"Fuck"という表現の大事さについて:『オデッセイ』と『火星の人』

先日行ったニコ生放送の評判がよく、うれしい限りです。


放送直後に「こういう、マクガイヤーさんにしかできない科学的な視点からの映画解説を毎回やって欲しいんですよ!」とディレクターからベタ誉めされたのですが、毎回は無理ですわあ。
まず、『オデッセイ』みたいに、科学的な基礎知識がないとよく分からない描写があって、しかもそれは映画化にあたってあえて描写を省略しているだけで科学的に間違っているわけではなくて、そしてなおかつ面白い映画というのは非常に少ないわけです。テーマ選択における幅の狭さの問題ですね。


あと、『オデッセイ』は小説『火星の人』の映画化なのですが、驚くべきことに、映画も原作小説もだいたい同じ話で、なおかつ両方とも面白いわけです。こういう例も非常に少ないわけですね。
火星の人〔新版〕(上) (ハヤカワ文庫SF)
アンディ・ウィアー 小野田和子
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「原作は面白いのに映画はクソ」みたい例は山のようにあります。また、「両方面白いけれど、映画と原作が全然別物」という例もそれなりにあります。これは、文章で表現されうる面白さと映像のそれとが異なるからなのですが、にも関わらず『オデッセイ』と『火星の人』がだいたい同じ話というのは、奇跡的なことではないかと思います。


とはいっても、細かな部分でいえば違いはあります。映像化すると地味な見た目にしかならないトラブルの省略、地球での救出準備と火星の大移動場面のモンタージュ化、劇中流れる曲に物語的な意味の付加……色々とありましたが、その中でも、自分が一番唸ってしまったのはFuckの使い方です。なんと、四箇所で使われています。


一つ目の“Fuck”

冒頭、火星で嵐がおき、風で飛んできたアンテナにふっとばされた主人公マーク・ワトニーは、死んだものと思われ、火星に置き去りにされます。すっかり嵐がおさまった後、目を覚ましたワトニーは、なんとか火星の棲家であるハブにたどり着き、宇宙服を脱ぎ、ブラックジャックのように自分で自分を手術して、腹に刺さったアンテナの金属片を摘出します。
そして、ひねり出すように言うのです。“Fuck”と。
この“Fuck”には、なんとか命を繋いだけれども、火星に一人取り残されたという絶望的な状況に対する罵倒の意味がこめられているわけです。
脚本を書いたドリュー・ゴダードは、原作小説の最初の一文が“I’m pretty much fucked.”であることから、この台詞を用意したそうです*1


『夜明け前』を映画化するのなら、「木曽路はすべて山の中である」を何らかの形で使いたくなるでしょう。『白鯨』を映画化するのなら、"Call me Ishmael"を無視するわけにはいかないでしょう。同じようなことをドリュー・ゴダードも考えたわけです。
どんな小説も最初の一文――書き出しは、筆者が全力で考えた結果の一文であり、作品のテーマが様々な形で濃縮されています。だから映画『オデッセイ』も、マーク・ワトニーの冒険は“Fuck”の一語から始まるわけです。


このブログをお読みになる聡明な紳士淑女の皆様ならとっくの昔に知っていることと思うのですが、“Fuck”は極めて卑俗な英語表現です。同時に、“Fuck the fucking fuckers!”のように、幅広い意味を持つ表現でもあります。元々は「セックスする」という意味だったのですが、近年では罵倒や強調や感嘆の意味で使われることも多いです。
そして、どんな意味で使われようとも、元々卑猥で下品な意味を持っていたので、規制を受ける言葉でもあります。普通のテレビでは放送禁止ですし、映画では1回でも使えばPG-13にレイティングされます。2回使うとR指定です。

これは、裏を返せば、PG-13では、1回だけ“Fuck”の使用が許されている、ということを意味しています。PG、PG-13、R、NC-17……とレイティングが進むに従って興行収入は減る傾向にありますが、PG-13は「13歳なら見ても問題ない」という判断が、「13歳以上にとっては適している」と解釈されるからです。ティーンエイジャー向けの映画では、PG指定が可能でも、幼稚な映画と見做されるのを嫌って、敢えてPG-13指定を狙う場合もあるほどです。
つまり、PG-13映画の場合、どこで“Fuck”を使うかは、作り手(主に脚本家)の腕のみせどころなわけです。


二つ目の“Fuck”

ところが、『オデッセイ』では、他にも“Fuck”が使われているシーンがあります。
じゃがいも栽培のシーンです。迎えの宇宙船が来るまで食料がたりないので、ハブ内に土を持ち込みます。宇宙服を着ながらの作業なので、重労働です。幾度も往復し、ついに畑を作り上げます。やっと完成です。畑の傍に座り込み、ペットボトルのジュースを飲み干して一息つき、“Fuck you, Mars”と呟くのです。
この台詞は脚本に書かれておらず、マット・デイモンのアドリブだったそうです
前述の通りPG-13映画では“Fuck”は1回しか使えません。興行的な理由から、R指定にするわけにはいきません。しかし、あまりにも素晴らしいアドリブだったため、MPAAと交渉し、映画に残したそうです。なんでも、性的な意味での“Fuck”でなければ、交渉次第で複数回の使用が許される場合があるそうです


