ゴジラと柔道:『GODZILLA ゴジラ』

前回のニコ生放送がニコ動やyoutubeにアップされました。


いつもながら、放送中は調子に乗って話しているのですが、後から放送を見直すと記憶違いや話忘れに気付き、落ち込んだりもします。


で、ちょっと放送では話しきれなかったギャレス版『GODZILLA ゴジラ』について記しておきます。


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1954年版『ゴジラ』は日本初の怪獣特撮映画です。戦争や原水爆への恐怖や当時の政治状況のパロディといった真面目な批判精神と、鉄塔を溶かし国会議事堂を破壊する、圧倒的な暴力を右から左に投げ散らかす怪獣映画としての魅力が両立していました。どちらか片方だけだったら、これほど人々の記憶に残るような映画にはならなかったでしょうし、これほど沢山の続編が作られることも無かったでしょう。
しかし、『ゴジラの逆襲』以降、現実にある状況に対する批判精神や暴力の恐怖は急激に薄れていきました。ゴジラの足跡から放射性物質が検出されることはなくなりましたし、ゴジラ東海村若狭湾や井浜原子力発電所という名の浜岡原発を襲っても放射能が漏れることはありませんでした。年末年始に家族が堪能する大作映画としての役割を背負わされたゴジラ映画では、もはや子供にガイガーカウンターを向けるような描写はできなくなってしまったのです。『ゴジラ対ヘドラ』や『GMK大怪獣総攻撃』といった少数の例外を除いて、リスクをとって観客の心を抉るような描写はゴジラ映画からなくなってゆきました。
一方、子供が積み木をひっくり返すように勝鬨橋をゴロリと転がしたり、一般大衆がどんなにデモしても傷一つつけられない国会議事堂をいとも簡単に破壊するような「暴力の魅力」は常にゴジラシリーズと共にありました。人類が敵わない宇宙人や宇宙怪獣をゴジラが倒し、大衆が傷一つつけられない高度経済成長やバブル経済が生んだ高層建築や陸海空を駆ける乗り物をゴジラが破壊する――そういったシーンには、圧倒的な暴力を右から左に投げ散らかす怪獣映画特有の魅力がたっぷり詰まっていました。
同時に、ゴジラは空を飛んだりテレパシーで人間と会話したりシェーをしたり人間の味方になった後また敵に戻ったりと、時代時代に合わせて姿を変えていきました。それは、カードや携帯電話やUSBメモリで変身するようになった平成ライダーと同じく、ポップスターとして生き延びていくには当然の戦略だったのですが、無節操に時代と寝ても本質的な魅力を失わなかった(ようにみえた)のは、「暴力の魅力」がきちんと内包されていたからでしょう。「セックス」「ドラッグ」「バイオレンス」の三要素のうち一つでも時代に合わせた形で圧倒的に表現できれば、ポップスターになれるのです。


時は流れて2014年、ギャレス版『GODZILL』の予告編が公開された時、1954年版の初代『ゴジラ』がようやく帰ってくるのだと期待したのは自分だけではないでしょう。なにしろ、富士山の麓にいかにもアメリカンな冷却塔を備えた原発の町があり、それが怪獣のせいで事故をおこしたようにみえたのですから。1954年版『ゴジラ』は第五福竜丸被爆事件に着想をえたことから誕生しました。2011年以降のゴジラ福島原発事故で誕生するのは当然のごとく当然の流れです。放射性物質を周囲にまき散らかしつつ、無慈悲かつ圧倒的に人間を殺しまくる、戦争や原水爆の象徴としてのゴジラがようやく帰ってくるのだ! そう興奮したものです。



