なぜ大今良時は『聲の形』を描いたのか、あるいは描かざるをえなかったのか

2016年、話題を攫ったアニメ映画を三本挙げるとすれば、『君の名は。』、『この世界の片隅に』、そして『ゼーガペインADP』……じゃなかった『聲の形』になるかと思います。


聲の形 コミック 全7巻完結セット (週刊少年マガジンKC)
大今良時
B00PTMHUMA

聲の形』は、元々大今良時が2008年に週間少年マガジンの新人賞に投稿し、入選し、デビューのきっかけとなった同名の短編が基になっています。しかし、聴覚障害者に対するいじめやコミュニケーション不全を描いているというきわどさから、編集部内で議論があり、入選作の副賞となっている『マガジンSPECIAL』への掲載は見送られました。


その後、大今良時別冊少年マガジンSF小説マルドゥック・スクランブル』の漫画版をヒットさせました。編集部としてはどうしても幻のデビュー作を発表させてやりたいという思いがあったのでしょう。、講談社の法務部、弁護士、さらに全日本ろうあ連盟と協議を重ねた結果、2011年に別冊少年マガジン誌上に掲載されました。
この短編は、アンケートにて『進撃の巨人』すら抑えて一位を記録したといいます。と同時に、読者から少なからぬ批判も浴びました。


この後、大今良時はまず別マガよりも数倍読者の多い週間少年マガジン誌上でデビュー作をリメイクした短編版『聲の形』を発表し、これも大反響と少なからぬ批判を呼んだ後、長編版『聲の形』を連載します。そして、連載最終回にて、アニメ映画化が発表されました。こちらも、大反響と少なからぬ批判を呼びました。


都合四回、反響と批判を呼んだわけです。
有吉弘之は「ブレイクするということは馬鹿にみつかることだ」という名言を残しましたが、『聲の形』は短編、リメイク短編、長編、そして映画と、都合四回馬鹿にみつかっているわけですね。
勿論、馬鹿にみつかる度に作品に触れる人が多くなり、コンテンツとしての規模が大きくなっていってます。



さて、具体的にどんな批判があるかというと、下記のようなものです。

  • 聴覚障害者を感動のために消費し、いじめっ子、及びかつていじめっ子だった者を慰撫する、いわゆる「感動ポルノ」ではないか
  • 障害者=天使という捉え方は社会にとっても障害者にとっても安易過ぎる美化だが、)聴覚障害者である西宮硝子が無垢な「天使」のように描かれていないか?


いずれも、安易な見方だと自分は思うわけです。
主人公である石田将也は、いじめっ子でありいじめられっ子です。また、いじめに加担した一人である植野直花は、ある意味で最も正直に西宮硝子と向き合う存在になります。
西宮硝子はいつも微笑んでいて、周囲に気ばかり使っていて、決して怒りませんが、それが演技であり努力であることは、端々で示されます。

(小学生の時の)主人公とのとっくみあいでは「これでも(それでも)頑張ってる」という台詞を口にしますし、

時に妹に強気で接しますし、


なによりも○○を試みようとするのは、彼女が常に本心を隠していたことの証であるわけですね。


決して「天使」などではありません。

……というようなことをニコ生で語ったのですが、一方で、ポリティカリー・コレクトネス的に正しくない作品であることも確かだと思うわけですよ。


西宮硝子は携帯メールで文章をうって自分の意思を他人に伝えることができるのに、それをしないのは、耳が聞こえないだけなのに知能が劣っているかのようにみえるし、最後まで本音を吐露せず植野に対して自分を曝け出さないのが残念だ――という町山さんの意見も、まぁ、もっともかもしれないなと思うのですよ。



ただ、これには作者なりの、大今良時なりの理由があると思うのですね。



聲の形』が、様々な批判をかわすのは簡単です。
作中に聴覚障害者をあと何人か登場させればいいのです。
西宮硝子と正反対というか、全く異なる聴覚障害者を、最低限一人だけでも登場させるだけで済みます。それで、西宮の引っ込み思案でいつも笑っていて決して怒らない性格は、天使のような障害者だからではなく、西宮個人の資質によるもの、ということになります。つまり、聴覚障害者の代表でなくなるのです。
高校生になった西宮は聾学校に通っているということになっているので、そこでの友人知人ということにすれば良いのです。ポリコレへの配慮というやつですね。


たとえば『この世界の片隅に』では、主人公であるすずさんは(当時の女性としては当たり前のことですが)周囲の人の言うがままに故郷を離れ、北条家に嫁ぎし、家事に勤しみます。一方で、北条家にいる義姉 徑子は元モダンガールで、結婚相手も離縁も自分で決め、自分の人生は自分で決めてきた女性です。仮に、徑子がそのような女性として描かれなかったとしたら、「女性を奴隷のように描くなんてけしからん!」なんて批判が出た……かもしれません。勿論、こうの史代はポリコレに配慮して徑子をそのような女性にしたわけではないのですが。


こんなの、自分でも思いつくのだから、大今良時はとっくの昔に思いついていたに決まっています。
でも、そうしなかったわけです。
何故か。


一つは、できるだけシンプルな物語にしたかったからでしょう。聾学校での人間関係まで描いたら、単行本であと二、三巻は長くなってしまいます。また、本作はあくまでも西宮硝子ではなく石田将也のお話です。ある時点まで、物語は完全に石田将也の視点で進みます。石田将也視点で西宮硝子の通う聾学校について描くには、かなりのカロリーというか、コストというか、構成の変更が必要です。ポリコレに配慮するためだけにそんなことしたくなかったのでしょう。


