私が村上春樹について語れるニ、三の事柄

 村上春樹エルサレム賞受賞時のスピーチのことなのだが、驚いた。スピーチ前の「自分の目で見ようと決意した」という言葉を聞いた時には、普段政治的な発言を全くしない村上春樹のことだから、お茶を濁したようなスピーチでもするのかなぁと思っていたのだ。まさか、空爆を命じたペレス首相の眼前でこんなスピーチをするとは思わなかった。単に受賞を辞退するよりもパフォーマンスとして遙かに高級で、ああいう、筒井康隆とかポール・バーホーベンみたいなことを村上春樹がやるとは思わなかったな。彼は日本人の誇りだよ。ブログやミクシィを読むと、同じく世界から注目される出来事ってことでよく中川(酒)財務相が引き合いに出されているのだが、人間の価値ってのは肩書きでも血筋でも年収でもなくて、こういうところで決まるのだと痛感したよ。

Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us: we made the System.
That is all I have to say to you.

 ちょっと考えてみて下さい。私達はそれぞれ、実体ある生きた命を持っています。システムにそんなものはありません。システムが私達を搾取するのを許してはいけません。システムがそれ自身の命を持つのを許してはいけません。システムが私達を作ったのではないです。私達がシステムを作ったのです。

http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html

 こういう箇所だけ抜き出すと、「すわ!最近の村上春樹のテーマはフーコー的生権力か!!!」などという感想を私などは抱いてしまうのだけれど、こういう誰もが若干異なる感想を抱くように「壁と卵」みたいな曖昧なレトリックを多用するところがいかにも村上春樹的な、良いスピーチだと思う。作品というものが作者と読者の間に存在すると考える立場においてそれは当然の振る舞いだろ思うのだが、今回もこの”The System”が何を表すのか、イスラエル政府なのか、ハマスなのか、民主国家が構造的に生み出してしまう暴力装置なのか、現実を記号や物語として単純化する時に発生する(或いは失う)何かなのか、それとも別の何かなのか、喧々囂々だ。英語なのにいつもの村上春樹的な要素を失っていない所が、本当に村上春樹的だと思う。


 しかも、村上春樹ファンは彼がこういうスピーチを行うことを予期していたようだ。

受賞者には、バートランド・ラッセルボルヘスオクタビオ・パスJ・M・クッツェーアーサー・ミラーら著名な名前が連なる。日本の作家として初めての受賞は、めでたいはずだが、思い浮かんだのは「壁」である。
 村上さんの長編小説「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」には、「高さは七メートル、街のぐるりをとり囲んでいる」壁が出てくる。越せるのは鳥だけで、門しか出入り口がなく、外の世界へ行く自由がない。

http://book.asahi.com/clip/TKY200902100087.html

 これなどはスピーチ前である2/10付の記事なのだが、なるほどなーと思った。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
村上 春樹
4103534176


 しかもしかも興味深いことに、今回のスピーチについてネット上にて翻訳が多数アップされているのだが、驚くべきことにどの翻訳でもニュアンスがそれほど変化していない。


村上春樹のエルサレム賞 受賞スピーチ ハルキ風和訳 - 山中だらけ/山中温泉余話


壁と卵(つづき) - 内田樹の研究室


村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳: 極東ブログ


村上春樹: 常に卵の側に


 これは驚くべきことだと思うのだが、ただ、一つ問題があるとすれば、私は村上春樹のあまり良い読者じゃなかったってことだな。あまり好きじゃない、といって良い。高校の頃、その時の代表作であった「ノルウェイの森」を数ページ読んで、「気持ち悪い!」と放り投げた記憶から、嫌いであるといいきっても良い。


 私が村上春樹に感じる嫌悪感が生じる理路について説明しよう。


 例えば、以下のような有名な一文がある。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きてゆくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうのウィスキーになることがある。そして僕らは----少なくとも僕はということだけれど---いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)
村上 春樹
4101001510


 これはウイスキーをテーマとしてスコットランドアイルランドをめぐった紀行文の前書きであるのだが、その出自はとりあえず横に置いておきたい。
 ここで注目したいのは「ウィスキー」という単語だ。この文章においては、「ウィスキー」という単語が「ウィスキー」である必然性が、(この文章はウイスキーをテーマにした紀行文の前書きであるという理由以外に)ない。「ウィスキー」を「日本酒」や「ワイン」や「焼酎」や「ウォッカ」に置き換えても、充分意味は通じるし、村上春樹が表現したいことのニュアンスも変化しない。
でもさ、ここで「ウィスキー」を「日本酒」や「ワイン」や「焼酎」や「ウォッカ」に置き換えるとニュアンスが多少なりとも変化することこそが、「文学」や「ブンガク」の面白さだと思うのだ。もし「ウイスキー」を「コカ・コーラ」や「ペプシ」や「コカ・コーラ ライト」や「コカ・コーラ ゼロ」や「ペプシネックス」や「コカ・コーラ プラスビタミン」に置き換えることで発生するニュアンスの差異こそが文章の面白さだと考えるのだ。
 で、ここで敢えて「ウィスキー」を選択する村上春樹のセンスがイヤーン!ということなんだな。なんだか、クリスマスにはイタリア料理店で食事をしてホテルを予約してセックスするバブリーな80年代おもしろ主義な連中のセンス、という感じがする。勿論、村上春樹がクリスマスにはイタリア料理店で食事をしてホテルを予約してセックスする人物だとは思わないけれども、そういう人達に読まれている(読まれていた)作家であることは間違いないだろう。


