アニメ昼話 ポニョとハヤオを語りたおす! in ロフトプラスワン その1

 連休三日目。ロフトプラスワン切通理作と氷川竜介と竹熊健太郎という「ハヤオ三賢人」が宮崎駿をテーマにトークイベントを行うというのでいってみた。

宮崎駿の〈世界〉 増補決定版 (ちくま文庫 き 25-1)
切通 理作
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 切通理作が「増補決定版 宮崎駿の〈世界〉」を出版したことを記念してのトークショーとのことだったのだが、「宮崎駿作品の魅力はいったい何なのか?」をテーマに「崖の上のポニョ」を中心とした鼎談が繰り広げられることに。
 ちなみに私の「崖の上のポニョ」に対する感想はこちらこちら

 ご存知の通り、この三人は評論家としての出自も立ち位置も違うのだが、4、5時間に渡ってあちこちで化学変化が起きているような、知的な意味で刺激のあるイベントであった。

 以下、いつもながらに自分が面白いと感じた所を中心にメモ。括弧内は私の勝手な感想なのだが、それ以外にも私の勝手な解釈が少なからず入っているのでご注意を。

切通理作宮崎駿

  • 宮崎アニメはなんで面白いのか?宮崎アニメは宮崎駿の作品だけど、それを観ている自分の体験でもある。居酒屋のテレビで放映されている宮崎アニメを観たらついつい最後まで観てしまうような中毒性がある。今日のトークショーでは、その魅力はテーマではなく描写にあるのでは?ということについて議論してみたい。
  • 宮崎駿の〈世界〉」で、宮崎アニメは上下方向に映画的な構造があること、水が精神的な交流の媒介を隠喩する象徴となっていること等について書いたが、「宮崎駿と水」ということについて自分の知る限り最初に着目したのはBSアニメ夜話の「カリオストロの城」の氷川竜介さんだった。そういうわけで今日は氷川さんをお呼びした。
  • 「増補決定版 宮崎駿の〈世界〉」は「宮崎駿の〈世界〉」という新書を書き直したり追記したりしたものだが、「ポップ・カルチャー・クリティーク」に寄せた記事がその原型になっている。だが「魅力はテーマではなく描写」という主題に関して、当時は理解されなかった。

宮崎駿の着地点をさぐる (ポップ・カルチャー・クリティーク)
沢野 雅樹
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  • だが、時代は変わった。宮崎駿は「千と千尋の神隠し」で国民作家になったが、今や一般誌までもが宮崎アニメのレイアウトについて特集する状況だ。今こそ宮崎アニメについてエコロジーとか思想とかではなく、描写レベルでの議論ができるのではいか?
  • そんな中、ブログでポニョの感想として「宮崎アニメって実はヘンなんじゃ?」と書いた*1竹熊さんをお呼びした。

竹熊健太郎宮崎駿

  • 70年代はアニメーターでアニメを観ていた。監督で観るようになったのは80年代から。
  • 画が大塚康生じゃなかったので、「カリオストロの城」には初め興味が無かった。でも、偶然観てみたら、映画としてはもの凄く面白かった。
  • 公開当時、「カリ城」の劇場の入りは一割ほど。場内はシーンとしていた。唯一反応があったのが「妬かない妬かない、このロリコン伯爵」の台詞で、劇場の後ろの方から笑い声が聞こえてきて、振り向くと三人の大きなおともだちがいた(笑)。
  • 宮崎駿のメカデザインは当時から古臭かった。あの頃の流行はガンダムなんかで、宮崎にSFは無理だと思っていた。でも、「カリ城」も「ナウシカ」も面白い。それは演出が凄いということで、映画監督として意識するようになってきた。
  • ラピュタ」製作当時、諸星大二郎のムックを作っていたのだが、諸星の大ファンである宮崎駿にインタビューする機会があった。忙しいので30分とのことだったのだが、結局2時間に渡って「マッドメン」はいかに素晴らしいかという話をしてくれた(笑)。
  • 「マッドメン」作中で巨大な精霊(人型)のコマを指し示し、「こういうのを表現するのは難しい」と語っていたが、後年それが「もののけ姫」に生かされることになろうとは!

