このへんなかいじゅうたちは まだこころのどこかにいるのです。たぶん。:『かいじゅうたちのいるところ』

かいじゅうたちのいるところ』を観たのだけれど、やっぱりというかなんというか、心に染みる映画だったよ。

ノリの良い音楽がかかってはいるけれど、どこかしら寂しい感じがする予告編の雰囲気が全編を覆っていて、どう考えても大人向けというか、青年*1向け映画という感じがしたな。まぁ、そう感じたのは、私がまだまだ精神的に子供なだけかもしれないが、しばしそういうことでお付き合い願いたい。



主人公であるマックスは9歳だ。まず映画は、マックスが年相応に感じる孤独感や、やり場の無い怒りを描写する。ここいら辺、姉ちゃんの友達がかまってくれたと思いきや予想外に痛くて・゚・(ノД`)ウワーン!とか、知らない男が家に入ってきて、しかもママとイチャイチャしやがって頭にくるとか、9歳児の心情を上手く描写している、ように思える。


でも、こうも思うんだよね。もし自分が9歳だとしたら、「嗚呼、この映画は俺たちの想いを代弁してくれているなあ」というふうに思えるだろうか、と。
絶対にそうは思わないだろう。現に私は『ET』を7歳の時に観たが、自分達のリアルが反映されてる! なんてついぞ感じなかった。スピルバーグの想いを理解したのは大人になってビデオで再見してからで、7歳の頃はあの主人公なんて馬鹿なんだろうとか、なんでそこで銃を奪って撃たないんだとか、そんなことばかり考えていた。
つまり、リアルとリアリティとは違うということで、更にリアルを「象徴」とか「心象」とかいった歪んだ鏡に写し取るファンタジーにおいては、それらは結構複雑なものになると共に、観客も試される部分が大きくなるということなのだが、分かって貰えるだろうか。
そういう意味でいうと、子供が感じるリアルではなく大人が考えた子供のリアリティ描写を優先させた『かいじゅうたちのいるところ』は、やはり大人向けの映画だと考える。


蛇足かもしれないがつけ加えると、主人公の吹き替えを加藤清史郎がやっている点など象徴的だ*2。あれこそ大人が頭の中で考えた、あのぐらいの年齢だったらこうあって欲しいと願う、理想の子供の姿であるからだ。加藤清史郎は「知らない大人と話したくない」とか「仕事なんてせずに遊びたい」というこころを抑え、あるべき子供の姿を演じているに過ぎない、我々大人の為に。


映画の話に戻ろう。
家を飛び出したマックスはとある島に辿り着く。この島の風景がまた素晴らしい。あまり光が入ってこない、昏く寂しい森。暑さや自然の厳しさではなく、ただただ虚無のみを感じる砂漠。そして何かが決定的に喪われ、その結果荒れ果て、元に戻ることなど二度と考えられない茫漠たる荒野。
それらは主人公マックスの心象風景であると同時に、この映画についつい感じ入ってしてしまう我々観客のこころを反映した風景でもある。
そして、この島でマックスはかいじゅうたちに出会う。だが、彼らは本当にかいじゅうなのだろうか?
常に気弱でオドオドしているヤギのアレキサンダー。ヒステリックに憎まれ口を叩くジュディス。優しいけれど精神的に堪えることがあると放浪するKW。そして、自分と似た感じで怒りを爆発させる姿に親近感を感じるキャロル。
彼らは本当にかいじゅうなのか? 子供を喰べ、殺してしまうかいじゅうというよりも、こころの壊れた人間のようにみえる。それも、こころの壊れた大人のように。


以下ネタバレ。


マックスはいきなりかいじゅうたちの王になる。当然のことだ。子供にとって、世界は自分の為に存在しているのだから。姉や母やかいじゅうたちはマックスの為に存在している、マックスにとって。
彼らと知り合った初めての日、マックスとかいじゅうたちは山のように積み重なり、一山となって寝る。完璧な瞬間だ。人は誰でも他人と繋がり合いたい――それは、こころの壊れた人間であるかいじゅうたちも一緒なのだから。


だが、幸福な時間は長く続かない。マックスは思いっきり自分をかまってくれるかいじゅうたちが大好きだし、かいじゅうたちはマックスのことが大好きだ。でも、世の中には、関係が近いからこそ発生する誤解やすれ違いというのがある。愛しているからこその憎み合いというのがある。
この映画は表情豊かなかいじゅうたちを通じてそれらを上手く描いている。素晴らしい風景による心象描写も合間って、初めは着ぐるみにしか見えなかったかいじゅうたちが、怒り、妬み、戸惑い、思い悩む、本当の生きもののように思えてくる。これこそ正に映像革命だ。


そしてマックスは、かいじゅうが何故かいじゅうなのかを知る。かいじゅうは、こころの中にかいじゅうがいるから、かいじゅうだったのだ。そして、それは自分の中にも確かにある。そういえば自分は、獣のように母を噛んだあの時から今の今まで、かいじゅうの*3格好をしているではないか。


この映画は『アバター』とは違うので、マックスは旅から帰還する。家出した息子を探し疲れてうたた寝した母の横で、島ではついぞしなかった食事をとる。もうすぐかいじゅうの服も必要なくなるだろう。だが、こころの中のかいじゅうは永遠に消えない。ある程度飼い慣らすことは出来ても、決して追い出せない。
だが、他人のこころの中にもかいじゅうたちはいる。勿論、母や姉のこころにも。それを実体験として知ったマックスは、明日から他人にほんのちょっとだけ優しくなれるだろう。



これは映画の中だけの話ではない。我々は誰でも、永山則男や宮崎勤酒鬼薔薇聖斗宅間守や小泉毅や加藤智大といったかいじゅうたちを、こころの中に飼っているのだから。
しかし、お互いが持っていると知っているからこそ、他人に優しくなれるのだ。

*1:成年じゃないよ。大人と子供の間としてのそれ

*2:や、私は字幕版を観たのだけれど

*3:原題でいえばWild Thigsの