エンタープライズ青春白書:「スタートレック」

 「スタートレックは特撮がショボい。貧乏くさい」
……とのたまう親父に、そんなことないよ、ILMが担当してるじゃん!などと反論しつつ、ビデオで見た「カーンの逆襲」のどどめ色した宇宙や、使いまわしされるジェネシス創世シーンに反論の根拠を見失った小学生時代。「スター・トレック5/ 新たなる未知へ」のお気楽宇宙旅行っぷりに笑った中学生時代。「ギャラクシー・クエスト」の本家越えにビビった大学生時代。
 そして現在、現在劇場で公開されている「スタートレック(2009)」を観たのだが、映像的にもの凄いことになっていて、驚いた。宇宙空間でのレンズフレアとか、円盤部の砲塔とかが描写されるのは、シリーズで初めてなんじゃないのか。これならうちの親父も、ショボいとか貧乏くさいとか言わないだろう。


 だが一方で、ちょっとこれはどうなの?という展開もある。以下ネタバレ。


 例えば、猛スピードで落下するカークとスールーを、チェコフが見事な手際(にみえる演出)でロックして転送する、というシーンがある。ぶっちゃけチェコフの見せ場として存在するシーンなのだが、そのすぐ後に、単に足元が崩れたという理由だけでスポックの母の転送に失敗する、というのはどうなのか?あれ、普通だったらスポックがチェコフに「何やってんだよ!」と詰め寄るよね?
 もう一つ、大暴れ(これもどうかと思うんだが)したカークが強制的に脱出ポッドで船外退去させられる。で、ポッドが不時着した惑星で、老スポックに出会う。出会いの理由は何かというと、偶然だ。「運命」とか「過去の記録を参照した」とかではなく、本当に偶然なのだ。良いのか、それで?


 これは純粋に、脚本と、問題のある脚本をそのまま映像化してしまった演出の問題だと思う。この脚本家なら女の子が空から降ってくる話を平気で書きそうだ。
 インタビューを読むと当初プロデューサーを務めるのみだったJ・J・エイブラムスは脚本の素晴らしさに監督もやることにきめた、なんて書いてあるのだが、それ脚本の出来不出来を判断する能力無いだろ!とツッコミたい。


 だが、それでも本作を面白く感じる理由は、増幅されたキャラの面白さにある。
 私は、映画版は一応全て観た一方で、最初のTV版の「スタートレック」を数本しか観ていないのだけれど、チェコフやスコティってこんなに訛り酷かったっけ?ウフーラって、あんなにエロかったっけ?ドクター・マッコイって、あんなにおもしろキャラだったっけ?ジジジジジジム!デイムイット!アイムドクター、ナット……


 この面白さというのは、「グラン・トリノ」でイーストウッドが「かつてイーストウッドが演じたキャラ」というのを最大限利用していたのに近いと思う。ハリーや荒野の用心棒はこういう時に銃を撃ち、こういう時に女を守り、そういう行動をする。そのような「キャラ」にまとわりついたイメージに、ある時は乗っかり、ある時は裏切る。そのようなことから来る面白さだ。
 しかもその「キャラ」は、ここが複雑なところなのだけれど、決してあのTV版の「スタートレック」を観た時に感じた「キャラ」そのままではないんだよね。そこから数十年が経過し、様々な派生作品やパロディを踏まえて、皆の頭の中で時と共に変容したキャラだったりする。
 数年前、ダウンタウンの番組にて水木一郎が「マジンガーZ」の主題歌を歌った際、浜田雅功が「絶対あんな風に歌って(シャウトして)ないわ」とツッコんでいたのだけれど、皆が同種のツッコミを心中でしたりしなかったりする面白さ、とでも言おうか。


 だから、カークが向こう見ずというよりもハリウッド青春映画に出てきそうなアホ主人公だったり、スポックが冷静とか論理的とか口にしつつ何回も激昂したりするのは、ちょっと面白かったのだ。これであと20年戦える!ってことなんだろうなぁ。


 虎は死して皮を残し、俳優は死してキャラを残す、ということかしらん。ウィリアム・シャトナーレナード・ニモイもまだ死んでないけれど。