スピルバーグなう:『SUPER 8/スーパーエイト』

SUPER 8/スーパーエイト [DVD]
B0052R0RZE
SUPER 8』、『スーパーエイト』、『スーパー8』……どう表記したらSE0的にOKなのか見当つかないのだが、ともかく『SUPER 8/スーパーエイト』を鑑賞した。当然、面白かった。今川泰宏が『ジャイアントロボ』や『真マジンガー 衝撃! Z編』でとったアプローチと同じ手法で、J.J.エイブラムスは「スピルバーグ映画」にオマージュを捧げた……というか、ネタにしたのだなぁ、と思った。つまり、あれだ。スーパー・スピルバーグ大戦だ! ウヒョー!!



ちょっと映画に一家言ある方なら既にご存知のことと思うが、スピルバーグには二つの顔がある。世の善男善女を感動させ興行関係者を喜ばせる白スピルバーグと、そんなファミリー向け映画にも虫が子供に羽を毟り取られるように人間が殺される即物的な残虐シーンを平気で挿入する黒スピルバーグだ。
で、J.J.エイブラムスが作ったスーパー・スピルバーグ大戦であるところの『スーパー8』は、この白スピルバーグと黒スピルバーグが対決する映画なのだと思ったよ。


スピルバーグについては、説明不要だろう。
E.T.』や『未知との遭遇』の舞台となった70〜80年代、アメリカの郊外住宅地、子供同士の冒険、甘酸っぱい初恋や友情……等々、そういったものがスピルバーグの万人に受け入れられる面だとすれば、『スーパー8』における白スピルバーグは主人公のジョーと、ジョーの友達や家族との交流だ。同時に、70〜80年代の白スピ作品群が好きだったJ.J.エイブラムス少年の姿を主人公のジョーに象徴させてもいる、といえるだろう。


一方、『スーパー8』における黒スピルバーグとは何だろうか?
ジョーズ』で生きたまま丸呑みされるロバート・ショウ、『レイダース』の肉がドロドロに溶け落ちるナチ将校、『魔宮の伝説』のグロ料理やウデムシ、『ジュラシックパーク』の大便器に座ったまま頭を齧られ、振り回されるデブ、『アミスタッド』での史実に無い奴隷船上での大量虐殺、『シンドラーのリスト』で完全に暇つぶしとして殺されるユダヤ人、『プライベート・ライアン』や『宇宙戦争』での即物的な大量死……そういったグロテスクでバイオレントでジェノサイダルな要素こそスピルバーグの暗黒面だ。


以下、ネタバレだけどなるべくネタバレにならないように書く。



J.J.エイブラムスはまがりなりにも映画人であるので、スピルバーグの暗黒面にしっかり気づいており、『スーパー8』にもスピの暗黒面をしっかり取り込んでいる。
ファミリー向け映画にしては殺気マンマンな冒頭の列車事故は、『ジョーズ』や『レイダース』でのファミリー向け映画にしてはドキリとする残酷シーンへのオマージュに思える。行方不明の犬を探す張り紙が張られまくった掲示板は『宇宙戦争』の人探しの張り紙が張られまくった掲示板の引用ではなかろうか。体を張って列車を止め、軍部に拷問され、殺される黒人教師は『アミスタッド』や『シンドラーのリスト』へのオマージュではなかろうか。平和そのものだった郊外住宅地が戦車やミサイルで蹂躙され、第二次大戦の戦場のように変貌するクライマックスは、『プライベート・ライアン』への目配せではなかろうか?……そう、E.T.よりも凶暴で、無関係な善人善女を殺しまくり、オヤツ替わりに人間の脚をぼりぼり齧り、ヒロインもあと一歩で彼の餌食となるところだった、本作における宇宙人こそ、黒スピルバーグの象徴なのだ。
E.T.は父を失った主人公にとっての父親の象徴であったが、『スーパー8』の主人公が喪ったのは母親であることに注意して欲しい。『スーパー8』の宇宙人が女性だという意味ではない。父親ではない年長の男、少年にとっての荒ぶるアニキ、ということなんじゃなかろうか。


喪失。そうだ、喪失だ。白スピと黒スピに共通するもの、それは喪失感だ。肉親を喪った哀しみ。故郷を失った悲哀。イノセントを失ったが故の成長。人間としての尊厳を失った残酷さ。
スピルバーグの映画では、常に「死者」が重要な位置を占める。映画が始まる前から死人である父親や母親。自分が見ていない殺人を民族の記憶――歴史として幻視する主人公*1。最先端の科学技術で蘇る太古の死者――恐竜たち。それらは喪失の映画的表現だ。


もう一つ白スピと黒スピに共通するもの、それは「映画」であろう。スピルバーグにとっての「映画」の神であるトリュフォーが科学者役を演じていた『未知との遭遇』のマザーシップや『マイノリティ・レポート』のプレコグたちは「映画」の象徴だった。『A.I.』のピノキオがラストでみたのは地球の映画的記憶だった。『宇宙戦争』のトライポッドはカメラを載せた三脚だった。ジョーとデブ友達が心情を吐露しあう時、そこでは映画が上映されていた。
同時に、映画とは死者の世界の象徴でもある。『マイノリティ・レポート』の主人公が部屋に引き篭もって観ていたのは、死んだ妻と娘が写っていた映像だった。このシーンは『スーパー8』でも、好きな女の子が横で座っているにも関わらず、死んだ母が映っている8ミリを観るというシーンにて引用されている。ここでアリスはジョーの心の中にも自分と同じ昏い穴が開いていることを知るのだ。


スピルバーグの子供たちは、喪失感を通じて共感できる。


だから、白スピと黒スピが出会うとしたら、「映画」を通じてしかありえない。白スピと黒スピがそして共感し、和解するとすれば、互いの喪失感に共感しあう時しかありえない。
『スーパー8』は、両親の離婚をユダヤ人差別や大量虐殺と重ね合わせ、絶望と暴力と殺戮の映画ばかり撮っている911以降の黒スピが、少年のような冒険心と悪戯心で映画を作っていた911以前の白スピに「それでも生きていける」と諭される映画なのだ。
と同時に、自分の殻の内だけに閉じこもっていた白スピが「映画」を通じて黒スピと出会い、世界の暴力を知り、残酷さを知り、美しさを知り、ちょっとだけ大人になる映画でもある。必見。

*1:そういや伊藤計劃はスピ映画の死者を歴史であると看破していた