以下ネタバレ



ところが実際に映画を観てみると、原発事故の原因となったのはゴジラではなくムートーという怪獣のせいでした。ムートーは放射線をエネルギーとする怪獣で、原発の燃料を食べ、核兵器に引き寄せられ、人間やゴジラと闘います。ゴジラ原水爆で誕生したのでも戦争の怨霊でもなく、太古から地球に住んでいた生物という設定で、何かに導かれるようにムートーと戦い、最後は人類から「救世主か?」などと評されます。
……そう、ギャレス版『GODZILLA』は1954版初代『ゴジラ』のリメイクやリスペクトやオマージュを捧げた作品というよりも、その後の「東宝チャンピオン祭り」や「平成VSゴジラ」が現代的に復活したような作品だったのです。最後に「特報!」と次作の予告*1が出ないのが不思議なくらいです。


だからといってつまらないわけではありません。封鎖されたジャンジラ市*2は、南国のように植物が生い茂っているのが不自然だったものの、封鎖された福一周辺を連想させてくれました。大暴れするムートーやゴジラが引き起こす津波でドカドカ人が死んでいくさまは東京に上陸した初代ゴジラのせいでドカドカ人が死んでいくさまと同じニュアンスでしたし、怪獣の巨大感や破壊された都市が醸し出す「世界の終わり」感は日本特撮にはなかなか出せないものでした。なによりも、ミサイルはおろか原水爆を使っても殺せない怪獣たちは、前回のハリウッド製ゴジラ――エメリッヒ版ゴジラよりも我々日本人の「怪獣観」に近しいものでした。今回の『GODZILLA』を観て、一番悔しがっているのは大森一樹金子修介なんじゃないでしょうか。


ただ、観ている間も、観た後も、「確かによくできているが、果たしてこれがおれたちの観たかった『ゴジラ』なのだろうか?」という思いが頭をよぎりました。そんな類の違和感を抱いた人は、これまた自分だけではないでしょう。


ムービーモンスターシリーズ ムートー
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自分が抱いた最大の違和感は敵怪獣のムートーです。このムートー、映画の中ではオスとメスの二匹が人間を殺戮しまくり、完全に悪役として描かれているのですが、観ていると、なんだか可哀想になってくるのです。
ムートーは最初から人間に敵意を持っていたわけではありません。エネルギー源である放射性物質を求めて眠っていた場所から出てきたら、たまたま放射性物質で発電したり武器を作ったりしていた人類が台頭していただけです。しかも、奥さんは誘拐されて、ネバダの山奥に監禁されてしまいます。そりゃ、人間を襲わないわけないでしょう。
しかもこのムートー夫婦、なんだか感情豊かです。久しぶりに再会した夫婦は喪われた時間を埋め合わせるかのように頭を擦りあわせます。アメリカ軍の砲撃やゴジラの攻撃を受けたら、嫌がります。そして卵を爆破されたら泣き叫び、怒り狂うのです。


いや、分かってますよ。このシーンのイメージの源泉が『エイリアン2』からの頂きで、一見狂暴なモンスターにも家族愛があることを描くことで、深みを与える演出意図から作られたシーンであることは。ただ、エイリアンは悪魔が作った機械生物みたいなところ*3に魅力があり、こんなに感情豊かで人間臭くなかったわけです。もっといえば、同じく子供を殺されたエメリッヒ版ゴジラも、こんなに人間臭くなかったわけです。卵が爆破されるシーンはちょっとだけ『第9地区』を、イチャイチャするムートー夫婦にはシーゴラスとシーモンスを連想してしまいました。
普通に人間目線でこの映画を観ると、納得できない原発事故の原因を熱心に探るあまりキチガイ扱いされた挙句、息子にも距離をおかれ、やっと怪獣が原因であると掴めたものの、その怪獣に殺されてしまう主人公の父に憐れさを感じるでしょう。一方、ムートー目線で本作を観ると、天敵ゴジラとの殺し合いの最中であるにも関わらず、心配のあまり卵の様子を見に行ってしまったせいで連携に隙ができ、それが原因で結果的に一族皆殺しとなってしまうわけです。ムートーにも哀れさを感じずにはいられません。


