太陽を盗んだ男たち:「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.0 YOU CAN (NOT) ADVANCE.」


 「ヱヴァ:破」観てきたのだが、なんか昔好きだった女の子がスゲーいい女、それも完全なるオトナの女になって帰ってきたような映画だったよ。


 本放送の時は皆様の御想像の通り私もハマりまくっていて、ゲンドウの所から逃げ出してきた綾波レイ小田急ロマンスカーに乗り、実家のある向ヶ丘遊園までやってきて、深夜の駅前を徘徊していた私とばったり出会って……みたいな、滝本竜彦とほぼ同レベルの妄想を毎日していた、という話は「序」の感想で書いた。
冒険野郎マクガイヤーの人生思うが侭ブログ版:僕たちの好きなセカイ系


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [Blu-ray]
三石琴乃, 林原めぐみ, 庵野秀明;摩砂雪;鶴巻和哉
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 で「破」なのだが、なんかロボットが戦う映画としては、現時点で世界最高峰だな。構図の格好良さ、カットのキレ、タメと勢いの緩急を自在に操る演出、そしてなによりも、きちんとドラマを盛り上げる為に存在するアクション・シーン。「ターミネーター4」や「トランスフォーマー:リベンジ」に余裕で大勝利って感じ。これこそ日本の誇りだ!


 お話の方も、テレビ版とは変わるだろう、変わるだろう、あれ?ほらやっぱり!というような、観客の期待と予感を裏切ったり裏切らなかったりの連続で、しかもそれが高クオリティな作画と演出でなされるものだから、上映時間中ずっと感情を揺さぶられっぱなしだった。もう1回観に行こうかな


 一見して初見の観客にも対応しているようにみせかけながら、25と26曲目をリピートしていたDATが27曲目に進むとか、トウジがアイスのくじで「ハズレ」を引くとか、「Zガンダム」以上にテレビ版を視聴していること前提な映画であったよ。多分作り手も、存分にテレビ版と比較して貰いたがっているのだろうなぁ。



 ただ、我々が、いや私が、「エヴァンゲリオン」という作品に映像以外の面で魅力を感じた要素って、この「新劇場版」にどれほど残されているのだろうか?ということについて考えたりもした。


 というのはさ、文芸的な面での「エヴァ」最大の新しさというのは、徹底的にヒロイズムを除去された主人公という点にあったわけじゃん。


 人間の手では決して抗えないと思えるほど、絶対的な力を持つ使徒という敵。そんな敵と、常にギリギリの戦いを強いられる日常。しかもその使徒は、どうも主人公の所属組織の更に上位に位置する組織の手で、一定のシナリオに沿って送り込まれてくるらしい。更に、父はそのシナリオを逆利用して、自分なりの目的を果たそうとしている。
 自分の預かり知らぬ場所で行なわれている究極の闘争。それは子供である主人公にとって、努力や選択や挑戦が全く報われないという意味で、絶対的な閉塞だ。物語が進むにつれ、綾波もアスカもカヲルくんもいなくなり、心を許せる者など周囲に誰一人おらず、何の希望も無く、絶望のみが死ぬまで続く、生きながら死んでいる、死の世界に主人公はたどりつく。


 そのような世界、いやさセカイに対応する為、成長も成熟も拒絶し、最後の最後の劇場版に至ってもなお、自分の殻に引き篭るという描写が、革命的に新しかった。「子供」であった作り手の切実さが確かに反映されていたし、誰もが閉塞を感じていた時代の空気とマッチしていた。


 それが今回の「新劇場版」それも「破」はどうだろう。
 シンジくんは彼なりの積極性を発揮し、世界ときちんと向き合う。草食系男子の如く弁当を作り、皆に振る舞うのだが、それが周囲の人間を細やかながらも変えていく。レイは少しだけ人間らしくなり、アスカは少しだけ優しくなる。主人公の行動は報われ、世界を確実に変えるのだ。願望を満たす為にあらゆる手段を講じるのが大人であると父に諭されると、あれほど嫌がっていたエヴァ搭乗を自らから選択し、ヒロインを救いさえする*1。自ら大人になることを選ぶのだ。これは驚くべき変化だ。
 普通に考えれば、やっとまともなエンターテイメントになったといえる。だが、これは「エヴァ」だ。あらゆる行動が報われず、それ故に大人になることを拒絶した主人公が革命的に新しかったアニメだ。「エヴァ」という作品にとって、これは退化なのではないか?
 それとも、庵野秀明も年をとって大人になり、作品の中だけでも前向きになったということだろうか。狂ったような明るさで作品を包み込む「もののけ姫」より後の宮崎駿や、開き直ったようなポジティブさを入れ込む「ブレンパワード」以降の富野由悠季のように。