(他にも、自然と文明の対立であるとか、王子が王女を迎えにくる話であるとか、色々と共通点を見出せる。手塚治虫は「(僕は誰の絵でも描けるけど、)諸星さんの絵だけは描けない」と星野之宣を交えた鼎談にて冗談めかして発言していたそうだが、その手塚をアニメ製作の点で批判した宮崎駿が諸星を大リスペクトするという構図が興味深い。手塚がとりこぼしたものを、宮崎が積極的に取り込んでいった、みたいな)

マッドメン (1) (創美社コミック文庫 (M-1-1))
諸星 大二郎
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マッドメン (2) (創美社コミック文庫 (M-1-2))
諸星 大二郎
4420250070

  • インタビュー終了後、「ラピュタ」楽しみにしてますと伝えたら「まだ物語の結末を決めてないんですよ」との衝撃事実が。公開まであと三ヶ月しかないのに。
  • で、三ヵ月後に劇場で「ラピュタ」を観たら、「バルス!」でラピュタが壊れるという予想だにしなかった結末で、椅子からコケそうになった*2
  • まず、最初にシータが「バルス!」と唱えれば解決する話だよね(笑)?少なくとも、飛行石を持ちながら言わないと呪文の効果がないとか、そういう設定やら伏線やらを説明したり張っておいたりする必要がある。脚本としてムチャクチャで、映画学校だったら赤点を喰らう。
  • でも、宮崎駿はこのストーリーでやった。脚本や辻褄合わせというものをあんまり重視してないのでは?
  • 宮崎駿の上手さはそれ以外のところにある。たとえば「となりのトトロ」の最初の10分間は引越のシーンで、これからこういう場所を舞台に物語が展開しますよという説明シーンなのだが、10分間の長さに渡って説明シーンが続くのは尋常でない。普通、説明シーンは短くするのだが、でもこれは面白い。新しい環境にワクワクする感じが良く出ている。まっくろくろすけという見せ場もある。説明臭くない説明シーンには皆頭を悩ましているのだが。
  • 千と千尋」でも、オクサレサマみたいなバケモノが風呂に入るシーンをクライマックスに持ってくるという異質さ。普通、このプロットをプロデューサーに話したら駄目出しされる筈。でも、これは逆にいえば宮崎駿が特権的な位置にいるという証明でもある。
  • 宮崎アニメは演出の手本にはなるけれど、シナリオの手本にはならない。知り合いのプロデューサーが「ポニョ」を絶賛していたが、でももしこのシナリオが自分のところに持ち込まれたら企画を通さないと言っていた*3
  • しかし、ポニョは「大ヒット」している。最初劇場にいった時は前三列が開いていて7.5割くらいの入りで、これは「カリ城」以来始めて宮崎アニメがコケたかと思ったが、蓋を開けてみれば公開後三ヶ月過ぎた今でもまだ劇場でやっている。シナリオに問題のある映画が何故これほどまでにヒットするのか?
  • ここいら辺は絶頂期の黒澤明に似ている。たとえば「椿三十郎」のクライマックスはシナリオで「これからの二人の決闘は、とても筆では書けない」とだけ書いてあった。これは脚本に参加した黒澤が自分で監督を務めて、しかも黒澤明だからこそ許されること。
  • ここが宮崎駿との類似点。宮崎も文章にするとつまらなくなるのでいきなりコンテを書いているのだろう。自分も漫画原作を書く時はシナリオではなくネームを書き、それを元に漫画家とディスカッションするという形式をとる。最終的に絵としてのイメージで仕上がるものはそういう過程で作らないと色々と問題がある。

