おれ達のスタンド・バイ・ミー:『ヒーローショー』

公開終了間際な映画ばかりおすすめしているような気がするのだが、『ヒーローショー』は面白かった。
ストーリーは言うなれば青年にとっての『スタンド・バイ・ミー』みたいな感じなのだが、「今」「若者」「現実」といったものの切り取り方が絶妙なんだよね。
井筒和幸といえば、『虎の門』の映画コーナーでは常にこれはリアルだとか、リアルじゃないとか、リアルリアル言ってたような記憶があるのだが、井筒監督作品をあんまり観ていないという自分の不勉強加減は横に置いといて、初めてその意味が分かったよ。



映画にとって、暴力は最大の主題にして見せ場だ。
だから、これまで映画は様々な暴力を描いてきた。たとえば『プライベート・ライアン』における戦場の暴力。『チェイサー』における猟奇犯罪の暴力。『ホテル・ルワンダ』で描かれた民衆の暴力。『シティ・オブ・ゴッド』で描かれた子供の暴力、とみせかけた貧困の暴力。『バトル・ロワイアル』で描かれた子供の暴力、とみせかけた大人から子供への暴力。特に、最近の韓国映画には「暴力」に真正面から挑んだ作品が多い。


だが、最近の日本映画界で、「暴力」と真正面から対峙する者は少なくなった。深作欣二は死んだ。北野武はヤクザ映画から離れた*1阪本順治崔洋一はプログラム・ピクチャーを撮りすぎた。


かろうじてまだ、三池崇史井口昇は暴力映画を撮っている、かのように見える。だが彼らの作品で描かれる暴力は、一種のギャグとして異化された暴力だ。ヤッターマンロボゲイシャが殴られる時、そこに痛みを感じるだろうか。


……というようなことを『イエローキッド』の感想文で書いたのだが、最近ちと状況が変わってきたように感じる。


『告白』、『ヒーローショー』、『アウトレイジ』といった邦画は、それぞれの監督がそれぞれのスタイルで暴力と向き合った映画だ。その中でも、特に『ヒーローショー』の暴力は凄まじい。『告白』でも『アウトレイジ』でも死人は出る。しかし、フィルムから感じる痛みとか閉塞感とかいったものは、『ヒーローショー』の方が上だ。


『ヒーローショー』では、映画の丁度真ん中あたりで、とある殺人が描かれる。それは、物語の構造的には『スタンド・バイ・ミー』に出てくる死体と同じようなもので、それをきっかけに登場人物が成長したりしなかったり、心の中の何かが死んだり生まれたりする機能を持っている。しかし、フィルムから伝わってくる孤独感とか寂寥感とかいったものは、『ヒーローショー』の方が上だ。それも圧倒的に。


何故そう感じるのか。それは、現代の若者像を切り取るということに、かなりの部分で成功しているからだろう。


たとえば本作の主人公の一人、ジャルジャルの後藤演じる勇気は家族でコンビニを経営している一家の娘と付き合っている。ユウキは元自衛官だが、現在の職業は配管工だ。調理師の免許を取得して、南の島で恋人と暮らすという人並みの夢も持っている。
だが、収入はそんなに良いわけではないだろう、ということが自宅に戻ったシーンでわかる。同居してる母は若い男を連れ込んでいる。コンビニで働く恋人を連れ出して夢を語るが、彼女には子供がいたことが判明する。複雑な心境でコンビニに送り届けると、同居しようと渡したアパートの鍵を返される。返ろうとするユウキを申し話なさそうに見守る彼女、いや元彼女に、ここで彼女のお父さんが一言。


「廃棄の弁当持っていってもらうか?」


じゅくじゅくと熟成された心の暗黒がはじけるのにふさわしい一言ではあるまいか。



たとえば殺人のその後。
「引っ込みがつかない」といういかにもDQN的な理由で殺人を犯してしまうのだが、ことの重大さに気づいた彼らは責任をなすりつけあう。『スタンド・バイ・ミー』でも「こんなところに来るべきじゃなかったんだ!」とわめきあう同様のシーンがあったのだが、アメリカの中学生がやるそれらがどこか微笑ましいのに比べて、本作のそれは本当に醜悪だ。
責任をなすりつけあうことにも疲れた彼らは、驚くべき幼稚さで自らの行為を正当化しはじめる。


