井上陽水が絵文字を使う理由

帰宅後、まずはゆっくり風呂に入らないと気がすまないので、毎晩23時くらいにモソモソとテレビを見つつ夕飯を食べているのだが、「LIFE 井上陽水 40年を語る」は良い番組だった。


http://www.nhk.or.jp/songs/life-inoue/


私は適当にアルバムを買ってるくらいのゆるいファンなのだが、四夜連続で、基本陽水へのインタビューでありつつ合間合間に小室等やらスガシカオやら奥田民夫やら、果ては藤子不二雄Aまでもが陽水について語るという豪華にして良質なな番組であった。ていうか、こういう番組は総合の方でもうちょっと早いプライムタイムくらいに放送すると思っていたのだが、夜11時に教育テレビで放送されても普通気がつかないよな。TVブロスラテ欄じゃ一行のみで、Gコードすらついてなかったよ。自分は第三夜でやっと気づいて録画したのだが、是非とも再放送して欲しい。



何年かに一度「いいとも」でみせるタモリとの絡みが象徴的であるように、井上陽水はインタビューやテレビ出演という場ではいつも適当に受け答えして掴みどころの無い不思議なおっさんを意識的に演じている男だと思うのだが、だからといって彼の音楽や創作というものに対する姿勢が適当で掴みどころのないものであるとは誰一人考えてないのが、冷静に考えてみると凄いところだと思う。


第四夜では、陽水の詩の世界はボブ・ディラン色川武大という二人のハイブリッドではないかという提言や、陽水の娘と番組をやっている日本文学研究者のロバート・キャンベルが「少年時代」の歌詞について評論していたのが興味深かった。「夏が過ぎ、風あざみ……」という歌詞がある、「あざみ」は春の季語であるし、そもそも動詞ではないので、日本語としてはおかしいのだが、歌として聞くととてもしっくりくる、みたいな内容だったのだが、陽水本人は「鬼あざみ」があるんだがら「風あざみ」もきっとあるだろ!なんて言ってたのがおかしかった。やっぱり、石で口を漱いじゃうのは真の文学者である証なんだよ!


とりわけ印象的だったのは第三夜だ。
なんでも、一青窈平原綾香は陽水とメル友なのだそうだが、陽水から送られてくるメールが絵文字を多用したものなのが意外だったのだという。そりゃそうだよね。なにしろ陽水は61才、しかもJ-POP*1界の大物だ。そんな二周りも離れた目上の人から絵文字メールが届いたら驚くよね。
で、第三夜の対談相手だったリリー・フランキーが言っていたのだが、なんで絵文字を使うんですか?と尋ねると、陽水はこう答えるのだという。


「言葉じゃ意味が伝わりすぎるでしょう」


……いや、もう陽水レベルにならなきゃ絵文字なんて使っちゃいけないよな、と思ったよ。



陽水の歌詞というのは、言葉を音として捉えて、発音の面白さや曲への乗り具合を追求したものが多いような気がする。
だが昔は、特にフォーク歌手だったアンドレ・カンドレ時代は、そうじゃなかった。時代や世の中を告発するような、それでいてセンチメンタルな、歌詞にしっかりとした意味を見出せる歌を唄っていた。


それがどうして現在のような、言葉の意味よりも発音の面白さを重視するような、単に韻を踏むとか音節を重視するとかをいったレベルではなく、「ポップ」の遙か彼方までいってしまったような音楽性に変節したのか。そういえば大槻ケンヂが書いたエッセイの中に、陽水と対談した際、もう「氷の世界」のような曲は作らないんですか?と実際に聞いてみたら、「歳をとると色々あるのさ」と返された……というような内容のものがあった記憶がある。


そのターニングポイントは、やはり大麻事件なのだろうと思う。なんでも、「青い闇の警告」と「ミスコンテスト」は獄中で作詞された曲なのだそうだ。
陽水の曲を年代順に聴くと、大麻事件近辺で明らかに変節がある。フォーク特有のフラワーチルドレンっぽさというか、ハピネスのようなものが無い。何かに甘えるようなネガティブさが無い。変わりに前面に出てくるのは陽水なりの超現実主義と、喪失を裏返したかのような狂気を感じるポジティブさだ。



だから、のりピー押尾学もこの騒動の後は裏返ったかのような狂気溢れるポジティブさを、黒い太陽のような魅力を放つ筈なのだ……なわけないか、やっぱり。誰も彼も田代まさしになれるわけじゃない。

*1:この言葉も陽水は嘲笑気味に使っていた