三つ目の“Fuck”

また、音声ではないものの、“Fuck”を使った表現があります。地球との通信シーンです。
ローバーのソフトウェアをアップデートし、地球と長い文章のやりとりができるようになります。そこで、意外なことが判明します。なんと、地球にいるNASAの幹部たちは、衛星写真からとっくの昔に分かっていたワトニーの無事を、宇宙船ヘルメスに乗って地球に帰還中の仲間たちに伝えていなかったのです。ワトニーを置き去りにしたということが分かったら、ヘルメスのクルーたちは罪悪感に苛まれるでしょう。クルーの精神状態を慮って、余計な事故などが起こらないようにしたい――というのが主な理由でした。
しかしワトニーとしては、あの状況で自分を置いていったのは全く合理的な判断と思っており、むしろ自分はまだ生きていると仲間たちを安心させてやりたいわけです。むしろ、自分とヘルメスのクルーの信頼関係を低く見積もり、リスクを低減させようとしているNASA幹部の官僚主義にイライラしてしまうわけです。
そこで、全世界が注視している通信*2に“Fuck Fuck Fuck Fuck……”と書き込むわけです。ローバーの中でも叫びます。オペレーターが通信を読み上げることを躊躇したり、ローバーからカメラがひいていって無音になったり描写は、R指定を逃れると同時に笑いどころでもあります。

[11:29]ワトニー:(略)ついでに質問:ぼくが生きているときいて、かれらはなんといってましたか? もうひとつついでに:「やあ、母さん!」
[11:41]JPL:(略)質問への答え:クルーにはまだきみが生きていることを伝えていない。かれらにはかれら自身のミッションに専念してほしいと考えている。
[11:52]ワトニー:(略)追伸:クルーにぼくは生きていると伝えてください! いったいなにが問題なんですか?
[12:04]JPL:(略)追伸:発言には気をつけてほしい。きみが打ちこんだ内容は全世界に生中継されている。
[12:15]ワトニー:見て見て! おっぱい!―> (.Y.)

というのが原作の描写なのですが、変更した理由について、ドリュー・ゴダードはこう語っています。

To me, it was important that we had a joke there, but what was more important was to get across how protective Mark was of his crew. He’s upset that they haven’t told them yet [that he’s alive]. That’s the soul of the movie, people looking out for one another. I tried to make every scene, as best I could, about that. It was crucial to play that, and if you undercut it with boobs, as much as I like undercutting things with boobs in general, it just felt wrong. But look, when it comes to making text boob jokes, there's not an exact science.

HitFix

「お互いを探しあう人々」というのがこの映画の魂だから――というわけです。だからこそ、boob jokes“(.Y.)”ではなく、“Fuck”連発を使ったのでしょう。大きな怒りのニュアンスが加わっているわけですね。


『オデッセイ』も『火星の人』も、悪人らしい悪人はほとんど出てこない映画です。映画ではNASA局長テディが若干悪人っぽく描かれていますが、彼としてもワトニーの帰還を望んでいるわけです。
そして、テディですら、物事を早急に進めなければならない時に、官僚主義が一番の敵になることを知っています。

「ちょっと待ってくれ」テディはケラーの話をさえぎって立ち上がり、ブレザーのしわをのばした。「諸君の立場はわかっている。たしかに手順は大事だ。その手順をはぶくことはリスクを意味する。リスクは各々の部署にとってトラブルの種になるだろう。しかしいまは、自分たちの身に火の粉がふりかからないよう予防線を張っているときではない。われわれがリスクをとらなければ、マーク・ワトニーは死ぬんだ」

しかし、そんなテディこそが、ワトニーを高い可能性で救えるかもしれないプラン――リッチ・パーネル・マニューバに反対します。6人の命を低いリスクにさらすよりも、1人だけの命を高いリスクにさらす方が、まだマシだというわけです。


しかし、ここで気づいてしまうことがあります。本作の主人公は科学者たちです。誰も彼も計算をし、合理的な判断をしている――かのようにみえます。
テディも、ここで計算をしているわけですね――最悪の場合、6人死ぬよりも1人だけ死ぬ事態のほうがまだダメージが少ない――と。これはNASAのトップである局長として、アレス計画を守り、NASAという組織を守るためには合理的な判断です。
つまり、誰もが善人である本作の悪役は、官僚主義というみえないシステムであり、誰の心にも棲む凡庸な悪という名のアイヒマンなわけです。
イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告
ハンナ・アーレント 大久保 和郎
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また、この状況はキリスト教文化圏における「見失った羊のたとえ」に代表される価値観を描いてもいます。羊飼いは、他の99匹の羊を山に残しても、迷子になった1匹の羊を捜し出そうとします。99匹が山に残されるということは、その羊たちにも危険が迫るということです。でも、羊飼いは迷ってしまった1匹のことが心配で心配で堪りません。いうまでもなく、この羊飼いとは神様のことであり、神がそのように我々一人一人をみてくれているという安心感が、残り99匹の幸せにも繋がる――という話です。
この価値観があるからこそ、どんなに合理的で功利主義的であっても、アメリカは自国の国民を見捨てないし、アメリカ軍もアメリカの警察も自分の仲間たちを見捨てません。そういえば『プライベート・ライアン』でも救われるのはマット・デイモンでした。
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このことを強調するための“Fuck”であり、ボロミアのじゃなかったショーン・ビーンの“You're a damn coward!”という台詞なわけです。“damn”もあまり良い言葉ではないし、“coward”も西部劇の時代から通じる罵り言葉ですね。


