エンターテイメントとしてのテロと劇場型犯罪のあいだ

 ここ数週間というもの、毎日終わらない宿題と格闘していたような気もするのだが、多分気のせいだろう。

 それはそうと、この日記もやっと通常営業だ。せっかくブログ時間とリアル時間が一致しているのだから、時事ニュースでも扱わなければと思っていたら、いや久しぶりにドキがムネムネする事件が起こりましたな。

 「むしゃくしゃしてやった」、「誰でもよかった」「今は反省している」……などとガッカリさせられる発言を連発する人殺しが多い中、彼は久しぶりに世に出た気骨溢れる人殺し(達)だ。この国を動かしているのは国民でも政治家でのなく官僚であるという状況認識。元事務次官の住所をキッチリと調べ上げる調査能力。夕方6時半という宅急便が来ても不自然じゃないけど周囲は真っ暗という時間帯を選ぶ知性。一族郎党根絶やしにしてやるという溢れんばかりの殺意。メッセージが伝わらなかったとみるや、翌日全く同じ反抗を繰り返す行動力。繊細さと大胆さを併せ持ち、我々にできないことを平然とやってのけた犯人(達)に、私の心はシビれまくりだよ!彼のような活力溢れる人殺しが出てくるあたり、日本の未来はまだまだ明るいよね。

……もう面倒くさいから以下は(達)を省略するけれど、犯人が単独であっても複数であっても通用する話として読んで欲しい。

 話を戻すとさ、最近の日本人は上から下まで、誰も責任をとろうとしないじゃん。この犯人は年金行政に強い不満を持っているんじゃなかろうかというのが専らの推測だけれど、社会保険庁の誰もが年金記録改ざんや紛失に対する責任をとろうとしない。年金問題以外にも幾らでも事例はあって、例えばこの前まで話題になっていた給付金の所得制限だって、制限するかしないかの選択の責任を総理大臣から区役所の役人まで、誰もとろうとしない。そればかりか、責任の所在を曖昧にするシステムの構築に邁進しているようにも思える。そんな中、殺人という責任をひっかぶってでも状況を変えようと試みたこの犯人はある意味偉いよな。彼なら胸をはって死刑台への階段を登りそうだ。

 ただ、二つの殺人事件が同一犯によるものだとしてもなお、この事件って本当にテロなのかな?という疑問はある。まず、この犯人は今のところ何のメッセージも発しておらず、単に世間がテロテロ騒いでいるだけ、という印象が強い。
 はっきりいって、これはテロというよりも劇場型犯罪なのではなかろうか。犯罪を通して何がしかのメッセージを伝えるという意味で両者は双子の兄弟のようなものだとする意見もあるかもしれないけれど、犯人が文字や音声による直接的なメッセージを何も発していないのにも関わらず、世間が「あれが原因だ」「いいやこれだ」と勝手な憶測を妄想的に膨らますさまが実に劇場犯罪的だ。ただ、犯人が劇場型犯罪を希求したといよりは、我々傍観者の振る舞いが劇場犯罪的だということだけれども。

 そう考える理由なのだけれど、まずさ、この事件って、私のような人間にとってはもの凄いエンターテイメントじゃないか。犯人には官僚が元凶であるという現状認識があって、親族以外の民間人は巻き込まないという確固たる意思と矜持があることがはっきりしてるわけだよね?や、官僚でもないし、政治家の息子でも嫁でもないし、年収500万に届かない自分達が絶対に目標にならないことがはっきりしているから、安心して彼らが右往左往するさまをお茶の間でお茶でも飲みながら鑑賞できるわけで、これ以上の見世物はない。
 メディアが勝手に騒いでいる、というわけでもない。あれだけ連日連夜に渡って放送し、紙面を割いて報道するのは、それを観たがり読みたがる視聴者がいるからで、基本的には視聴者や読者の欲求に答えているだけだ。
 政治家や官僚が実に敏感に反応し、大規模な捜査体制や警護体制を敷いたのも、この物言わぬ犯人に殺される可能性に足る、後ろ暗いところや思い当たるところがあるからだろう。