もっといえば、本作のムートー夫妻はこれまでのゴジラシリーズでゴジラが背負ってきた役割のうち、幾つかを担っています。「大自然を司る荒ぶる神」「安易な共感を拒否する存在」「怪獣王」といった要素はこれまで通りゴジラに割り振られていますが、「放射線を吸収」し、「恐怖や破壊」を撒き散らしつつ、「どことなく人間臭い」要素があり、「戦争や原水爆の象徴」であるのはムートーの方*4でしょう。


ただしムートーが象徴する戦争は、戦争は戦争でも日本にとっての戦争ではありません。第五福竜丸事件そっくりの光と共に登場し、B29が爆撃したのと同じルートで東京を蹂躙した初代ゴジラが象徴していたのは日本にとっての戦争でした。アメリカが経済的に支配している属国や冷戦時の遺物を収容している核廃棄施設から誕生し、911カトリーナ台風の被害にあった時のように大量の怪我人や避難民を出し、アメリカ人が最も恐れている本土の戦場化を果たしたムートーが象徴するものは、アメリカ人にとっての戦争や災害や核兵器なのです*5


こういった点が「良くできているが、違和を感じる」という鑑賞後の感覚に繋がっているのではないでしょうか。つまりギャレス版『GODZILLA』は、ゴジラゴジラでも、結局のところガイジンにとってのゴジラなのです。


これまでゴジラはコンテンツとして生き延びるために様々なことしていきました。シェーをしたり空を飛んだり人間の味方になったり……その延長線上に「ガイジンのものになる」という選択肢があったのです。前回(エメリッヒ版)は一旦海外に渡ったものの、受け入れ先とも送り出し元とも上手く折り合いがつかず、すぐ戻ってきましたが、今回は違うでしょう。少なくとも今後五、六年間、続編が二作作られるまでは「ガイジンのもの」なままなのではないでしょうか。


これはいわば、柔道で海外勢に金メダルを持っていかれたような状態です。柔道は戦国時代に武器を持たない足軽などの間で行なわれていた格闘術を源流とする日本発祥のスポーツです。しかも「道」とつくことからも分かるように、殺し合いや格闘戦で勝つことではなく、精神修養を目的としています。だから「柔道でガイジンに負けるなんて!」と怒ったり、ガッカリしたり……そんな人がいるのも分かります。


しかし、落ち着いて考えてみましょう。柔道でガイジンが金メダルをとるということは、日本の柔道精神をガイジンが日本人以上に理解したということです。日本の精神*6が外国に広まったという点で、喜ぶべきことなのではないでしょうか。不要な見栄や体面やナショナリズムから金メダルに拘るのは辞めるべきです。


そして、同じことを今回の今回の『GODZILLA』にも感じます。我々は「ゴジラ」の精神がガイジンに受け継がれ、ガイジンが日本人以上に「ゴジラ」を理解したことを喜ぶべきです。


勿論、なかなかオリンピックで金メダルを獲れない日本柔道に不甲斐無さを感じた梶原一騎が『柔道一直線』を描いたように、ギャレス版『GODZILLA』以上に「ゴジラ」の精神を体現した怪獣特撮映画を作り上げるという道も我々日本人には残されています。その道を誰が歩くのか、誰が歩けるのか、という話にもなりますが。

*1:自分が東宝のプロデューサーだったらコミコンでのギャレスの映像に伊福部マーチをつけた予告編をでっちあげますよ

*2:そんな名前の町、日本ではありえませんが、おそらく「ゴジラ」と後ろ二文字を合わせたり、「呉爾羅」の漢字を入れたかったのでしょう

*3:ギーガーいうところのバイオメカノイド

*4:EMPも核爆発時のそれのように思えてきます

*5:ギャレス・エドワーズはイギリス人ですが、本作はアメリカ資本でアメリカを舞台に作った映画です

*6:ミームと言い換えても良いでしょう