四つ目の“F--k”

最後の“Fuck”ですが、これまた地球との通信に文字として出てきます。“F―king”という伏字ですが。
映画の後半、火星ミッションの統括責任者であるヴィンセントとサットコン(衛星コントロール)のエンジニアであるミンディが、ワトニーから送られてきた文章のニュアンスについて、冗談混じりに話すシーンです。
宇宙船ヘルメスに回収してもらうためには、MAVを軽量化しなくてはなりません。椅子も窓も船首エアロックも取り去るという思い切った改造プランを知らせる地球からの通信に、マークはこう返します。

“Are you F--king kidding me?”

ヴィセントとミンディは、果たしてワトニーは笑いながら、冗談としてこの通信を送っているのか? それとも、「そんな改造するなんてとんでもない!」と激怒して送っているのか? ということを冗談混じりに話し合っているわけです。
「冗談混じりに」というのは、ヴィンセントとミンディは、ワトニーが本当はどんな気分なのか、だいたい分かっているからです。当然、前者――笑いながら――でしょう。何故なら、かなり挑戦的でリスクを伴う改造ですが、ことここに至っては、この改造をしなければ自分は助からないということをワトニーは理解している――ということをヴィセントとミンディは確信しているからです。
このような複雑なニュアンスを持つシーンを追加したのは何故なのでしょうか?
それは、本作の登場人物――特にワトニーが喋る台詞の多くには二重の意味があり、隠された意味があるということを象徴的に伝えたかったからではないでしょうか。


宇宙飛行士が、本作のような状況で、火星に一人とりのこされる――これは控えめにいっても、絶体絶命のピンチです。控えめにいわなければ、死刑宣告でしょう。知力体力に優れた宇宙飛行士が慎重に慎重に頑張っても、無事に地球に帰還できる可能性は限りなく低いです。
つまり、火星でマーク・ワトニーは、常に生死に向き合った戦いを強いられているわけです。陽気な音楽と、陽気で楽観的なワトニーのジョーク混じりの一人語りで騙されてしまいますが、ワトニーはいつ死んでもおかしくありません。
しかし、常に、真剣に生死と向き合うことはできません。ストレスが大きすぎます。
そこで、陽気さや楽観性やユーモアの出番になるわけです。生死隣り合わせの状況では陽気さや楽観性やユーモアがないと正気を保てないのです。


そして、ワトニーはそのようなことが自然にできる男として描写されます。ワトニーが頼りがいのある男にみえるのは、彼が知力体力に優れた超人のような男ではなく、このような状況でも自然にジョークを飛ばせる男だからです。


陽気さや楽観性は原作と映画で共通していますが、若干描写が異なるのも面白いところです。
たとえば前述した自分で自分を手術するシーンですが、原作では

ちゃちゃっと局所麻酔を打って、傷口を洗って、9針縫って完了。

というあっさりしたものです。
しかし、映画では007におけるつかみのアクションシーン(とそれに続く見せ場)のようになってます。
原作と映画が異なる理由として、まず、自分で自分を手術するシーンは映画的に見せ場になりやすいのというのが挙げられます。と同時に、あくまでも原作小説はワトニーが残した記録であり、自分が気弱になったり臆病になったりしているさまは記録していない――「信頼できない語り手」として記録されている、と解釈した結果として映画作られており、マット・デイモンもそのように演技しているからでしょう。
だからこそ、ここで“Fuck”を使っているわけですね。



“Fuck”は日本ではいまいちピンとこない言葉ですが、それだけに『オデッセイ』での“Fuck”使われ方には、作り手の知性をみる思いでした。
映画版の『デトロイト・メタル・シティ』がテレビ放映された際、「ファック」という言葉に全てピー音が入っていたことを思い出したりもしました。日本では「ファック」は放送禁止とされてないにも関わらずです。これも、テレビ局員の心の中にあるアイヒマンのせいですね。

*1:原作は、まずワトニーが火星に置き去りにされたことに気づく場面から始まり、クルーが嵐に遭遇して帰還をしようとMAVに移動するくだりの詳細は回想として中盤に説明される構成です

*2:未来のNASAは全ての活動をオープンにしているという設定になっています