私がProjectitohを尊敬する理由

 前回の日記で済ませようと思っていたのだが、はてなキーワードで辿ってみると多くの人が伊藤計劃の日記や著書に対する個人的な思いを長文で書いていて、そのネットにおける葬式みたいなさまがいかにも伊藤計劃を弔うのにふさわしく思えて、なんだか感じ入ってしまった。私も自分の思いを書いてみたい。


 私が伊藤計劃のことを初めて知ったのは、はてなダイアリーのProjectitohとしてだった。面白い日記だなぁと思いつつ、巡回先の一つとして覗いていたのだが、次第に引き込まれていった。この人、えらい文章書くなぁ、と。


 折に触れて何度も読み直す、印象的な文章がある。

スーザン・ソンタグは「隠喩としての病」で、かつて「結核」がそうであったような、「病」につきまとう神話性・文学性を解体して、「ただの病気」として病に付き合うことを探ったけれど、これは彼女自身が乳癌を患い、その戦いの過程から生まれてきたものであって(病と「戦う」という表現自体が、文学的な煙幕、としての神話性をすでにして帯びているような気もするなあ)、ガンやエイズといった「死に至る病」の、いわば大仰さ、から逃れるのはなかなか難しそうです。

(中略)

だから、隠喩としての病が、文学から消える瞬間とは、恐らく、人が死ぬ存在である限り、訪れることはないのです。

わたしも今にして日記を見返してみると、癌という「死の可能性」を現前させられた無力な存在として、いろいろ言葉を費やして自分の現状を飾り立ててきた(泣き言、ともいう)のが残っているわけで、「死の季節」が通り過ぎてみると、その慌てっぷりはかなり恥ずかしいものがあります。こうして隠喩としての病について語ること自体、自分が陥った状況をいかに「利用」し、「美化」し、「憐れむ」かというナルシシズムに過ぎないのですが、それを忌避しつつ語ることに倦まない「死」という存在。たぶん、人が死ななくなった時、文学も映画も、いや、文化が消滅するでしょうから、「隠喩としての病」は、文化が存在する限りあり続けるのでしょう。

ロマンス(物語)のかみさまは病気がお好き - 伊藤計劃:第弐位相

 これは伊藤計劃が何回目かの抗癌剤投与を終え、再発の可能性はあるものの(実際に再発した)、これで一区切りという時点での日記だ。
 一読して、なんというか、尋常ならざる覚悟を感じた。数日前まで抗癌剤を入れていて、今も吐きそうになっている男が、「隠喩としての病」を語る。自分の文章を振り返って、「その慌てっぷりはかなり恥ずかしいものがある」と語る。「死に至る病」の大仰さから逃れることについて語る。
 今まで何人もの小説家が、評論家が、批評家が、哲学者が、実際に癌やエイズを患い、「死に至る病」の大仰さから逃れようとしていた。「死に至る病」から既存の意味を引き剥がそうとしてきた。「死に至る病」を解体しようとしてきた。その末席に、自分も加わるのだ。そのように感ぜられる文章だった。


 その数ヵ月後に伊藤計劃は「虐殺器官」でプロの小説家としてデビューすることとなる。
虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)
伊藤 計劃
4152088311


 「虐殺器官」を一読して、私は複雑な気持ちになった。正直なところ、私は伊藤計劃のことが妬ましくて妬ましくて仕方がなかった。彼は私より一つ上なだけだ。これまでの人生でみてきたものや、吸収してきたものも、それほど大きな違いはないだろう。それなのに、アウトプットにこんなにも差がついてしまうものなのか、そう思った。
プロの編集者ですらも「悔しい」と書いているので*1、私が同じことを書いても多めに見てもらえるだろう。


 その一方で、「予想を裏切るものがなにもない」とか「既存のネタを組み合わせただけ」とか「そもそもがメタルギアのパクりというか影響が大きすぎ」という批判に、我がことのようにムカついたりした。作品というものが送り手と受け手の間にある以上、どんな感想も批評も評論も正しい。ただ、それは受け手の読解能力の限界を正しく反映するという意味での正しさだ。いや、違うんだよ。そうじゃないんだよ。そりゃ、「言語兵器」というネタは数年前に山本弘も使っていたくらいSFではポピュラーなネタだし、発展途上国の犠牲の上に先進国の反映が成り立っているというのも一見よくある世界観だよ。しかし、結果として伊藤計劃にしか書けない作品になっていることの、どんなにえらいことか。コピー世代のそのまたコピー世代である我々が、既存のネタを組み合わせて、誰にも書けない作品に仕上げることの、どんなにどえらいことか。


