今だからこそちょっとだけ観たいテレビドラマ版『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』がヒットしています。
この世界の片隅に 劇場 パンフレット
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本作は同名漫画を原作とし、11月12日に公開されましたが、4日までの興行収入3.5億円で、観客動員数は32万人を越えたそうです。公開時は63館だった上映館数は88館に広がり、現在のところ195館までの拡大を予定しているそうです。
この世界の片隅に コミック 全3巻完結セット (アクションコミックス)
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自分はニコ生で『この世界の片隅に』について解説しました。Youtubeやニコ動で視聴できます。



ですが、まだ語り足りないことがあります。


それは、今やすっかり黒歴史のようになってしまったテレビドラマ版『この世界の片隅に』についてです。

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DVDも発売されてます!


原作漫画『この世界の片隅に』が連載されたのは2007年1月〜2009年1月の約2年間です。テレビドラマ版は、その2年後の2011年8月5日、「終戦記念ドラマスペシャル」として放送されました。

すず役を務めるのはセーラーマーズでお馴染み北川景子、周作役は小出恵介です。
既に原作漫画が歴史に残る傑作と評価されていたこともあって、ドラマ化はそれなりの話題になっていたことを記憶しています。勿論、悪い意味でです。


テレビというのは、大衆に奉仕するメディアです。
8歳の小学生から80歳の老人まで、あらゆる年代層が観るプライムタイムなら、なおさら誰が観ても分かるように作らねばなりません。しかも、視聴者はテレビに集中しているとは限りません。家族で食事しながら観ているかもしれません。食事が終わって皿洗いしながら観ているかもしれません。晩酌で酔いつぶれているかもしれません。途中でトイレに行ったり風呂に入ったりすることもあるでしょうそういった視聴者にもある程度理解して貰えるように作る必要があります。
だから、多くのテレビドラマはナレーションを多用し、なんでも台詞で説明します。時には、テロップまで使います。
だからだから、悪い意味で評判になったのです。


ドラマに出演するにあたり、小出恵介が寄せたコメントも、いま読み返すと凄いです。

●「北條周作」に対しての印象は?
ひたすらに、すずを守り、国に尽くす、真っ直ぐな青年だと思っています。

こうの史代「この世界の片隅に」が実写化、主演は北川景子 - コミックナタリー


おそらく、マネージャーが書いたコメントなのでしょうが、原作をきちんと読んでいないことがバレバレです。


その他のキャストは、

……と、なかなかに豪華です。
更に、

まで出演します。
「千鶴」役ってなんやねん? と思われる方もいるかもしれません。未読ですが、小説版では「陽子」になっていたそうですね。
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恐ろしいのは、公式サイトにある人物相関図がめっちゃネタバレなことです。
終戦記念スペシャルドラマ この世界の片隅に


晴美もすみも鬼イチャンも、皆ネタバレですよ!


周作とリンの関係が「元恋人」となっていることにモヤモヤする人もいるかもしれません。が、実際に観てみてましょう。




以下、本エントリもネタバレを含みます。




テレビドラマ版『この世界の片隅に』は、原作や映画と同じくすずと周作の子供時代からはじまります。

が、3エピソードからなる原作を思いっきり省略し、すずと周作の出会いのみを描いています。ここは、舞台や時代を変えると莫大なおカネがかかってしまう実写作品、そして予算に制限のあるテレビドラマとしては仕方のないところでしょう。



そして、大胆に時系列をシャッフルし、戦争を通してすずさんがどう「変化」していくかを先にみせてしまいます。これも、常に視聴率に縛られているテレビとしては仕方のないところです。



また、すずを演じる北川景子の肌がつやつやしてて、ふっくらした顔だちで、いかにも栄養満点なルックスなことには、どうしても違和感があります。おまけに、結構な割合で標準語を喋ります。単発テレビドラマに限らず、日本映画はほとんど役作りの時間をもらえないことで有名ですが、それでもなんとかならなかったのかと残念でなりません。2週間足らずの撮影だったにもかかわらず、『100円の恋』でニート時代と覚醒後のボクサー時代をきっちり演じ分けた安藤サクラはやっぱりものが違うということなのでしょうか。
おまけに、すずさんのドジっ子ぶりがほとんど描かれないのも残念なところです。今やDAIGOの嫁となった北川恵子のキャラクターも相まって、なんだか若いのに頼れる姉さんという感じです。


そして、説明台詞と説明のための一人称ナレーションがウザいことこの上ありません。
「もう一度、私を見つけてくれんかねえ、周作さん」
「その人すずちゃんのことしっとるんじゃって、誰じゃろね?」
「周作さん、私を嫁にほしいいう人がおると聞いて、私がまっさきに思い浮かべたのは、あなたではなくてあの人のことでした」
……で、水原哲が登場したりします。

おまけにBGMも嫌になるくらい説明的です。
哲を演じる速水もこみちが意外に好演してるのは救いです。


また、すずが哲の代わりに課題の絵を描くエピソードはさすがに描かれます。本作が、絵を描く力で皆を幸せにする能力を持った少女の物語であり、喪失と再生の物語であることは、さすがに分かってるわけです。

