映画とは何か:『金正日』鑑賞記その2

前回の続きです)
照明が落とされる。いよいよ上映だ。こんなにも期待感に溢れながら、映画がスクリーンに映されるその瞬間を待つのは久しぶりだ。
が、何か様子がおかしい。目の前には二人のおっさんが映っている。片方はメガネをかけている。片方はかけてない。メガネのおっさんは相手を「父さん」と呼び、かけてないおっさんはメガネを「じょんいる」と呼んでいるのだ。しかも、背景は土壁だ。どうやらこの二人を金正日金日成と理解してくれということらしい。話している言葉は日本語で、どうかと思うくらいの棒読み。棒読み故のヘンなアクセントが訛りっぽく聞こえないこともない。ハリウッド映画におけるロシア人みたいなものだ。


同じカットで延々と続く二人の会話シーンに耐え切れなくなった頃、とんでもないことが起こった。メガネをかけてないおっさん――金日成が激高のあまり死んだのだ。対立した立場に立っていた金正日はニヤつく。しかし、なんということだろう、その金正日も部屋に押し入ってきた軍人に銃殺された。


つまり、これが映画の冒頭部だったわけだ。指導者とその後継者を失った北朝鮮は替え玉を立てる。一方、旧知の仲間から拉致被害者が生きているという情報を入手した元CIAの日系工作員ミスターワタナベは、在日系の自衛官を集め、密かにコマンド部隊を結成する。目的は北朝鮮への潜入、そして拉致被害者の奪還だ。
シルミド』ばりの訓練を受け、『エクスペンダブルズ』ばりに北朝鮮に潜入するコマンド部隊。拉致被害者が囚われているホテルでの『特攻大作戦』のような銃撃戦。『レマゲン鉄橋』や『北国の帝王』を思わせる列車アクション。『ナショナル・トレジャー』も裸足で逃げ出す陰謀論ジョン・ウーばりの漢たちの友情と裏切り。……そう、『金正日』は血沸き肉踊るアクション映画だったのだ!


おそらく、拉致被害者に「私たちを見捨てた日本になど、いまさら帰りたくもありません」といわせることこそ監督の目的たるアイロニーがあるのだろう。しかし、注目してしまうのはそこではない。
57歳にしてロケット花火が出るマシンガンを乱射し、列車の屋根をひた走る渡辺文樹北朝鮮兵士に成りすましてピンチを脱しようとするも、兵士にしては年寄りすぎると怪しまれた際、「こいつは教え子に手をつけて再教育施設に送られたから年をとってるんです」と、さりげなく自虐ギャグを入れる文樹。若き自衛官たちを演じるのは、主に母校である福岡大学の学生たちだ。彼らを引き連れるミスター・ワタナベは、OBとして学生たちに「映画とは何か」を教える渡辺文樹の姿にそのまま重なる。


確かにクオリティは低い。カットごとに露出が違うばかりか、カットの繋ぎが意味不明だったりする。台詞はところどころ聞きとれない。完全にそこらへんのおっさんな金正日や、完全にそこらへんのおばさんな横田めぐみには開いた口が塞がらない。金正雲はまるで平成ライダーの主人公みたいな兄ちゃんで、その兄ちゃんが横田めぐみに「先生!」と話しかけるシーンには呆然とする。戦闘機のパイロットを黒いバイクのヘルメットで描写するシーンは爆笑だ。しかし、そこには意外に本格的なアクション描写と相まった、渡辺文樹の本気が確かにある。シネコンで流されているお仕事で一丁作りました的な映画とは対照的な、エクストリームな何かが。



上映後、ホールを出ようとしたら、先ほどみかけた文樹の娘らしき幼女がドアを必死に押さえていた。妻らしき女性はDVDやパンフレットを販売している。まさに全身興行師。思わず買ってしまう。女性が「ありがとうございます。ありがとうございます」と言いながら販売用のDVDを机の下のダンボールから取り出す間、横にいたもう一人の幼い子供がおにぎりのサランラップを剥いてくれと訴えていた。

区民会館を出ると、丁度日が暮れる直前だった。千歳烏山駅の改札に向かうべく、夕暮れ時の商店街を歩く。千歳烏山を訪れたのは初めての筈なのだが、以前もこの商店街を歩いたような気がする。それも、同じような夕暮れ時の中、同じような映画を観た帰り路に。



どでかいスーパーの横にあるシネコンや、おしゃれなビルの地下にある単館系映画館でかかってるような映画が映画の全てだと思い込んでいるような人間にとって、渡辺文樹の映画は衝撃的だ。文樹の映画には映画でしか表現できない何かがある。ヘンリー・ダーガーについて語るとき、絵画とは何かについて考えざるをえないように、伊勢田勝行について語るとき、アニメとは何かについて考えざるをえないように、渡辺文樹について語るとき、映画とは何かについて考えざるをえない。これはクセになる。
噂によると、渡辺文樹の次回作は福島原発がテーマだという。福島県に生まれ、福島県に住んでいる監督にとって当然の題材だ。期待大だ。