実写とアニメのあいだ、人間と動物のあいだ:『スパイアニマル・Gフォース』

かなり期待していた『スパイアニマル・Gフォース』を観てきたのだが、やっぱり面白かったわー。
私は「動物が喋る映画」に目が無いのだけれども、そういう個人的な好き嫌いを抜きにしても、本作は傑作だと思う。や、最近、期待満々で観にいった映画に失望させられることが多かったので、かなり嬉しい。


「動物が喋る映画」ってのは、かなり昔からある。古くは『三匹荒野を行く*1』とか『奇跡の旅』などが有名なのだけれども、このジャンルを(それなりに)活性化させた要因がある。CGによる技術革新だ。
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それまでは遠くから撮った動物の映像にアフレコをつけることしかできず、俯瞰や仰角で撮ったりして、動物の顔を能面のように扱うことしかできなかった。もしくは、金属の骨格にラテックスの肉をつけたアニマトロニクス──つまりは人形を駆使して無理矢理表情を演出するしかなかった。
だが、CGによるリップシンクが全てを変えた。これによって初めて、表情の演技が可能になった。つまり、アップに耐え、様々な心情を映像で表すことが、可能になったのだ。この時期の傑作としては『ベイブ 都会へ行く』が挙げられよう。ソフトバンクのCMもこの系譜に属する。
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次に、動物の姿そのものをCGで作ってしまおうという考えが生まれた。CGI技術が安価になり、この方法論が可能となったのだが、実際に動物を動き回らせるよりも、CGでイチから作った方がコストパフォーマンスに優れるに至って、爆発的に増えた。『スチュアート・リトル』なんかが代表例だ。
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で、本作『スパイアニマル・Gフォース』は、CGによる「動物が喋る映画」のある種の到達点なんじゃないかと思う。
二本足で立ち、あちこち動き回り、『ザ・ロック』ばりの脱出アクションや『コンエアー』ばりの爆発アクションをこなすモルモットやモグラやハエやゴキブリ達の姿は、もうとにかく出来が良いの一語に尽きる。
「一般市民がいる!」の声でカットを変えたらリスだったり、毛皮のコートだらけのタンスに迷い込んで「ここは死体置き場か?」なんて言わせたりといった、いかにもなアメリカン・ジョークも心地よい。特にメスのモルモット──フアレスがスローモーションで水を滴らせながら陸に上がったり、他の雄メンバーにカマかけたり、Twitterで良い女論を書いたりという、人間での良い女演出をそのまま動物でやるというギャグが爆笑だった。しかもこのギャグ、映画の最後の最後までやりきるんだよね。


また、本作をみていて感じるのは、果たしてこれは実写なのか? それともCGアニメなのか? という戸惑いだ。
実写の背景に、CGによるキャラクター。実写とアニメの境界は、ここまで曖昧になった。そう、これは『マトリックス』や『アヴァロン』や『ガルム戦記』とは異なる手法を用いつつも、同じくアニメと実写の中間地点に存在する作品なのだな。



CG技術やギャグだけでなく、脚本も、かなり良く出来ている。きっちりした三幕構成で、最初にキャラ紹介を兼ねた派手なツカミのアクションがあって、中間〜第二幕くらいで主人公達の意志が決まって、最後に思わぬ敵がラスボスとして現れて……みたいな、お馴染みハリウッド脚本的構成*2なのだが、「動物の視点から人間社会をみる」という視点が徹底されていることが、本作最大の特徴だ。


ただ、自分が本作を評価する最大の理由は、「動物が人間のように行動する」ことの真の意味から逃げてないことにあるんだよね。


動物が人間のように喋り、人間のように行動する。果たして、それを動物といえるのか? いや、違う。人間のように喋り、行動するなら、それは人間だ。
にも関わらず、映画内で彼らは「人間以外のもの」とされている。それは何故か? 人間が人間を語る時、人間以外の視点が必要になるからだ。だから、アトムの視点から人間というものが語られ、HAL9000との闘争で人類が語られ、レプリカントとの対決で人生が語られた。人外の視点を通じて初めて、人間のことが分かるわけだ。
……これ、以前、『空気人形』を語る際にヘーゲルの自己意識論を無理矢理持ち出したことの繰り返しですな。
オナホとヘーゲル:「空気人形」 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな


つまりさ、「動物が人間みたいに喋る映画」の場合、「その動物たちは人間のことをどう思っているのか?」が常に問題となるんだよね。ディズニーの昔のアニメみたいに動物が人間の擬人化である場合は問題無いよ。でも、実写で、人間のように喋る動物が人間と共演する場合、彼らはどう思うか? 特に、本作のように、二本足で歩き、人間のように考え、人間のように行動するモルモットが主役の場合は。


以下ネタバレ。


やっぱりさ、この映画で一番グッとくるのは、Gフォース・メンバーの背景なんだよね。
彼らは、遺伝子操作で知能や体力が強化されたトランスジェニック・モルモットだ……と信じ込まされていたが、実は普通のモルモットであることが告げられる。記憶も無いほど幼い頃に、あわや人間に棄てられたり、殺されたりしそうになっていたところを、Gフォースの責任者であるケンドール博士に助けられたのだ。
ケンドール博士はいう。


「キミ達に、ただエサを食って育つだけのペットになって欲しくなかった……」


自分たちは特別な存在だと信じ込んでいたGフォースの隊員たちは愕然とする。つまり、これはアイデンティティ・クライシスだ。
「ハムスターが、何を大袈裟な」と思う貴方はこの映画の構造を思い返して欲しい。つまり、Gフォースの面々は人外であって、人外でないのだ。人間なのだ。
○○という国に住む、○○人であり、○○という家族の一員であり、○○という会社に属す……そんなおれって、一体何? おれはもしかして、ただ時間を売って、給料を稼いで、飯喰ってウンコして死ぬだけの存在なのでは? と思っちゃうわけだ。大袈裟かもしれんけど。


主人公たちがよりどころにするもの、それは血統主義でもナショナリズムでもなく、「経験」と「能力」だ。これぞアメリカ!


で、その後色々あって、世界征服を企む悪の黒幕にしてラスボスの正体はGフォースの一員であるモグラスペックルズであることが判明する。この動機が凄い。なぜスペックルは世界征服を、人類滅亡を企んだのか? それは家族を、父と母を、人間に殺されたからだ! ドガーン!!
しかもこの「家族が人間に殺されるシーン」、きちんと回想シーンとして描かれるんだよね。銃声が鳴り響きサーチライトの光がきらめく夜、幼いスペックルズがモグラの両親に抱かれ、震える姿が。
このシーンから、我々はあるものを連想する。それはベトナムであり、イラクであり、アフガニスタンであり、これまでアメリカが正義や民主主義の名の下に虐げてきた民そのもだ。そう、スペックルズもまた、人外であって、人外でない。人間だ。
スペックルズがよりどころにするもの、それもまた、虐げられし「経験」と、家電をトランスフォーマー化させるという「能力」だ。だからスペックルズは強い。だからスペックルズはラスボス足りえる。


当然、クライマックスは主人公のモルモットであるダーウィンが、スペックルズを倒すのではなく、説得するシーンとなる。
「家族を殺された復讐を果たすんだ!」とばいきんまんの声で叫ぶスペックルズに、ダーウィンはこう語りかける。


「でも、僕たちには新しい家族がいるだろう? ケンドール博士は僕たちを家族同然に扱ってくれたじゃないか?」


これでスペックルズは「ど、どうしよう……」と改心するわけだ。


もし同じことを実写で、モルモットやモグラではなくイラクアフガニスタンのテロリストでやられたら、失笑ものだと思うんだよね。そんなんで改心するわけないだろう、と。アメリカの都合の良い論理を押し付けるなよ、と。
でも、こういうふうにやられると、ちょっと感動してしまうんだよね。


これは、動物の向こうに人間をみるということだ。CGの向こうに実写をみるということだ。つまり、フィクションの向こうに現実をみるということだ。まさに現代の鳥獣戯画
NARUTO」がコミックス50巻かけてやろうとしていることを、『Gフォース』は僅か2時間弱でやっちゃったんだYO!


二本足で直立歩行するモルモットの出来が良く、エンターテイメントとして成立してるだけに、そういうことが気になりまくった映画であった。


ちなみに、紫SHIKIBUの歌うGフォースの応援歌は予告編のみで、本編では一切かからなかったのが残念だった。日本版で浜崎あゆみの曲をかけるぐらいなら、これかけてくれれば良いのに。


*1:『ボルト』の元ネタの一つだと思う

*2:ジェリー・ブラッカイマー製作作品の脚本はどれもジス・イズ・ハリウッドという感じ