不謹慎とトラウマと物語


今週末から近所のシネコンが時間限定ながらも段々と営業復活してくるようで、非常に嬉しい。
なにしろ、我が家の近所には4つもシネコンがあるのだが、先週末はそのうち3つが休業で、唯一営業してるシネプレックスまで足を伸ばすと、劇場の外まで続く行列でとてもじゃないがチケットを買うことすら出来なかった。そこで都内まで足を伸ばすと、そこも行列。普段は閑散としている新宿武蔵野館までもが満席続きだったことには驚いたよ。早くレイトショーやってくれ!
電気は貯められないので、夜間は電気節約しても仕方無いと思うんだがなぁ。


だが、地震の影響で、幾つもの映画が公開中止や公開延期になるという。
津波シーンが重要な意味を持つ『ヒア アフター』は公開中止。『唐山大地震』は公開延期。『世界侵略:ロサンゼルス決戦』や『ジャッカス3D』、『カウントダウンZERO』までもが公開延期だという。おい、ちょっと待て。『世界侵略』は宇宙人侵略モノで、地震関係にないだろ。ボンクラ野郎がウンチやらゲロやら撒き散らす『ジャッカス3D』なんて、なおさら関係ないだろ。そして、核兵器売買の実態を告発するドキュメンタリーだという『カウントダウンZERO』はこんな時だからこそ観たいだろ!


とはいっても、さすがにオトナなので、上映中止や延期にする理由も分かる。都市破壊シーンから地震を連想され、大量殺戮や大量ゲロウンコのシーンやらが万が一にも不謹慎の烙印を押され、「被災者が傷ついたらどうするんだ!」と見做されたら反論できないからだろう。連想や不謹慎への結びつけは個人の自由だからだ。不用意に公開してクレームを受けるリスクを負うくらいなら、公開延期にした方が安全だからだ。もともと4/1以降の公開だったなら、今期の決算に影響しないし。


こういう時に、不謹慎なものと、そうでないものとの境界は曖昧だ。通常時ならなんてことない言動や映像が、被災者を馬鹿にする不謹慎ギャグと受け止められることもあれば、傷ついた日本人の心に響く癒しのコンテンツとされることもある。地震の翌日には非難轟々だったものが、一週間後なら問題無かったりする。それなら、翌々日なら大丈夫なのか? 六日後まで待たなくてはならないのか? その社会にどのような人間がどれくらいの数いるかで事情は異なるだろう。求められるのは、言語化や数値化し難い社会の雰囲気――空気を読むオトナ力ってやつだ。……ええ、そうですよ。セ・リーグの偉い人達はオトナじゃなかったってことですよ!



ただ、ここで気になることが一つある。
「震災での被災に配慮して公開延期」ってのは、自分たちの取り扱う映画が、観客に心理的な影響を与えることを怖れているからってことだよね? いわば、映画が世の中に影響を与えることを「悪」とする考え方だよね?


でも、自分はものごころついた時からテレビやら映画やらを観まくってきたのだけれども、それを観てなんの影響も受けない映画って、早い話がつまらん映画だと思う。観る前と観た後とで、自分の中の何かが決定的に変わるような映画こそ名作であって、誰の心の琴線にも触れない映画こそクソ映画だと考えるのだ。
しかも、そのような映画と自分との関係は、世間でいわれてる評判や評価と相関しない。しかも、世の中の流れとも関係ない。アカデミー賞カンヌ映画祭グランプリ受賞作が全く心に響かないこともあれば、たまたま平日の昼下がりにテレビ東京をつけたらやっていたような映画がその後の一生を左右するような影響を与えることもある。シネコンでかかっている最新の映画に全くピンとこないこともあれば、何十年も前に作られたモノクロ映画に活写された人々の熱い生きざまに本気で感動することもあるのだ(町山智浩の『トラウマ映画館』って、そういう本だと思った)。
トラウマ映画館
町山 智浩
4087713946


で、そのような「映画やテレビから受ける影響」って、良いとか悪いとか属性づけられるものなのだろうか? 「善」とか「悪」とか、分類可能なものなのだろうか?


いや、そんなことはないだろう。


唯一、確信をもっていえるのは、フィクションや物語といったものは、厳しい現実を受容する為の手がかりになりえるということだ。我々は現実というものを現実そのままの形で受容できない。剥き出しの現実では情報量が膨大すぎ、刺激が強すぎるのだ。ある程度単純化し、要約し、整理し意味付けし――物語化する必要がある。
それが震災や友人や家族の死といった、極端でエクストリームなものならなおさらであろう。『その街のこども』の感想で書いたことのコピペなのだけれども。
地震で家を壊され、津波でその身を押し流され、放射能というわけの分からない恐怖に怯える。それに耐えるためには、「地震で被災した自分」とか、「原発に反対する自分」といった物語を、補助線として受け入れたり、逆に受け入れないことで自分だけの物語を見出したりする必要があるのだ。
逆にいえば、全くの嘘八百であるフィクションや物語に心動かされるのは、そのフィクションや物語という大嘘をつかざるをえなかった人間がどのように現実を受け入れたかを想像し、その受容の仕方に感動するからといっていい。
そして、そのようなフィクションや物語がまた、誰かが現実を受け入れる力となる。現実に、意味は無い。その現実を受け入れる、受け入れざるを得ない我々にこそ意味があるのだ。


だから『ジャッカス3D』上映してくれ! ……とはさすがに言わないけど、『ヒアアフター』は今この時だからこそ必要な映画という気がするなぁ。


自分の場合、東日本大震災後に『ヒア アフター』について考えると、何故か『きけ わだつみのこえ』で引用されていた、ジャン・タルジューの詩の一節を思い出してしまった。

死んだ人々は、還ってこない以上
生き残った人々は、何が判ればいい?
死んだ人々には、慨く術もない以上
生き残った人々は、誰のこと何を慨いたらいい?
死んだ人々は、もはや黙って居られぬ以上
生き残った人々は、沈黙を守るべきなのか?
問いかけは、果てもなく続くのであろうか