怪物か岡田有希子か:『DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』

『DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』鑑賞。
AKBのドキュメンタリー映画シリーズ第三弾である本作は、なんとアイドルの恋愛と卒業と成長がテーマだった。峯岸みなみの坊主騒動が本作のプロモーションなんじゃないかと邪推してしまうタイミングの良さだ。


自分はAKBにそれほど詳しいわけではなくて、未だにメンバーの顔と名前が一致しない中途半端な知識しかもちえない「素人」だ。それでも本作が単純に画面に映っているものとは別の意味を浮かび上がらせようとする挑戦作であるのは分かる。
映画の冒頭からして凄い。恋愛禁止の掟を破って謝罪するメンバー。「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と10代の女の子が馴れない敬語で謝罪する対象は、顔の見えない「世間」だ。なんとも現代的な風景だ。
それを舞台袖で壁にもたれながらみつめる峰岸みなみや指原莉乃といった上位メンバーがまた格好良い。「みてらんない」と楽屋に引っ込む者もいれば、いつまでも食い入るようにみつめる者もいる。本作のテーマを説明すると同時に、伏線ともなっている名シーンだ。
その後もドキュメンタリーとしての密度は充実の一言だ。総選挙での勝者と敗者の比較、頂点を極めた後に卒業するメンバーと志半ばに脱退するメンバーとの比較、アイドルが歌う歌詞によるテーマの説明*1。一番唸ったのは、アイドルが号泣するさまをシーンの終わりに持ってくることで、それまでの言動が虚勢であることを示す編集だ。やはり、このシリーズの眼目は、普段は「メディア」や「マス」に向けて喋ったり歌ったりMCしたりしているアイドルの内面が見える(ように思える)とこなのだろう。
で、それが残酷ショーにみえたり、日本社会の縮図にみえたりするところが、この映画の最大の魅力だ。自分のとって、という意味だが、皆にとってもそうなのではなかろうか?


どうみたってAKBというシステムはブラック企業そのものだ。一旦メンバーになれば、アイドルという仕事のために全てを捧げることを要求される。常に他のメンバーと競争させられ、気を抜けば後輩に追い抜かれる。ちょっと注目を集めるとネットで理不尽な批判や悪口を書き込まれる。チームの改変や移籍といった人事を拒否するには「卒業」するしかない。二十何人いた一期メンバーが6人しか残らず、そしてその6人が強い絆とモチベーションで結ばれているなんてさまは、新店舗立ち上げ時のスタッフはほとんど退社してしまったけれども、僅かに残った店長まわりのスタッフは異様に仲が良いブラック居酒屋みたいじゃないか。
勿論、AKBとブラック企業を単純に同列で語れないことは分かっている。映画の終盤、高橋みなみ篠田麻里子松井珠理奈が恋愛禁止について語る内容は、早い話「アイドルだったら全てを仕事に捧げるなんて当たり前」「恋愛禁止なんて百も承知」という凄まじいまでの覚悟だったりする。リスク覚悟で敢えて飛び込んだ芸能界と、生活のために過酷と分かっていても働かざるを得ないブラック企業とは違う、ということだ。
しかし、それをいうなら、十代の少女、というか子供が、たとえ芸能界とはいえこれだけのプレッシャーを受けて良いのかどうか、という話になる。そして、その残酷ショーをテレビやネットや映画という形で商品にする運営はどうなのか? それらを観賞し、興奮し、勃起するおれたちはどうなのか? 犯罪人の公開処刑や剣闘士による模擬戦争をみて興奮するローマ市民と、恋愛禁止の掟を破って涙ながらに謝罪したり総選挙で一喜一憂するAKBをみて興奮するおれたちはどう違うのか? 少数の不幸を礎にして多数の幸福を生み出すシステムに勃起しているだけなんじゃないか? という話になるだろう。


