もういない女の居場所:「あんにょん由美香」

 「あんにょん由美香」を観た。
 松江哲明の作品を観るのはこれが初めてだったのだが、何故松江哲明があちこちから期待され絶賛されているか、凄くよく分かった。現在、「劇映画」と「ドキュメンタリー」、「一般映画」と「ピンク映画」や「AV」、組み合わせは色々あるが、それらは全く違うジャンルに属すると考えられている。松江哲明はその壁を易々と飛び越える、inter-disciplineな作家なのだな。


 私は大学時代にレンタルビデオ屋でバイトしていて、最後の方にはAVの発注まで担当していた。年間300本は観たと思うのだが、AV女優やピンク女優としての林由美香のことが、あまり好きではなかった。単純に好みのタイプで無かったというのもあるし、林由美香がAV女優として盛りを過ぎていた、というのもある。AVコーナーの片隅に数本残っていた主演作の中の彼女は、いかにもな80年代的ルックスで、積極的にレンタルして、観て、彼女をネタにオナニーしたいとは思えなかった。


 そうだ、オナニーだ。つまり私にとってのAVとはオナニーのネタとしての存在で、サプリメント的なエロで、それ以上でもそれ以下でも無かった。カンパニー松尾による私小説的な一連のAV作品群は、初めて観たときは面白いと思ったものの、次第にインタビューを飛ばすようになり、ついにはレンタルすらしなくなった。


 でもさ、この映画を観ると、カンパニー松尾平野勝之いまおかしんじといった監督が、林由美香という女優のどこに魅力を感じていて、どういう所を愛していたかが、それなりに分かるんだよね。それはやはり、松江哲明という映画監督の力だろう。
 この映画において、松江哲明は生きている林由美香の映像を自分で撮らない。出てくるのは林由美香がプライベートで撮った写真、或いは他の監督が撮った映像のみだ。しかも、ご丁寧にも単なる引用ではなく、テレビモニターに写した映像を更にカメラで撮ったりしている。その意図は明らかだ。
 無くなった人間の映像を撮れない、という物理的理由もあろう。しかし、一番の理由は、「女優、林由美香」や「人間、林由美香」が撮りたいからじゃなくて、「おれたちが好きだった林由美香」が撮りたいからだと思う。



 例えばさ、Aという男がBという女を好きになったと、愛したり恋したりしたとする。この時、「好き」とか「愛」とか「恋」とかいった感情は何処にあるのか。
 人によってはAとBの間と答えるかもしれない。つまり、人と人の関係性の間に「好き」とか「愛」とか「恋」は存在するのだと。ただ、それは非常に幸運な場合だけだ。
 幸運でない時、つまり私や君達のような多くの男が恋する時、それらはどこに存在するのか。まさかBという女の中ではないだろう。しからば消去法で、それらはAという男の頭の中に存在すると考える他無い。
 つまり、我々は目の前の女を好きになったり愛したり恋したりするのではなく、目の前の女Bを成り立たせる諸要素から好みのもののみを取り出して、自分の心の中に再構成された女B’に恋するのだ。


 無論、これは映画監督が女優を撮る場合も同じだ。この場合、自分の中の勝手な虚像をファインダーに収め、フィルムに定着させ、スクリーンに映し出すいう行為に、自覚的である必要がある。林由美香がこの世にはいないという事実が、それを増幅させる。だから、カンパニー松尾平野勝之いまおかしんじ林由美香について語るとき、屈折している。あれほど皆が哂いものにした「東京の人妻 純子」を撮ったユ・ジンソン監督でさえ、「私達は撮影中、林さんのことを”純子”と呼んでました。だからこのインタビューでも”純子”と呼びましょう」などと言う。彼らが語るのは「おれの好きだった林由美香」だ。


 だが、松江哲明が撮るのは「おれたちが好きな林由美香」だ。それは「映画の中の林由美香」でもある。だからラスト、松江哲明があのような働きかけをし、「おれたちが好きな林由美香」が「おれたちが好きな映画」に接続するのを、本当に自然で当たり前なこととして感じた。その時この映画は、「劇映画」と「ドキュメンタリー」とか、「一般映画」と「ピンク映画」とかいった境界を飛び越えるのだ。


 いや、飛び越えるのは映画ではなく、観客であるおれたちかもしれない。おれたちは映画が大好きだ。