……しかし、その肝心の絵が、絵の具で描かれた水彩画ではなく、鉛筆で描かれたスケッチなのです。なんだか。映画とテレビの「格」の違いをまざまざと見せつけられているかのようです。


で、すずは北条家に嫁にいきます。
残念ながら、祝言の途中で着たままであることを忘れていた道中着を脱いだり、周作が祝言のご馳走に手をつけなかったりする描写はありません。「傘を持って来とるかいの」「新なのを一本」のやりとりもありません。

それでも、しっかりキスするのをみせて、初夜を想像させることは逃げていなかったりします。



かと思えば、徑子の離婚の原因が夫の死ではなく、何故か夫の女遊びに改変されていたりします。この時代、死別意外で離縁するのは難しかったと思うのですが……

徑子役のりょうが、ツンデレ姉小姑としてかなり安定感のある演技をしているので(作り手もそれを分かっているのか、出番も多いです)、なんだか勿体無いです。

勿体無いといえば、忘れた帳面を届けるという体で行った映画館デートで、すずと周作が哲に出会ったりもします。戦中は「兵隊さんが優先」という意識や価値観があったと思うのですが、ずんずん映画館に入っていくのが面白いところです。


そして、リンさんテルさんのエピソードや、周作の遊郭通いをすずが知ってしまうこともきっちり再現されています。

切り取られた帳面を、切り取られたワイシャツの布にしているのは、「絵を描くこと」がそれほどフィーチャーされてない本作ならではの改変ですし、名札としてはこちらの方が自然です。


きっちり再現されているのですが……

なんと、周作とリンは幼馴染だということが徑子から語られます!
家が貧しくて、足りないものが色々とあったのを、周作がかばっていたのだそうです!!

「色町にあのコが売られていってからも、時々気にかけて、顔を見にいっとったんじゃね」
えー!
つまり、遊郭に行ったのはあくまでもリンが心配だっただけで、女を買う――セックスはしてなかった(かもしれない)ということなのでしょうか?!


ここら辺で、このドラマの狙いがだんだん分かってきます。
映画版がリンさんやテルさんのエピソードを(泣く泣く)カットし、「戦争」というテーマに絞りこんだのに対し、ドラマ版は「夫婦」に絞り込んでいるわけです。それも、あくまでもプライムタイムに放送できるテレビドラマの範囲内で。傘のくだりのカットや、三角関係を盛り上げるための哲の出番の増量や、周作とリンの幼馴染設定への改変も、そう考えれば納得できます。ちなみに、映画版は128分、ドラマ版はCMを抜いて120分、ほぼ同じ長さです。


漫画、映画、テレビ、小説……これらはそれぞれ異なるメディアです。
だから、同じ物語を語るとしても、異なる表現になるのは当然です。というか、異なる表現にしなければ同じ内容すら伝えることができないでしょう。


たとえば、『この世界の片隅に』で太極旗が映るシーンは、漫画版と映画版でそれぞれ表現が異なります。
漫画版では直接的だった玉音放送後のすずの台詞が、映画版では若干ぼかした表現になっています。太極旗も短い時間しか映りません。これは、直接的な台詞にするとあまりにも説教臭くなり、観客が白けてしまうからです。漫画は自分のペースで読み進められますし、前のページに戻ればいつでも再読できますし、いつでも中断できます。一方で、映画は、観客を二時間暗い室内に拘束し、強制的に映像を見せ続けるメディアです(上映途中に退席するのは作品に対してはっきりと「NO」をつきつけるメッセージとなってしまいます)。映画の観客は、漫画の読者と比較して、集中力・読解力がある程度引き上げられた状態になっていることが前提となるわけです。


映画版ではリンさんテルさんのエピソードがかなりの部分カットされ、すずが周作の「秘密」に気づいてない状態にあります。自分はこの点が不満で、映画版を手放しで絶賛できず、既婚者である片淵須直監督が結婚後に○○したり○○に行ったりしているにも関わらずこの改変(というか削除)をしたのなら、それは男にとって都合のいい世界になってしまったのではないか――というのはニコ生放送でお話しした通りですが、これも漫画と映画の違いに周知していた監督による選択の結果なのなのかもしれません(や、本当は2時間半あったコンテ段階ではそのようなシーンがきちんと存在して、監督は本当ならば2時間半の「完全版」を作りたかったのかもしれませんが、現状映画館で上映されている作品を観た限りではそう判断するしかありません)。


再読可能であり、長さに制限のない漫画(や小説)というメディアでは「戦争」、「家族」、「夫婦」、「日常」……といった複数のテーマを並列に扱えますが、映画ではそうはいきません。一つのテーマに絞り込むことが、映画が傑作になる鍵です(ハリウッド式、ともいえますが)。
映画版『この世界の片隅に』は「戦争」という大きな一つのシンプルなテーマに絞り込み、「戦争における家族」、「戦争における夫婦」、「戦争における日常」……等々を上手く描きましたが、「戦争における不貞」「戦争における夫婦の裏切り」等は、戦争よりも「不貞」や「裏切り」の方が買ってしまうので、映画版では省略した。


