「自分」と作品について:『R100』

実写版デビルマンも実写版鉄人28号も実写版ガッチャマンも未だ観ていないことに誇りを感じている自分だが、『R100』だけは観なくてはならない。なにしろ信者なので仕様がない
90年代にちょうどティーンエイジャーだった自分は、ダウンタウンが出ている番組ならなんでも観た。松本人志が本を出せば読み、番組がソフト化されればレンタルビデオ屋に走って真っ先にみた。月曜日になれば週末に放送された『ごっつええ感じ』や『ガキの使い』について評論めいたことを友人に語りまくり、ウザがられたりしたものだ。
だから、どんなに評判が悪くても、松本人志が映画を撮ったと聞けば劇場に観にいく。実際、それなりに楽しめたし、心底感動したものもあった。ちなみにこれまでの松本映画に対する自分の感想は下記リンク参照。
冒険野郎マクガイヤーの人生思うが侭ブログ版:ウルトラ・スーパー・デラックス大日本人
しんぼりっくアナリストとしての映画監督:「しんぼる」 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな
さや侍のすべてはさやの中:『さや侍』 - 冒険野郎マクガイヤー@はてな


だが、そんな松本信者でも『R100』はちと辛く感じたよ。



はっきりいって、『R100』はそんなにつまらない映画ではないと思うんだよね。富永愛がトイレで爬虫類みたいにメイクを直すところからはじまる冒頭にはワクワク感があるし、出てくる女王様は――渡辺直美でさえ――皆エロ格好良い。


なによりも、311以降の日本を描いた作品であるところがいい。
いつ起こるか分からないSMプレイは、どう考えても、いつ起こるか分からない地震の隠喩だ。携帯から緊急地震速報が流れ身構えるも、なかなか地震がおこらずまんじりとし、たまらずテレビをつけると、どこかで小規模な地震が起こったことを知り、ほっとする。あるいは、福一で電源トラブルが起こり、炉心温度が○○℃上昇していると報道され、「あの日」のことを思い出してやきもきするも、数日後に無事電源回復が報道され、ほっとする。samurai_kung_fuさんが書いているように、『R100』はそんな311後の「空気」や「気分」を、「津波」も「福島」も「原発」も出さずに描けているのだ。
SMプレイ後、大森南朋の歪んだ笑顔と共に発生する波紋のような画面効果は、震源地から周囲へと波紋状に伝わっていく地震波そのものだ。映画と地震との直接的な繋がりは、脈絡なく余震が起こり、「揺れてるな」と登場人物が確認しあうだけ、というさりげなさも良い。


更に、劇中曲を境に、映画の流れというかジャンルや視点が一気に変わる構成も良い。「声の女王様」とか「唾の女王様」とか、いちいちテロップつきで紹介される女王様はまるでショッカーの怪人だ。エスカレートするSMプレイに追い詰められた主人公は、あることを契機に開き直り、銃や手榴弾を手にそのショッカーに立ち向かっていく。バイクに乗った途端、彼は悪の大組織に一人立ち向かう仮面ライダーになるのだ。劇中歌としてダウンタウンブギウギバンドが流れた後、映画のテンションというか文法がまるで変わり、エンディングまで疾走していく。銃の一発も撃たず、殺人の一つも犯さない映画は映画ではない。銃を撃ち、殺人を犯す主人公は、映画的魅力に溢れている。
追い詰められれば、人間はなんでもする。国会議事堂の前でデモしたり、役者を辞めて選挙に出たり、あるいは、逆に彼らを嘲ったり……開き直った主人公の反攻には、そういったことを連想してしまう。カーアクションや手榴弾で人間がふっとぶシーンには野暮ったさも感じるのだが、これらのシーンにおける野暮ったさは『大日本人』における着ぐるみシーンのようなものなのだろう。そういえば、『大日本人』も中村雅俊の『ふれあい』を境に映画の流れが変化する構成だった。


辛いのは、大森南朋のパートが100歳の老監督が作った劇中映画だということを示すメタ部分だ。
いや、本編だと思って観ていたら劇中映画だったというメタ構造自体は良いんだよ。『しんぼる』にも、部屋の中で行われているお笑いバラエティー世界がメキシコの田舎という別世界に影響を与えているというメタ描写があった。大日本人の実写パートとCGパートと着ぐるみパートとの関係性もそうだし、『ごっつ』が一回だけ復活したSP版『ものごっつええ感じ』における『野生の王国』というコント*1など、ある世界の事象が他の世界に影響を与えているという構造において、そっくりなんじゃないかと思う。
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しかし、100歳の老監督が作る映画が難解過ぎて、試写会で観た関係者が途方にくれるという描写は、なかなか辛いところだ。
難解な映画を作る100歳の老監督というのは、どうみたって松本の自己評価そのものだ。途方にくれる関係者は吉本やテレビ局の人間だろう。これが、松本自身による言い訳というか「皆さんの反応なんて分かってますよー」的な、安易な目配せみたいにみえてしまうのだな。
でも、松本人志の作る映画ってそんなに難解かね? これまで監督してきた三本の映画の主人公が、自らのやりたいこととやれない状況への葛藤を抱える松本人志自身の姿であることは、ちょっと考えれば分かることだし、今回も、老監督=松本人志という構図は誰にとっても明らかだ。
もっといえば、松本映画の問題点は、世間で言われているように難解なことではなく、「ものを作る自分」ということの隠喩やそれに関する批評性が分かり易すぎて、底が浅くみえてしまうところにあるのではなかろうか。これは全体的な構造から、ディティールの部分*2まで、全てに当てはまる。この分かり易さは松本が長年、というか今も、テレビの世界で活躍し続けていることと無関係ではないだろう。


ただ、この老監督パートを入れざるを得なかった理由も分かる。
前述したように、松本人志が作る映画のテーマは常に「自分」だ。
主人公が常に誰かに観察されていて、徒労のような作業を強制させられていて、未来は不透明で、ストレスばかりが溜まっていく……というのがこれまで監督した三本に共通した構図だった。これはどう考えても、テレビ業界の様々なしがらみから自分の意に100%そぐわないバラエティー番組をやらざるを得ない芸人――ダウンタウン松本人志の隠喩であることは今更説明するまでもないだろう。今回はやりたいことをやれたのか、若干違う構図になっているが、真のテーマが「SM」でも「311」でもなく「自分」であることは同じだ。松本は実のところ「SM」や「311」に関する興味は、「自分」に関する興味ほど大きくないのだ。
テーマというものを自らに引き寄せて映画を作る映画監督の姿勢として、それは正しすぎるほど正しいし、どんなに評判が悪くても自分が松本映画に注目せざるを得ない理由でもある。
であるならば、老映画監督のパートをもっと長く作りこんだものにするか、大森南朋の職業を大塚家具の店員などではなく、芸人や映画監督は直接的過ぎるとしても、小説家とか売れない画家とか零戦開発者とかにすれば良かったのに……なんて思うのだ。
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規模が小さくなり、色々なことから自由になるであろう次作こそ、松本人志の本領が発揮されるものと期待したい。

*1:松本演じるチーターがガゼルを捕まえられなくて難儀する話がチーターの実写映像とチーター柄の布を持った松本で表現される

*2:唾の女王様のミュージックビデオ的な踊りとか、プールに飛び込むCEOとか、同じ構図を考え無しに連続させたり、表札を写す時にわざわざカットを変えるとか、過剰に説明的だったりするところは、天然な弱点だと思う