死に場所探して生きるもよし:『アウトレイジ ビヨンド』

アウトレイジ ビヨンド』鑑賞。すげえ。残酷シーンを除いたら「やくざでポン」な前作とは全然違う映画だった。


北野武は日本のイーストウッドなのではないかと考える時がある。俳優業との両立や、「死」や「暴力」といった題材の共通性だけではない。ヤクザ映画や西部劇といったジャンルの背負い具合、演技のバリエーションの少なさと、それを凌駕する一個の生き物としての異質さや凄みからなる魅力含めての話だ。
なによりも共通しているのは、自己演出の巧みさだろう。自分が背負うジャンルや、自分の人生や、自分そのものを題材にしても、もはや絶対にナルシズムといわれることがない。それは、いろんなものを引き受けて、深作欣二いうところの「シビアな闘争」を繰り広げてきたことを、皆が了解しているからなのだと思う。


北野武の映画は二期または三期に分けられる――というのがこれまでの定説だった。処女作である『その男、凶暴につき』から『ソナチネ』或いは『みんな〜やってるか!』までの、とにかく主人公が死にたがる初期。原チャリ事故を挟み、『キッズ・リターン』から『座頭市』まで、映画作家としてメロドラマやジャポネスクや時代劇といった様々な要素を貪欲に取り込んだ中期。『TAKESHIS'』から『アキレスと亀』まで、自己を題材にした内省的映画しか撮れなくなった後期。以上の三期だ。


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ところが北野武には四期目が存在した。それがヤクザたちが野生動物のごとく殺しあうシーンが、まるでき、コメディ映画における「笑い」が「暴力」に置き換えられたかの如く連続する『アウトレイジ』である――というのが前作に対する自分の感想であった。


ところがところが、新作はさらに異質な映画であった。


アウトレイジ ビヨンド』は、ご丁寧にも前作『アウトレイジ』を多分に意識したシークエンスから始まる。
まず画面に現れるのは黒塗りの車が海から引き上げられるシーンだ。前作は、まるで黒い獣のような黒塗りの車が列をなして進むシーンが印象的だった。その車が海に落ち、中から死体が引き出されるのだ。
その後、山王会の幹部会のシーンが続く。前作では影の実力者として描かれた加瀬亮演じる石原が「これからウチの組は実力主義でいくからな!」とヒステリックに叫ぶ。石原にやりこめられた中尾彬ら古参の幹部三人は「幹部会なのに飯も出ねぇ」と愚痴る。そういえば前作は、幹部会での会食シーンから始まったのだ。
連想するのは、失われた十年が二十年になり、三十年になりつつあるこの世の中だ。自己責任が叫ばれ、どの企業も成果主義を導入するようになった。組織も個人も、ゼロサムゲームと弱肉強食の世の中に汲々としてる。誰しもが駆け引きや頭脳戦を繰り返しながらサバイブを図っている。それまで当然としてあったものが壊れ、喪われつつあるという空気が濃厚に漂っている。


そこに、北野武演じる大友が出所して来る。刑務所の壁は青い空からの光に照り返されて、青く鈍く輝いている。いかにもなキタノブルーで染め上げられた画面の中心から、大友が還って来るのだ。
大友は、前作で確かに死んでいた。死んだことになっていた。だが、続編を製作するために、生き返ったのだ。


ところが大友には、ヤクザに戻る気もなければ、ケジメをつける気も、復讐する気もなかった。


以下ネタバレ。


圧巻なのは、大友が山王会への復讐を望む木村に付き合って、花菱会の組長や幹部と面会するシーンだ。


本作における怒号のやりとりは、一つのアクションシーンであり、見せ場だ。西田敏行塩見三省も、「バカヤロー」「コノヤロー」を繰り返す。それは、相手を言葉の力で屈服させたいからだ。一つのパフォーマンスといっていい。
だが、大友が発する言葉だけが違う。「もう辞めようよ。面倒くさい」というのは本音だ。頭に獣をつきつけられて「撃ってみろよ、馬鹿野郎!」と叫ぶ大友の言葉は、パフォーマンスでも啖呵でも駆け引きでもなく、本当に撃たれて死んでも別に良いやという、本音なのだ。
こういった大友の姿は、北野映画初期作品における「死にたがる主人公」の正統な後継者であり、再解釈であると捉えられる。


