新しさがある。だからこそ、ダッチワイフにそっと布団をかけたり、缶コーヒーで冷たい手を暖めたり、オナホを洗うシーンに感じ入ったりするのだと思う。彼女がいることで、おれたちはおれたちのことが分かる。オダギリジョーの「こちらこそありがとう」ってのはそういう意味だと思った。
ついでに書いておくと、撮影監督に李屏賓を起用したのも、異人の視点を導入する為だと思う。これにより、実際東京に住んでいる者が気づかない街の魅力や側面が強調されるわけだ。


ただ、敢えて気になった点を書くと、この映画で描かれる「人と人との繋がり」ってのが、若干類型的で古臭くも感じてしまうんだよね。引き篭もりの少年が働き始めるとか、孤独な者同士が知り合うとか、それは状況の変化であって救済ではないだろ、とも思う。人間関係を結ぶのは単にスタート地点であって、人間関係から生じる面倒臭いあれやこれやが孤独を生む原因であるわけだ。
私はオタクなので、特に最後の「おめでとう!」は象徴的だと思う。アニメでいえば、本作はテーマ的にテレビ版の「エヴァンゲリオン」で止まっている。本作で描かれる孤独は90年代の孤独であり、「デスノート」や「コードギアス」や「ヱヴァ破」や「サマーウォーズ」で描かれる孤独や闘争や救済に比べると古臭く感じてしまうのだ。


だからこそファンタジーとして優れているとも思うが。

*1:と、我々は解釈する