ここで自分がどうしても連想してしまうのは、あるべきアイドルアニメについて語った高遠るい先生の言葉だったりする。

部活感覚というか、日常との地続き感。そんな理解や共感が可能な世界観で、理解や共感が可能な女の子を描写されても勃ちません。何なんだろうな、アイドル物ってのは「人間が、足を踏み入れた彼岸の怪物に一度食い殺されて、自らも得体の知れない怪物として生まれ変わる話」じゃなきゃいけないんだ、という話だ。

いいえ違うよ 気持ち悪い - 高遠るいの日記


高遠先生が言っているのはあくまでアイドルアニメについてなのだが、自分はどうしてもこれを現実のアイドルに当て嵌めてしまうのだ。
つまり、こういうことだ。
子供が大人になる道として――少女たちが社会に出る道として、アイドルという職業を選ぶ。子供の世界が此岸とすれば、そこは彼岸の世界――人外魔境で地底獣国で得体の知れない「怪物」がうようよしてる、子供たちがそれまでの人生で一度だって経験したことのない未知の世界だ。
そこで子供たちは一度「怪物」に食われる。しかし、一部の子供は「怪物」の腹の中で自らを同じ(或いは別の)「怪物」へと変化させることで生き延び、遂には「怪物」の腹を食い破って生き延びる。子供が、「怪物」に食い殺されることで、「怪物」に生まれ変わる――それが、少女がアイドルになるってことなんじゃなかろうか。
なんとも理不尽で残酷で奇形的な成長物語だ。だが、ゼロ年代や10年代というのは理不尽で残酷で奇形的な時代なので仕方が無い。「怪物」がうようよする世界で生き延びるためには、自らも「怪物」に生まれ変わるしかないのだ。
そう考えると、「寝るやつは帰れ」と激を飛ばす高橋みなみも、きっぱりと恋愛を否定する篠田麻里子松井珠理奈も、「変な話だけど私を上手く使って欲しい」とHKT48の後輩との間に漂う微妙な空気を必死の明るさで突破しようと模索する指原莉乃も、全員「怪物」にみえてくる。当然、年上で各上の新メンバーとチームを組むという嫌な状況になんとか上手く折り合いをつけようとする村重杏奈も、一度恋愛問題で解雇されても再びオーディションを受けてAKBに再度加入する菊地彩香も、目標とする先輩を問われて卒業した前田敦子の名前を出さない若手たちも、全員「怪物」に思えてくる。
そして、おれたちは「怪物」だからこそ興奮し、勃起するのだ。「怪物」は「怪物」であるからこそ、愛おしく、美しい。容姿ではなく存在そのものが、だ。山形浩生いうところのちんころアイドルにいい年こいて入れ込んでしまう。これがAKBというシステムが持つ最大の魅力ではなかろうかとさえ思えてくる。
一方で、こうも思う。「怪物」に生まれ変われた少女は良い。彼女達は自らを強くすることで淘汰を免れた勝者だ。脱退した平嶋夏海城恵理子にカメラが向ける視線は暖かい。AKBというシステムで敗者になっても、人生という長いゲームで彼女達の身につけたバイタリティやタフネスさやとにかく前に進もうとする意志は最強の武器になるだろう。
でも、「怪物」の腹の中で苦しみ悶えながら死んでいく敗者もいるのではなかろうか。


たとえば、総選挙のシーン。大島優子渡辺麻友柏木由紀指原莉乃といった勝者と比較して、敗者の象徴として描かれるのは、ギリギリで選抜メンバーに入れなかった高城亜樹や、劇場公演デビュー前からメディアで活躍していた筈なのに圏外になってしまった光宗薫だ。彼女達の内面は涙や床に倒れこんでの号泣といった形で表現される。
高城亜樹の物語はJKT48への移籍という形で回収される。チーム組閣の際、泣いたり動揺したりするメンバーを尻目に、高城亜樹は少しだけ微笑む(ようにみえる)。なんだかぞくぞくする。底知れぬバイタリティを感じる。もしかして彼女は将来、JKT48の田舎娘を全員配下に従え、AKB48最大の敵として帰ってくるのではないか? 王の帰還ならぬ女王の帰還だ。そんな妄想までしてしまう。
しかし、光宗薫の物語は回収されない。現実から素材を取捨選択することで物語を紡ぐドキュメンタリーとして不自然だ。光宗薫のインタビューがあるべきだが、きっとそんなこと作り手は百も承知だろう。インタビュー自体が無理だったのだ。
ネットを検索すれば光宗薫の体調不良や活動辞退といった言葉に行き当たる。自分はどうしても岡田有希子を連想してしまう。「怪物」になりきれず、本当に命を失う者が出た時、きっとその時がAKBというシステムが崩壊する時だ。同時に、おれたちが勃起したちんこを握り締めながら後味の悪さにゲロを吐く時でもある。冒頭の号泣する男性スタッフの姿が、運営側の懺悔にも思えてくる。