 つまり、こういうことだ。「メタルギア・ソリッド」をエアコンの効いた部屋でピザでも喰いながらべとべとした手でプレイしている人間にとっての最大の恐怖は何か?その電力を作る石油は中東で時給20円で働く人間が汲み出しているんじゃないのか?そのピザにのせるアンチョビはアフリカの食品加工工場で時給10円で働く人間が作っているんじゃないのか?しかも、ゲームをプレイしてピザを喰っている人間はその状況に気づきもしないし、気づいても翌日にはすぐ忘れるし、状況を変えようとする人間は変人扱いされる。それは一種の権力で、しかも特定の誰か、悪の権化の親玉みたいな奴がその権力を振るっているわけでもない。じゃ、その権力を振るっているのは誰か?……という話だったんだよ*2。しかもこれを、小難しい評論や難解な文学ではなく、れっきとしたエンターテイメントとしてやりぬき、最後は読者の頭の上に「後は自分で考えろ」とばかりに爆弾を落とす。本当に妬ましかった。


 そんなわけで、私は伊藤計劃に対して複雑な思いを持っていたのだが、「ハーモニー」を読んで、一種の諦めがついた。これはもう、自分には追いつけないと思った。
ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
伊藤 計劃
415208992X


 この小説は、医療技術が発達して殆ど全ての病が根絶された社会が舞台だ。老衰や事故死以外での死は、ほぼ無い。そんな世界において、幼少期に一つのテロとして自殺を試みた女性が主人公だ。劇中彼女が他人を殺したり、他人に殺されそうになったりする。彼女と一緒に自殺しようとした親友が、我々の頭の上に爆弾を投げつける。
 この作品で伊藤計劃がやろうとしたことは、以下のようなことだと思う。「死に至る病」から既存の意味を切り離す。だが、それでも「死」そのものは残る。人は他人を殺す生き物だし、同時に絶えず他人から殺される可能性のある生き物だ。なによりも、どんなにテクノロジーで「死」を遠ざけようとも、「死」は必ず自分に追いついてくる。既存の文学的意味、そして医療技術の限界からくる「物語」、それら二つを「死に至る病」から切り離した上で、それでも残る「死」にまつわるあれやこれや、決して語るに倦まないそれらについて語る、少なくとも私には、そのようなことに挑戦した小説に思えた。


 「ハーモニー」の中で、主人公はヒトの「意識」の成り立ちについて、もっともらしい科学的(還元論的)説明を受ける。SF小説というものは日本が一年ちょいで沈没したり、一夜にして人類全員が失明したり、時間を遡って生みの親を殺したりするホラ話にもっともらしい理由をつける小説だ。だから、この小説内で「意識」はこれこれこういう理由で生まれると説明されれば、その小説内ではそうなのだ*3
 で、劇中、「意識」を先天的に持っていない民族*4が出てくるんだよね。その中の一人が「意識」を獲得したり、また失ったりというのがこの小説の構造内で重要な要素となるのだけれど、ネタバレしないように一足飛びに私の感想を書くと、これは「死に至る病」が「意識」を生み出すけれども、それは当人にとって幸せなのか?ということだと思う。で、高度医療社会におけるフーコー的生権力とか、ディストピア萌え萌え〜みたいな要素を別にすると、艱難辛苦が充実した人生を生むけれども、当人にとってはどうなのか?というような、ある意味普遍的なテーマを扱っているんだと思うんだよね。


 ただ、それを伊藤計劃がやると、死に至る道を誰よりも早足で歩いていた彼が書くと、こういう誰にも書けない話になるのだと思う。伊藤計劃は常に安易な地点に安住していなくて、そこが彼の魅力で、私が尊敬する理由だ。

おれはこの世が少しでもおれにとって楽しい(「正しい」じゃねーぞ)場所になってほしくて書いているのだ。何人かはもしかしたらいるかもしれない。「うん、そこらへん気をつけて書けばもうちょっと映画評面白くなるかな」って考える奴が。そういう奴の存在におれは賭けてるんっだつーの。「個人の自由だと思います」とか抜かしている間は何も変りゃしねえ。いい言葉だな「個人の自由」って。たいそうなこった。くたばれ。おれはおれにとって読み応えのある文章がすこしでも増えてほしくてこういうことをやってるんだ。おれのためだ。世界がおれにとってちょっとでも楽しい場所になりゃ万々歳だ。あのな、おれは世界を変える気で書いてるんだよ、大袈裟に言えば。いや大袈裟じゃないか、ホントの話だからな。スルーされない何人かに届いて、その人間が面白い文章をはてなで書こうとしてくれりゃおれにとっては大勝利なんだ。おれは明日死ぬかも知れないし、そういう「個人の自由ですから」なんておためごかしに付き合っているほど暇じゃねーんだ。もっともっとおれにとって面白くて興味のある文章が読みたくてたまらないんだよ。

誰も信じるな - 伊藤計劃:第弐位相

 伊藤計劃は冥土も信じていなかったし、天国も信じていなかった。神も信じていなかったし、ことによると、人間も信じていなかった。我々は伊藤計劃を大勝利させられるような文章を書かなくてはならない、冥福を祈る暇があるのならば。

*1:http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20070630/1183176303

*2:小説内では「メタルギア・ソリッド」じゃなくて「プライベート・ライアン」の無料プロモーションビデオだったけれども

*3:しかも、確かテッド・チャンも同じネタを使っていたような気もする

*4:天然のノックアウトマウス的説明に使用される