 さて、ここで思い至るのが本作の音楽だ。「今日の日はさようなら」や「翼をください」といった日本語歌謡は、ドラマをきっちり反映してることもあり、強い印象を残す。だが、私が最も印象的だったのは、「太陽を盗んだ男」の「山下警部のテーマ」が使われていたことだ。


太陽を盗んだ男 [DVD]
沢田研二, 菅原文太, 池上季実子, 北村和夫, 長谷川和彦
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↑の1:50付近から


 「太陽を盗んだ男」は中学校の理科教師、城戸が手製の原爆で日本政府を脅迫する話だ。城戸の交渉相手となる山下警部が射撃の練習をしたり、家に帰れないので仕事場のソファで寝たり、束の間の日常を過ごす間、BGMとしてかかるのが「山下警部のテーマ」だ。



 「ヱヴァ:破」でも、登場人物達が束の間の日常を過ごすシーンにて、この曲のアレンジ・バージョンがBGMとして使用される。一見すると、ミサトの着メロやコスモスポーツのように、作り手が好きな要素*2をサンプリングし、同じ意味合いを持つシークエンスにBGMを当てはめているだけのように思える。


 だが、こうも思う。ひょっとして「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は、テレビ版「新世紀エヴァンゲリオン」の作り手たちにとっての原爆なんじゃないのか?「新劇場版」にて、テレビ版も、配給方式も、過去の自分達がつくった物語やキャラクターも、全てを破壊し、ケリをつけようとしているのではなかろうか。


 そうだ、これは「山下警部のテーマ」だ。

「この町はもう死んでいる。死んでしまっている者を殺して、なんの罪になるというんだ」


 「太陽を盗んだ男」のクライマックスにて、そう主張する城戸に対し、山下警部は怒りと共に反論する。

「ふざけるな。オマエのようなヤツに人を殺す権利などあるものか。
オマエが殺して良いたった一人の人間は、オマエ自身だ。オマエなんかに人を殺す資格はない。
オマエが一番殺したがっている人間は、オマエ自身だ。死ね!地獄へ落ちろ!」


 「破」においてこの台詞はまず、アスカを殺させたゲンドウに対して反抗するシンジに当てはまる。オマエなんかにアスカも母さんもレイも殺す資格はない。オマエが地獄に落ちろ。ネルフ本部も破壊してやる、と。
 一方で、ゲンドウにもこの台詞は当てはまる。オマエみたいに大人になれない奴が、おれを殺す権利などあるものか。色んなものを犠牲にしてまでも自分の願望を実現させる覚悟が無いのだったら、オマエが死んでしまえ、と。
 この二人の葛藤と相克には、やはり「大人」になった、あるいは成長した「子供」である作り手たちの、「大人」や成長した「子供」なりの、切実さがある。ちょっと話がズレるが、ミサトや加持主観のシーンが多くなり、アスカが成長したような台詞を吐き*3、ミサトがそれに応えるシーンなどは、その顕れだろう。それらはテレビ版とは少々趣の違うものなのだが、確かに切実であり真摯であるという点で、本作を血の通ったアニメにしていると思う。


 そして当然この台詞は、庵野秀明鶴巻和哉摩砂雪といった、テレビ版「エヴァ」の作り手達にも当てはまる。彼らが殺したがっているのは「エヴァ」自身なのだ。


 だがその結果が、初号機の頭の上に灯る光輪なのか。いや、そんなイージーな結論ではないだろう。まだ二作目だ。もう二作残っている。あと二年でも四年でも、私は待つぞ!

*1:これはゲンドウの計画のうちだけれども

*2:樋口真嗣は邦画ベスト3の一本に挙げている

*3:例の「死亡フラグ」だ