仮面ライダー 1971-1973

 「仮面ライダー 1971-1973」を読んだのだが、やはりというかなんというか、面白かった。
仮面ライダー 1971-1973
石ノ森 章太郎
4757746229


 世に仮面ライダーを題材にした小説は数あれど、和智正喜の書く「仮面ライダー 誕生 1971」と「仮面ライダー 希望 1972」は誰しもが認める名作だと思う。ライダーを題材とした小説としては他に、井上敏樹の書いた「555正伝」や早瀬マサトの書いた「仮面ライダーEVE」などがあるけれど、テレビや映画の脚本としてはOKでも、小説としての出来は和智正喜の方が格段に上だ(井上敏樹も早瀬マサトも小説家が本業ではないので、当り前といえば当り前なのだが)。
仮面ライダーファイズ正伝―異形の花々 (マガジン・ノベルス・スペシャル)
井上 敏樹
4063304132
小説仮面ライダーEVE〈1〉誕生篇
石ノ森 章太郎
4063646939


 本シリーズの魅力は、本当に最初から最後まで一人きりで戦うライダーとか(平成の現在では考えられないよな)、その仮面ライダー=本郷猛のが一人きりでも最後まで戦いぬく覚悟を決めるまでの熱い内省とか、改造手術により鋭敏になった感覚を主観的に引き伸ばされた時間として描写する戦闘シーンなどが挙げられるのだが、最も唸ったのはショッカーの設定だ。
 この作品におけるショッカーは、TV版や漫画原作版のそれよりも遙かに巨大な組織として描写される。その歴史は人類誕生の昔まで遡ることができ、歴史の端々にその姿を現す。仮面ライダーは一つ一つの戦いに勝利することはできても、ショッカーという強大な組織そのものに打ち克つことはできない。
 しかも、ショッカーの目的はなんと「人類の守護」だ。ショッカーは日本への更なる原爆投下を阻止し、キューバ危機の回避にも関わった。その為にショッカーは紛争の関係者を暗殺したり、脅迫したりする。無辜の民を誘拐して改造人間に仕立て上げ、自らの尖兵にしたりする。そう、ショッカーはあくまで「人類の守護者」であって、「人間の守護者」ではないのだ。


 そこで、仮面ライダーが「人間の守護者」として戦うこととなる。この構造の、なんと現代的なことか。


 つまり、本シリーズの主役は、実のところ、本郷猛ではなくショッカーであるともいえる。三人称で様々な人物の視点を借りて語られる本作は、本郷猛よりも<大使>や<博士>といったショッカー側の人物の視点で語られるパートの方が多いくらいだ。


 「仮面ライダー 1971-1973」には本シリーズ6年ぶりの新作にして採集作「流星 1973」が収められているのだが、ショッカーとは何なのか?が最後にきちんと明かされる完結編であった。



 以下、ネタバレ。



 ショッカーが目的として掲げる「人類の守護」、その真相は、人類の中から突然変異的に現われる神の如き力を持った<新人類>を抹殺することにより、種族としての人類を存続させる、というものであった。その為に改造人間を生み出し、<新人類>に対抗可能な<真人類>を作り出す。ショッカー(の上位組織)の首領はなんと<創造主>、すなわち<神>だ。


 ここで平成ライダーファンは即座に「アギト」を思い出すであろうが、ちょっと待って欲しい。<創造主>、<神>、<新人類>、<真人類>……これらは「イナズマン」や「リュウ」や「サイボーグ009」などの石森作品に共通する要素だ。これは「アギト」と同じく、石森作品に対するオマージュなのだな。


 勿論、石ノ森章太郎は「神」や神の子である「新人類」の存在や誕生を信じていたわけではなくて、それらを宇宙人やミュータントとするSF的解釈を自作に取り入れたかっただけだ。


 だから「アギト」でも「仮面ライダー 1971-1973」でも、描かれるものは<神>や<新人類>についての単なるネタばらしではなく、それを知った登場人物がどう行動するか?になる(「アギト」はちょっと失敗したかもしれんけど)。

「(略)
改造された君はもうヒトではない。我々が生み出そうとしている真人類とも別の存在だ、当然、新人類でもない。君はこの世界にひtりだけだ。君は誰だ、本郷猛?君はどちらに立つ?現人類か?新人類か?それとも……」
 投げかけられた問いを、本郷はその胸の底深くに沈めた。
 そして……答えた。
「ただ生きたいと願う魂を守る。自分の使命はそれだけだ」


 そう。これはつまり、「その壁がどんなに正しくて、卵がどれほど間違っていようとも、僕は卵の味方をする」という村上春樹のスピーチとまったく同じ主張だと思うのだが、私のような男というかオタの心には村上春樹の100倍くらい強く響くよね、という話ですた。