ところが大友は最期まで死なないし、殺されない。自殺も選ばない。何故なら、出所後に出来てしまった義理や人情や命の貸し借りから、やむなく昔取った杵柄を発揮してしまうからだ。
そして、そんな大友の強さの原点は厭世観から死を怖れないことにあるのだが、それすら花菱会と山王会の駆け引きの道具にされてしまう。
暴力を題材とした初期の北野映画によく登場した、若い妹や愛人といった女性たちは登場しない。彼女たちは主人公にとっての守るべきものやイノセントな部分の象徴だったのだが、前作に続いて女性はほとんど描かれない。彼女たちに代わって登場するのは、桐谷健太新井浩文演じる若くて馬鹿なヤンキー上がりのチンピラだ。
ここに、自分はどうしてもオフィス北野やたけし軍団における「ビートたけし」の姿を想像してしまう。唸るほどカネを持っているはずのビートたけしがテレビに出続け、カネを稼ぐ理由はもう無い。あるとすれば、周囲の人間のためだ。
そして、その想いをテレビ局や芸能界の人間に利用される。桐谷健太新井浩文と三人でビールを飲むシーンが、完全にたけし軍団の若手と飲むビートたけしの姿に重なってみえた。
このような、芸能界における自己を投影したであろう姿は、北野映画後期作品における主人公に繋がる。『TAKESHIS'』で、何人もの客を乗せて「重過ぎるよ!」と愚痴るタクシー運転手を演じた武――「死ねない主人公」に繋がる。
北野武は若い頃働いていたジャズ喫茶の壁に書かれていた「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」の言葉に感銘を受け、「死に場所探して生きるもよし」と続けて『死んだ犬』という曲の歌詞に引用した。
「死に場所探して生きるもよし」は、「死にたがる主人公」の時代を通過し、遂に作られた本作のテーマそのものだ。


加えて、本作における最大の悪役、甘言や唆しで殺し合いを画策し、しぶとく生き延びる小日向文世は、どこかしら『キッズ・リターン』のハヤシを連想させやしないだろうか。そう、最もしょうもないが故に、もっとも悪魔的な、モロ師岡演じるジムの先輩だ。ここに北野映画中期作品の要素をみてしまうのだ。
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更に違う視点からみれば、本作は日本映画界に連綿と繋がる「ヤクザ映画」の正統な後継者だ。
ヤクザ映画で「大友」といえば誰が何といおうとも大友勝利だが、本作は過去のヤクザ映画に対するオマージュや引用に溢れている*1。ヤクザと警察の並列的な描写はヤクザ映画の伝統であるし、きちんと杯を交わすシーンまで出てくる。一方で、前述した怒声によるアクションシーンの代替や、ほとんどサラリーマンみたいなヤクザ組織の描き方は、ヤクザ映画のアップ・トゥ・デート版といえる。
しかも、本作のテーマは「仁義が失われる時代の空気に抗し続ける男」という、かつての任侠映画が持っていた主題そのままではないか。
暴力団排除条例が全国で施行され、ヤクザ映画が作れなくなったといわれるこの時代に、全国のシネコンで堂々とヤクザ映画をかける。まるで、映画監督北野武が暴力映画やヤクザ映画というジャンルを背負ったことを宣言するかのように。


ここ数年の北野武は、年齢と余生を鑑み、自分にはあと何作映画が作れるかを計算しながら生きているという。
自分は『アウトレイジ ビヨンド』の続編が観たい。

*1:前作では薄かった