名も無きジブリの民:『仮りぐらしのアリエッティ』

スタジオジブリって、もう完全に次世代を育成することを諦めたんだと思うんだよね。吾朗ちゃんこと息子の宮崎吾朗とか、名も無きスタッフとかが監督した映画が稀に発表されるけど、でもそれってポーズに過ぎないんじゃないかと思う。
それほどまでに宮崎駿高畑勲の才能は圧倒的だ。スタジオとしてTVシリーズをやっているわけでもないから若手に演出のチャンスも回ってこない。何よりも、若手がジブリ映画を監督する場合は、駿や勲が実のところ全く気にかけていない「ジブリっぽさ」というものに、留意せざるを得ない。そこが作り手にとっては辛い所だろうし、受け手にとってはつまらない所になる、少なくとも自分にとっては。


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だから、駿と勲以外のジブリ作品には興味が湧かなくて、『ゲド戦記』は怖いものみたさで観たものの、『借りぐらしのアリエッティ』はスルーしていた。
でも、ニコ生の岡田斗司夫ゼミで岡田が興味深いことを言っていたので、観てみることにした。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14930942:ヴぃでお


岡田が『アリエッティ』についていっていたのは、下記のようなことだ。

お手伝いのハルさんが、外側はおばさんだけど心はロリータなアリエッティの母親を拉致・誘拐する。しかも、お母さんを入れたビンをフィルム状のサランラップで包む。ハルはジブリスタッフからみた宮崎駿の象徴。そこだけは面白かったけれど、それ以外はつまらない(意訳)

実際観てみると、つまらないというか、つまらないほど普通の映画だった。駿の映画*1はアドリブで作ったかのような*2歪なお話と、自らの狂気が噴出したかのようなエクストリームな映像が最大の魅力だと自分は考えるのだが、『アリエッティ』はきっちり三幕構成。エンターテイメントとして、それはそれで構わないのだけれど、クライマックスに映像的見せ場やサスペンスが皆無なのが致命的だと思った。


脚本:宮崎駿とクレジットされていたのだが、具体的にどのように参加したのか気になったので調べてみると

企画を兼ねていた駿がさまざまなアイディアを口頭で語り、丹羽がそれらの内容を基に文章に纏めることで、同作のシナリオを構築していったという。

丹羽圭子 - Wikipedia


……という記述があったので、ちょっと納得した。


ラピュタ』以降の駿は、週間マンガの連載みたく、コンテを最後まで書かないうちから作画を進めたり、そもそも結末を決めずにアニメ製作を進めることで有名だ。多分、予定調和でやるとそれなりのものしかできないと心の底から思っているのだろう。でも、後輩の為にはある程度の完成度のシノプシスを素材として伝えるのはやぶさかではない、という感じなのだろう。アドリブで作るのは天才にしかできない。設計図があれば、凡才でも作れる。しかし、見た目は同じでも、商品としては同じように見えても、そこから漂う迫力や狂気といったものは明らかに違う。そういうものだろう。


一方で、名も無きジブリスタッフからの宮崎駿への屈託というのが、深読みすればするほど読み取れる作品だとも思った。
多分、あの家はスタジオジブリなんだよな。で、宮崎駿とか鈴木敏男とか高畑勲とかいったフロントマン達がいて、病気の子供――アニメが大好きなファン達の面倒をみている。
アリエッティ家はクッキーや角砂糖といった加工食品を「借りて」生活しているのに対して、ジムシーみたいなヤツーースピラーは「狩り」で手に入れた昆虫を食べているのは意味深だ。駿や敏夫たちの稼ぐカネ無しにジブリはやっていけないし、そこから「借りていく」――おこぼれを貰うこと無しには、名も無きジブリスタッフである自分たちは生活していけない。スピラー――同年代のフリーのアニメーターはきちんと自分で「狩り」をして自分の食い扶持を稼いでいるのに、ジブリでぬくぬくと給料を貰って、それなりの生活が保証されている自分達は、ジブリというブランドを「借り」て生活していくしかない。自分達のお客さんに姿をみせてはいけないし、口を利いてもいけない。そういったことの象徴ではなかろうか。
だから、時々ぞっとするシーンがある。翔の口だけがアップになるシーンは、アニメのファンといった人種は自分達にとって巨人のように恐ろしくてつかみどころが無い、ということを意味しているような気がする。「君達は滅びゆく種族だ」という台詞も、駿や勲や鈴木敏男がいなくなったらジブリはやっていけないことを、お客さんたちでさえ理解してるってことなんじゃなかろうか。
こういうシーンに変な迫力や生々しさがあるのは、作り手が本気でそう感じているからなのだろうし、だからこそ面白い。そもそも宮崎駿のアニメが面白いのって自分の狂気を隠さないからだろう。


だから繰り返しになるが、つまらなさの原因もそこになる。音楽とか美術とかキャラデザとかいったものは表面的なジブリらしさでしかなく、駿や勲の狂気こそ真のジブリらしさだと思うんだよね。
幼女が荒れ狂う海面を全力疾走したり、死人のモノローグで物語がはじまったり、八百万の神々のソープランドで幼女が働いたり、空襲で大火傷を負った母親の姿がバッチリ画面に写ったり、片手にロボ片手に美少女で「見ろ、人がゴミのようだ!!」と叫ぶ。そんなジブリ魂の後継者をこそ、翔であるところの我々は望んでいるのではなかろうか。


……でも、ジブリで給料貰ってアニメ書いてたら、下手に冒険するよりも、きっちり上から与えられた仕事をこなしてた方が無難って考えてしまうのかもしれないな。監督の米林宏昌が自分と同年代であるせいか、どうしてもそう思ってしまう。

*1:特に最近の

*2:それは事実なのだが