「仕方ねーべ。あれは助かんねーよ。だってもう死のエキス出てたもん」


「死のエキス」! かつて、若者のどうしようもなさをこんなにも絶妙な台詞回しで表現した映画が他にあっただろうか? いや、ない。



その後、DQN兄弟*2は実家に戻り、両親とスキヤキを喰う。家族の団欒だ。DQNの家は意外にも金持ちで、親父は市長で、選挙を控えていたりする。ここでの親父の台詞がまたすごい。


「馬鹿な奴は国会議員になる。お人好しは知事になる。頭が良い奴は市長になる。市長が一番だ」


これはつまり、他人のために人の上に立つという考え方を全く持たず、自分と自分をとりまく少数の人間*3の都合だけで行動する人間のいう台詞だ。その後、跡を継がないかと誘われたDQN兄は「おれはいいわ」と断るのだが、親父の考え方はしっかり息子に受け継がれている、ということを短い時間で示した好シーンだと思う。



彼らが感じる痛みや閉塞感、孤独感や寂寥感、そして心の中の暗黒は、我々の心にあるそれらとかなりの部分で同じものだ。本作のとりわけ凄いところは、ジャルジャルの福徳が演じるもう一人の主人公、ユウキ*4の描かれ方だろう。


ユウキはお笑い芸人志望なのだが、NSCみたいなお笑い専門学校を卒業したものの、工場やヒーローショー劇団のバイトで暮らしている。NSCを卒業してもお笑い芸人で喰えるわけじゃありませんよという現実を描いているわけだが、これを吉本の資本で作った映画の中で若手芸人にやらせるという井筒の根性が凄い。
ユウキは「夢はM-1優勝で1000万!」が口癖なのだけれど、そんなのは口だけというのが誰の目からも明らかだ。「○○になりたい」だけ騙っていれば、自分も周囲の人間もとりあえず騙せる。大事なのは○○になる為にどんな道筋を辿るか、どんな努力をするかなのだが、夢だけ語ることでそこから逃げることもできる。だから、それが顕わになってしまう消費者金融のシーンで、ユウキはパニックを起こすのだ。
劇中、ユウキは徹底的に自分というものが無い若者として行動する。元相方が殺されてもパニックになるだけで怒りも反抗もせず、ことが落ち着くとヘラヘラと相手に付き従い、成り行き任せに行動する。


クライマックス。いろいろあって殺されそうになったユウキは勇気に「お前の一番大事なものは何か?」と聞かれるのだが、ここでの台詞がまた凄い。


「命や! 大事なものは命や!!」


これはさ、命が無くちゃ始まらないというよりは、命しか大事なものが無いという、圧倒的な絶望を意味するんだよね。
勇気には一緒にいたい恋人がいる。DQN兄弟ですら迷惑をかけたくない家族や仲間がある。しかし、ユウキには何も無い。これは、あれですよ。オタク的にいうならば「守るべき人も守るべきものもない」と言われたアムロみたいなものですよ。


で、真に愛する彼女や彼氏もおらず、大事にしたい家族や仲間もおらず、芸人にもクリエーターにも有名人にもなれない我々は、ユウキの絶望が胸に染みるんだよね。


これを58歳のおっさんが監督するって、凄いことじゃなかろうか。
井筒和幸といえば、昔はどうあれ、最近はテレビでワイワイがなり立てる無作法なおっさんタレントというイメージが強かった。こんなにも繊細かつ大胆で、時代を切り取るような演出ができる監督とは思わなかった。
これがリアル。これこそが井筒の考えるリアルだったのだな。


ガキ以上、愚連隊未満。
井筒 和幸
4478013535

*1:が、戻ってきた。『アウトレイジ』に関しては後で

*2:うち一人はなんとデカブルー。好演

*3:すなわちDQNがよくいう「仲間」というヤツだ

*4:カタカナ表記もまた良し