 そういう意味では80年代のバブル期から今の今まで村上春樹が嫌いなのではなく、村上春樹を愛読し、心酔してるような人が嫌いなのだな、正確には。


 村上春樹の作風と文体にアメリカ翻訳小説の影響があるのは万人が認めるところであると思うのだが、私は、そういうところが好きになれないのだな。つまり、我々はウイスキーを飲んだりパスタやラムチョップを喰ったりするのと同じ数だけ焼酎お湯割り梅干入りを飲んだりラーメン二郎や卵かけごはんを喰ったりしてるわけで、それならウイスキーやパスタやラムチョップと同じ数だけ焼酎お湯割り梅干入りやラーメン二郎や卵かけごはんが登場してくるべきだと思うのだ。
 そういう、生活に根ざしたどうしようもない泥臭さとか、我々が人間であるかぎり死ぬまでついてまわる絶望的な情けなさとか、何度掃除を重ねてもトイレや洗面所の隅々に溜まる黒汚い澱状の汚れみたいなものが、村上春樹には無い。村上春樹の小説に登場する人物は、セックスはしてもオナニーはしないのではなかろうか。白いブリーフの裏に走る一条のウンすじや、三日三晩下着を交換しなかった後にちんことタマキンの間から立ち昇ってくるえもいわれぬ香りについて描写したりすることなどないのではなかろうか(前述の通りそんなに読んでいるわけではないので、もしそういうのが作品内に既にでてきていたら御免なさい)。



……いや、違うな。どんな小説が世にあろうと自由なわけだ。私の好き嫌いと文学的な優劣は別の尺度だ。「べきだ」というよりはそういう小説が私の好みであり、中途半端にアメリカナイズされた作風が好みではなかった。


 その昔、吉本隆明は娘である吉本ばななの小説を「マクドナルドのハンバーガー」と評した。その評には、マクドナルドのハンバーガーを買って食べるような気楽さで感動出来るとか、世界中のどこの国の人でもその国用にマイナーチェンジしたハンバーガーを食べられてそれなりの満足感があるように、世界中のどの国の人でもその国の言語に翻訳された小説を読めば同じニュアンスでそれなりに感動できるとか、いろいろな意味があるのだが、この評にふさわしいのは吉本ばななよりも村上春樹であると思う。


 そうだ。アメリカナイズだ。現在のアメリカナイズってことは、グローバライズってことで、村上春樹の作品が優れていて、翻訳してもニュアンスが変わらなくて、世界中の人々が賞賛を惜しまない点はここにある。


 多分、アメリカ人は翻訳された村上春樹の文章を読んでも私の感じるような80年代的バタ臭さを感じないだろうし、それで嫌悪感を抱いたりしないだろう。アメリカ人だけでなく、エルサレム賞を贈ったイスラエルユダヤ人も、フランツ・カフカ賞を贈ったチェコ人も、ノーベル文学賞の審査員も、日本人のアンチ村上春樹のような人種が感じる余計な嫌悪感を抱かないだろう。


 例えば上に引用した文章における「ウィスキー」というのはスコットランドアイルランドという土地で、階級社会の下層にいる人間が複雑な民族意識や激しい怒りと共に麦芽を糖化して発酵させ蒸留した酒ではなく、世界中のコンビニやスーパーマーケットで金を出せば購入できる飲めば酔える強い酒、という意味にもとれる(この後に続く紀行文本文は違うよ)。


 よく比較として引き合いに出される村上龍がディティールにこだわるのに対し、村上春樹の小説は構造だけだと評される理由は多分この点で、そして私は村上龍が大好きなのだが、そこいら辺に私が村上春樹のいい読者で無かった理由があるに違いない。
 まずは村上春樹の大ファンである嫁から最も私の好みにあいそうな「アンダーグラウンド」を借りるところから始めてみようと思うのだが、最大の問題は、私は村上春樹が嫌いなのではなくて村上春樹のファンが嫌いなのだと先ほど判明したことだ。
アンダーグラウンド (講談社文庫)
村上 春樹
4062639971


 嗚呼、もし村上春樹の英語訳を伊藤典夫浅倉久志大森望が邦訳すれば、私がすんなり読めるような文体になるのだろうか。そういう、逆輸入みたいな形になってもニュアンスが失われないところが村上春樹の長所でもあり、嫌いな点でもある、という話ですた。