氷川竜介と宮崎駿

  • ポニョの海はおかしい。ここ10年くらい波頭は白、その下は二段階くらいのブルーやグリーンというやり方で海を描いてきた。その技法を使わず、黒の描線で波を描いている。つまり、波がキャラクターになっている。
  • 海は生命の故郷であるからして、根源的なものを描きたいのでは?特に現在のような元気の無い時代に。
  • 現在は全てのものが出来上がってしまっている。たとえばコンビニ。僕や押井さんの世代にとっては何でもある夢の世界だが、でも生まれた時からコンビニがある世代にとってはこういうオールインワンで何でも揃っている世界がアプリオリで当たり前。こういう世代にとってある意味ムチャクチャな「ポニョ」はどう映るか?
  • ネットで「ポニョ」についてラノベとアニメを同列に論じている人がいるが、アニメについてどう考えているのか。ラノベでも「ポニョ」みたいなのができるということになるんだぞ(笑)!
  • 「ポニョ」はジブリ美術館で上映されている「水グモもんもん」や「やどさがし」に原型となる世界観があるが、基本的に感覚でみる映画。お爺ちゃんのホラ話と思って、楽しい楽しいと思って聞いていれば良い。
  • 僕はスルーしちゃったけど、お母さんが夜中に子供二人を家に置いたまま出かけてしまうという展開が問題になってるみたい。この「リサ問題」が、映画の登場人物にある程度のリテラシーが求められるアメリカで公開される時に問題となるらしい。
  • ここいら辺は常に両親が不在の「パンダコパンダ」からの流れだと思った。宮崎駿は困ると昔の引き出しから出してくる。
  • スルーできなかったのは洪水後の世界で、初見ではあれが死後の世界なのか夢の世界なのかつかめなくて困った。竹熊:あれはつげ義春の「ねじ式」や「ヨシボーの犯罪」みたいな、夢の論理で進む話なのでは?
  • 宮崎アニメはシナリオが無いわけではない。イメージボードや箱書きはある。
  • 「ポニョ」で最も特徴的なのは動画で、コンテを元に最初と最後の原画を書いて、その中を割って動画を書くという通常の作画スタイルではない。コンテから一枚の原画を書き、その次の原画を書き、更にその次の……という送り書きの手法をとっている。たとえばポニョが海の上を走るシーンはセルをリピートしていない。つまり全部原画。それが気持ちいい。
  • 宮崎駿は厳密にいうと監督として全体を統括するというよりも、全てのカットにレイアウターやアニメーターとして関わっている。
  • 自分が文章を書く時も同じで、全体の構成からではなく、頭から一気に書き送ることもある。きちんとした原稿ができるかどうか不安で不安で堪らないが、でも途中で読み返すと「俺はこんなことを考えていたのか!」と驚きがある。それに触発されて次を書く。その繰り返し。自分で自分の脳の中身を見れないから、そういうことをやる。クリエーションとはそういうもので、一種のシャーマニズム
  • この前放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀*4」を観たが、さっきの竹熊さんの話と全く同じだった。11月になってもまだコンテを書いていて、制作に間に合わないと驚かされている。で、仕事納めの大掃除の段になってやっと「できたー!!」……人間は20年たっても変わらない(笑)。
  • 押井守宮崎駿と対照的で、きっちりしたプリプロダクションを踏んでから、シナリオ→コンテ→アニメーターによる作画……と正統な作り方をしている。ISOの品質管理と同じで、シナリオを書いてからコンテ、コンテが終わったらレイアウトと、きちんとした流れ作業で作っている。
  • 一方、宮崎駿はコンテが半分ほど完成した段階で作画をはじめてしまう。あとはコンテと作画のおっかけっこみたいなもの。
  • 「ポニョ」のクライマックスが前半にあるのはそういう作り方をしているジブリの内部的な事情で、一番手間がかかるものを最初にやったから。制作構造の問題でもあるのだが、それが結果的に脱予定調和にも繋がる。
  • 宮崎駿の作品は壊れている。シナリオや物語は破綻している。でも、万人が認める魅力があるし、劇場にお客さんは一杯入っている。「物語の破綻」で口をつぐむのは評論家として駄目なのでは?

(長くなったので次回に続きます)