 いや勿論、何もメッセージを発しないことが犯人の狙いだという考えもあるよ。「パトレイバー劇場版2」で、一発のミサイルで東京を架空の戦時下においたように、たった二つの殺人事件で架空のテロ状況においた、みたいな。ただいずれにせよ、現在のような格差社会では、国民の大多数が第三の被害者にはなりようがない、他人事の殺戮劇として安心して鑑賞していられるわけだ。これ以上のエンターテイメントはないよね。
機動警察パトレイバー2 the Movie
ゆうきまさみ ヘッドギア
B00012T0I0


 じゃ、オマエは犯人がつかまらないことを望んでいるのかと問われれば、そんなことは全く無い。早く犯人が捕まって欲しいと心底願っている。犯人が捕まれば、彼の家庭環境や、生い立ちや、職場での評価や、卒業文集の作文や、自室の本棚の内容なんかが事細かに開陳させ報道され解説され、何が原因だっただの親の責任はどうだっただの心の闇の奥だのねずみ人間だのバモイドオキ神だのが、人々の妄想や推測や自意識と共に物語形式で語られるわけだろ?小説でも映画でも漫画でもゲームでも、どんなジャンルの作品でもこのエンターテイメントに勝てるわけがないよな!

 こういうことを書くと、人死にが出ている事件でなんて不謹慎な!なんて批判を受けそうだが、我々がこんな駄文を書いてこんな駄文を読んでいる瞬間にも、アフリカやイラクアフガニスタンでは何十人、何百人の人間が殺したり殺されたりしてるわけだよね。その一方で、たった二人の人間が死んだだけで何故こんなにも大騒ぎし、それを面白がれるのかを考える方が重要だと思う、と言い訳したい。

 もっといえばさ、人殺しのどこが悪いのか?という話にもなるよね。いや、悪いよ。悪いけどさ。死刑や戦争での人殺しと、今回の人殺しとはどこが違うのかと思うところもある。
 誰もが最初に頭に思い浮かべる相違点は、前者は近代社会において民主的に選ばれた指導者が決定する人殺しであり、すなわち民意が間接的にであれ反映されているというものであろう。
 そこで今回の元厚生事務次官殺人事件なのだけれど、私はさ、2ちゃんねるでもMixiニュースでも個人のブログでも、ここまで被害者が同情されない殺人事件を初めてみたよ。「死んで当然」「こんな時だけ大規模捜査すんな」みたいな極端な意見はどんな事件でも目にするけれども、普段は大人しい日記を書いている人でさえ「殺人は許せないけど被害者に同情できない」なんて書いていてビックリした。本気でこの事件を嫌がっている人は宅急便の配送業の人くらいかな。
 ネットの意見が総体としての「民意」のどれだけの部分を占めているのか、非常に気になるところではある。だからといって殺しても良いとは思わないけれど、たとえそれが死刑であっても戦争であっても、簡単に殺しても良いとは思わない。

 ただここで感じる前述のエンタメ性は、自分はこの事件の被害者になれる富や権力も無ければ、加害者になれる勇気もない、切なさや哀しさと裏腹のエンタメ性なのだけれど。……私のような小市民にできることは、手元にある仕事を日常の中で粛々と進めていくだけですな。


 思えば911の時、倒壊寸前のWTCビルに走りこんでいくレスキューの人々の姿をみて、何が正義か分からない世の中だけれど、目の前で死にそうな人々を救おうとしている彼らは確実に正義だと思ったものだ。だけれども今、同じように何が正義か分からない世の中だけれど、自分を苦しめている元凶の一つであろうと判断した人間に、自分の責任の範囲内でNOをつきつける行為にも同種のものを感じる。そういうわけで、こういう人殺しが出てくる日本の未来は酸素運搬能力の低い血液のように明るいなと本気で思った。

……と、こんなことを書いていたら犯人を自称する男が出頭だってよ!もうスゲーワクワクするよ!