最早、我々に残されたのは「愛」と「死」だけだ!:ベンジャミン・バトン 数奇な人生

 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」を観たのだが、面白かった。
 この映画、脚本家が同じということもあって「フォレスト・ガンプ」と比較されて語られていたりもするのだが、大きなところで異なっていると思う。あの映画がフォレストとジェニーの二人に象徴させていたのはアメリカ近代史であったが、本作のベンジャミンとデイジーにとってアメリカ近代史は単なる背景に過ぎないと思う。この二人が象徴しているのは人が生きるということの喜びと悲しみ、みたいなものだろう。「愛」と「死」と言い換えても良い。感動した。だが、この感動には理由があると思う。
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トム・ハンクス, ゲイリー・シニーズ, サリー・フィールド, ロビン・ライト, ロバート・ゼメキス
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 昨年「おくりびと」という映画があった。「死」をテーマにしながらも基本的にコメディで、笑いと泣かせの緩急が良い具合についた、割合良い映画だったのだが、私が巡回する映画評論サイトやブログの評価はパっとしないものばかりだった。曰く「新しい死生観を示せなかった」、曰く「死を商売にすることの難しさが描けていない」、曰く「死体の穢れを映像として描いていない」、曰く「最後の父との絡みがこじつけすぎる」。まぁ、どれも納得できる批評だ。
 しかしこの「おくりびと」、海外では絶賛の嵐だ。モントリオール世界映画祭ではグランプリ受賞。アカデミー賞の外国語映画部門にもノミネート。IMDBでの評価は8.4*1で、”Marvellous”とか”the best movie i have seen”とかいった文言が並んでいる。ちなみにこのIMDB、同じ日本映画で評価の高い「火乗るの墓」は8.2、「ダークナイト」は8.9、得票数が少ない作品は順位*2に反映されないらしいのだが、高評価であることは間違いない。
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 もう一つ例を挙げたい。「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」だ。同じ監督、同じ題材、同じ時期に制作された映画でありながら、日本のシネフィルと呼ばれる人達の多くは「硫黄島からの手紙」よりも「父親達の星条旗」の評価の方が高い。一方、アメリカ人はその逆だ。
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硫黄島からの手紙 [DVD]
クリント・イーストウッド スティーブン・スピルバーグ アイリス・ヤマシタ
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 つまりさ、これは、同じテーマを扱っていても、それを表現する為に使う題材が余りに近すぎると、スノッブ臭さや日常生活の生臭さが気になりすぎて感動できないってことだと思うんだよね。
 具体的に書くと、我々が「おくりびと」を観て感じる、納棺師って今日本に何人いるのかなー?とか、21世紀の首都圏で自宅で葬式やれるほど広い家に住んでる奴って何人いるんだろう?とか、現代日本においては自宅で家族に見守られながら安らかに死ぬ人は少数派であって、病院で苦しみながら死ぬ人の方が圧倒的多数だろうとか、そういった感想を、外国人は抱かないのではなかろうか。モっくんやっぱりホモっぽいなーとか、この映画の撮影中に広末は子どもをどこに預けていたんだろうなーとか、山崎努は最近こういうメンターみたいな役どころばっかりだなー、などという、余計な思いを抱かないのではなかろうか。


 我々が生きているこの世の中というのは、様々な趣味趣向と価値観と世界観を持った人間が生きている世界だ。昔からそうだったのだが、多くの人が価値観の違いを認識しているという意味で、昔とは異なっている。
 そのような世界において万人に共通するもの、それは「愛」と「死」だけと断言してよい(「セックス」と「バイオレンス」と言い換えてもよいかも)。で、その万人にありふれている「愛」と「死」を描く際に、もっともありふれていないカタチで表現することが、感動の本質の一つじゃないかと思うのだ。


 ヒトは、自分達と異なる文化を持つ異なる民族の中にも、同じ「愛」と「死」があるんだ!と実感することの方が、同じ文化、同じ民族の中に同じ「愛」と「死」があると確認することよりも、冷静でいられる分、驚きが多い。客観的でいられる分、感動が大きい。落差が大きい分、大きなセンス・オブ・ワンダーを感じる。外国人にとっての「おくりびと」、日本人にとっての「父親達の星条旗」、アメリカ人にとっての「硫黄島からの手紙」、これらに共通する現象は、そういうことなのではなかろうか。


 ここでやっと「ベンジャミン・バトン」の話になるのだが、この映画は例に挙げた三本の映画が文化や民族の境界を越えることで起こしていた感動を、「老人の体で生まれて成長するに従ってどんどん若返っていく主人公」というガジェットを使って生み出しているのだと考える。
 初めて二本の脚で立ち上がれた歓喜、初めて孤独を共有できる友人を持てた時の嬉しさ、愛しいあの人と秘密を共有した瞬間、アニキに連れられて童貞を捨て去り、初めて酒を飲み酔っ払った一夜の冒険、戦場での友人の死、両親の死、愛する人と出会い、子どもをもうけ、そして老い、全てを忘れて死んでゆく……そういったありふれたことごとの数々を、普通の人が普通にやるさまとして描いても、誰も感動しないわけだ。ありふれていない人がそれを人生の一大事として行い、ありふれた人々の集団である観客が共通項を見出すことで感動するわけだな。


 50代になったデイジーと10代の肉体を持ったベンジャミンがセックスする。若かりし頃、「私の体は完璧と言われたの」と自分のスタイルの良さを自慢していたデイジーも、50代になると背中のブラ紐から肉がこぼれ落ちるくらいのおばさん体型になる。そんなさまも、この映画は容赦なく描写する。そして我々は、そこに人生と男女の機微を感じ、涙する。我々は50代の精神を持った10代の男でも無いし、そのような恋人を持った女でもないが、そういった諸々の境界を越えて、共感し、感動するのだ。


 つまりそれはファンタジーの力であり、レトリックの力であり、寓意の力であり、極言すれば、物語の力なのだろう。