そして、テレビドラマ版は「夫婦」に絞り込んだ……そういうことかもしれません。


だから、「夫婦」にとってそれぞれの三角関係を構成するリンさんと哲は重要人物です。描写をカットするわけにはいきません。
そして、物語の途中でリンさんが退場するならば、哲もそうなった方がバランスがとれている……とドラマ版の作り手たちは思ったのかもしれません。


続きを観てみましょう。


哲はまた艦艇に乗り込み、南洋で戦死します。青葉はレイテ沖海戦で大破し、なんとか呉に辿り着いたものの、大きすぎる損傷のために呉工廠近くにずっと繋留放置されていましたので、ありえない描写です。

鷺がいるのは良いですね。
でも、史実通りに描いた原作版・映画版に比べると、なんだか、感動させられる為に殺されたようで釈然としません。これが感動ポルノってやつなのでしょうか。


「戦争」よりも「夫婦」という方針は、この後も徹底しています。




哲の思い出として再現される見知らぬ船での甲板上のシーンも、原爆投下のシーンも、あからさまにグリーンバックです。呉空襲がナレーションですまされたりします。テレビドラマなので仕方ないといえば仕方ないですが、「戦争」についてテレビドラマにおける最低限以上の描写をやる気がないとも思えてしまいます。勿論、原爆投下を知る前にギリギリ徑子と和解するあの名シーンはカットです。

一方で、花見のシーンはかなり力が入っています。時期的に桜なんて咲いてないので、セットを組んでいるわけですが、かなりカネがかかってると思しきシーンです。

そして、玉音放送を聴く前に「さあ、それでは玉音放送を拝聴しましょう!」と台詞で説明された時には、テレビの前で腰が抜けてしまいました。
聞く前に分かるのか!?


当然、太極旗も出てきません。

「暴力で押さえつけとったいうことじゃ、じゃけえ暴力で屈するいうことじゃ」は、お義父さんの台詞として語られます。


更に、すずと徑子の和解のシーンは終戦後に配置されているのですが、
「自分で決めんさい。いつ出ていってもええ、ここがほんまに嫌になったらね」
の直後に、すずが家族を探しに原爆投下後の広島に行ってしまうので、ニュアンスが変わってしまっているのです。

ここは最悪の改変といえます。何故原作通りの構成にしなかったのでしょうか(でも合成は決まってるなあ)。


また、最後に周作から(リンさんよりすずさんの方が昔からの思い人だったということを明かす必要上)、人攫いのカゴに入っていたという幼少期の記憶が、実はおじさんの荷車に乗っていただけだったことが語られます。

これははっきりいってダサい改変です! 視聴者に自由に想像させる漫画版の素晴らしさを今一度思い返してしまいます。というか、このドラマ版はすずが絵を描くことで「世界」を変えるということを、全く信じていないのです。



……そんなわけで、素晴らしいアニメ映画版が出来た今となっては、関係者全員が黒歴史にしたいだろうドラマ版ですが、今だからこそ気づく点もあります。


ドラマ版は、傑作漫画の映像化ではなく、お盆休みに放送される戦争ものドラマや、NHKの朝の連続ドラマ小説みたいなものとして受け止めれば、それほど悪くない出来なのですよ。


もっといえば、男性や兵士ではなく女性や主婦の視点で、戦場の戦闘行為ではなく家庭での日常描写の積み重ねを通して、「戦争」を描くというのは、NHKの朝の連続ドラマの得意技だったわけです。


そう考えると、原作漫画も、映画版『この世界の片隅に』も、方向性としてはそれほど新しいことをやってるわけではないのです。
ただ、漫画や映画における表現としてのクオリティが圧倒的に高く、それをやりきるというのが凄かったということなのでしょう。
勿論、ある程度のカネをかけられるけれどもタイトなスケジュールで作らなくてはならないテレビドラマと、たとえカネが無かったとしても準備期間としてかなりの時間をかけられるアニメ(だけじゃないけど)映画を比べるのは酷だというのは重々承知の上なのですが、アニメ映画版を観た上でテレビドラマ版を観ると、前者は本当に傑作なのだなと改めて感じ入ってしまいます。


もっといえば、準備期間に数年を確保し、ティム・バートンギレルモ・デル・トロのような現実と幻想を地続きで描ける人材が監督して、CGや特殊効果を用いて戦時下の現実とすずさんの絵や幻想とを(『ビッグ・フィッシュ』や『パンズ・ラビリンス』やちょっと前に公開された『ブリューゲルの動く絵』のような形で)境目無く描くことができるのならば、アニメ映画版と並び立つ実写作品ができるのかもしれませんが、今の日本のテレビ界にも映画界にもそれをやる余裕はないのかもしれません。