彼女達がこれほどまでにアイドルという仕事に全てを捧げる理由は何なのだろうか。
DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る スペシャル・エディション(2枚組) [DVD]
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前作『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on少女たちは傷つきながら、夢を見る』では「東日本大震災」という一つの言い訳があった。大地震で傷ついた日本を救うには「国民的アイドル」の座にあるAKBしかいない、だから頑張る、という理屈だ。
しかし今作では、被災地でのミニライブや握手会のシーンは無い。夏の暑さやコンサートの過酷さやスケジュールのハードさで倒れる姿も無い。意図的に入れてないのだ。今回彼女たちが倒れて動けなく理由は、肉体的疲労ではなく、辞めてゆく仲間への割り切れなさやチームが無くなる理不尽さや敗者としての葛藤といった精神的疲労だ。
一応、本作でも「理由」は用意されている。それは「センター」という目標だ。前田敦子が卒業し、空白となった「センター」を皆が求めたり、求めなかったり、「センター」の意義について問う物語……そういった、一応は綺麗な形で映画は終わる。なんだかんだで、今回も良いものをみたな、などと思う。
しかし、本当にそれだけなのだろうか。


最早映画の感想とは全く関係ないが、続けてみる。
自ら髪を切り、異形の姿となった峰岸みなみは「怪物」そのものだ。いや、もしかすると「怪物」以上の存在かもしれない。
あと二ヶ月映画の公開が後だったら、映画はこの「丸刈り事件」も取り込んでいたことだろう。そして自分は、坊主姿になって涙ながらに謝罪する峰岸みなみの姿に、前作における、限界を越えてまで笑顔でい続ける前田敦子や、テンパリながら倒れる大島優子といった、作り手の意図を越えた何かを感じたのではないかと思うのだ。
自分は以前、「親に仕送りしてる人間だけが河本準一に石を投げなさい。貧しい学生を助けようと事業を立ち上げた者のみがStudygiftに石を投げなさい。他人に物乞いしたことのない人間のみが坂口綾優に石を投げなさい。私は最後だけ投げます。」とTwitterで書いたことがある。
しかし、「あなたたちの中で姦通の罪を犯したことのない者が、峯岸みなみに石を投げなさい」と言ったら、全員石を投げるところ、そして運営側も当のAKBメンバーすらもそれを当然のものと思い込んでいるところに、この問題――「怪物」と岡田有希子問題の本質があるんじゃなかろうか。実際にイエスの言に従って石を投げることがどれほど恥ずかしいことであるかを、認識していないんじゃなかろうか。


そう考えるとコンバットRECが提案した「一回恋愛を解禁してみる」という実験は意義があるんじゃなかろうか。恋愛を解禁しても、恋愛するメンバーもいればしないメンバーもいる。恋愛しても順位が落ちないメンバーもいれば、恋愛しなくても下位のままでいるメンバーがいる。そのような多様性こそ力である――という考えだ。


そうそう、自分が本作で一番笑ったのは、「ジョセフ・カーンです」なんて冗談を言いながらサプライズで握手会に姿を現すも、「剥がし」と呼ばれるスタッフに関係者だと認識して貰えず、早々にブースから追い出される樋口真嗣の姿だったりする。やっぱり樋口真嗣はおれたちの仲間だな!

*1:「アイドルだって恋愛するの」なんて歌詞をよく歌わせる