もう一つは、創作にまつわる根源的な理由です。
漫画でも小説でも映画でもゲームでも良いのですが、一つの物語を最後から終わりまで作るというのは、膨大なエネルギーを必要とします。単に小銭が欲しいからとか、業界内での地位や名誉が欲しいからとかいった理由では、やり遂げることが出来ません。
や、正確に書くのならば、「なんとなく」とか「生活費を稼ぐために」とかいった中途半端な気持ちでもやり遂げることはできるでしょうが、何万人の人に読まれ、世の中に影響を与えるような「傑作」にはなりません。
「傑作」には、それを産み出すためのやむにやまれぬ理由が必要なのです。「なんとなく」という理由で新人が週間連載を続けることなんてできないのです。


大今良時にとって、『聲の形』を描くための「やむにやまれぬ理由」とは何だったのでしょうか?



『公式ファンブック』をよく読むと、大今良時はそれとなく「やむにやまれぬ理由」を明かしている、と自分には思えるのです。
聲の形 公式ファンブック (KCデラックス 週刊少年マガジン)
大今 良時
4063930688


以下『公式ファンブック』から引用します。
(『聲の形』本編についてのネタバレを含みます)


(石田将也というキャラクターについて)
調子こいてるときの作者みたいな人物。
硝子のモデルとなった子に対して、私自身が上手くつきあえなかった頃の自分を投影しています。

――気持ちを伝え合うことの難しさ、コミュニケーションをテーマにしたことには、理由があるんですか?
大今:『聲の形』は、実体験に基づく要素がとても大きく影響しています。あの子の声を聞けなかった、気づけなかった後悔、「ちゃんと見る」、「ちゃんと聞く」という石田が抱える課題に影響を与えています。きっかけとなったその友達の耳がきこえなかったわけではありませんし、自分にとっては硝子の聴覚障害は作品のテーマを読者に気づかせるためのモチーフの一つであって、描くべき“本題”ではなかったんです。

――自殺を決断した硝子ではなく、それを助けようとした将也が落ちてしまう展開は、当初から考えられていたのですか?
大今:そうですね。ただ、さらに遡って連載の構想を練り始めた初期の頃は、硝子が落ちてそのまま死んでしまう展開を考えていました。でも、物語がそこで終わるわけではなく、硝子の死で衝撃を受けた将也が、「自分が変わらなければ」と思い至るまでを描くつもりだったんです。その後、打ち合わせを重ねた結果、今の形になりました。


……この三つのコメントを合わせると、こうなるのではないでしょうか。

  • 硝子のモデルとなった人物は、聴覚障害者ではなかったが、大今が上手く人間関係を作ることができなかった。
  • 硝子のモデルとなった人物は、自殺した。
  • 硝子のモデルとなった人物の死で、大今は衝撃を受けた。
  • 「自分が変わらなければ」と思い至った結果、『聲の形』という漫画を描いた。


……どうしても自分にはそう思えてしまうわけです。


町山さんが言うように、硝子がメールで自分の気持ちを詳細に語ったり、最後まで本音を吐露せず自分を曝け出さないのは、硝子のモデルとなった人物が(聴覚障害者でなかったにも関わらず)最後まで本音を吐露しなかったからなのでしょう。
もっといえば、硝子が作中でそのようなことをしてしまえば、硝子のモデルとなった人物や、創作の動機となる現実への「裏切り」になります。「やむにやまれぬ理由」はそこで消失してしまいます。漫画が描けなくなってしまうのです。


そう考えると、『聲の形』の終盤で、若干唐突に思えるものの、映画製作エピソードが描かれる理由が分かります。
主人公である将也の親友が自らを表現するために拘泥し、硝子がバラバラになった皆を結びつけるために自主制作映画を作る、その内容は将也や硝子が自殺しようとしたことや皆の人間関係やを反映している、そしてほとんどの観客が呆然としている中、将也のみが「さ…最高――!」と感動してしまう……
これは大今にとって、現実を『聲の形』という漫画作品で表現することを、『聲の形』という漫画の中で表現した、メタ的な表現なのではないでしょうか。
自主映画を製作することで将也や硝子をとりまく皆がそれなりにまとまり、理解しあえたように、『聲の形』を描くことで、バラバラだった自分の中の様々な気持ちがまとまった――ということを描いているのではないでしょうか。


勿論、これは大今良時本人にしか分からないことですし、多くの読者には関係のないことです。だから、映画化の際には削られました。
だからだから、コンテストに出すと「君のマスターベーションを見せられちゃったって感じかな」とか「ひどいナルシズムを感じる」といわれてしまうわけです。大今は、『聲の形』が自分にとってのマスターベーションでナルシズムの結晶であることは充分に自覚してるんだ、ということを明かしているわけです。


でも、そのおかげで将也や硝子や皆はそれなりにまとまり、それなりに理解しあうことができました。


おそらく、大今は(インタビューでも言及していた)『リトル・ミス・サンシャイン』にヒントを得て、このような物語のまとめ方を思いついたのでしょう。
リトル・ミス・サンシャイン [Blu-ray]
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リトル・ミス・サンシャイン』は、6人家族が孫娘の美人コンテストに出場しようとニューメキシコからロサンゼルスまで旅するロードムービーです。6人が6人それぞれの問題を抱えており、人間関係も上手くいってないのですが、祖父の死をきっかけにそれなりにまとまり、美人コンテストに出場します。
美人コンテストの結果は……お察しの通りですが、これがもう本当にじんとくる、いい結末になっています。