天皇としてのタモリ:『タモリ論』

タモリ論 (新潮新書)
樋口 毅宏
4106105276

テレビの画面に、タモリ、たけし、さんまがいました。
僕は人知れず、呟いていました。
――神々が揃った。
同じ時代を生き抜いた、戦友とも言うべき三人のトークは、恐ろしいほど面白かったです。
(中略)
その内容もさることながら、驚いたのは、たけしがタモリに対して初めて「タモさん」と呼んだのではないかということでした。それだけで記念碑的な夜に思えました。
テレビからキラキラと輝く光が放たれているかのようです。まるでネットが出現する前の、「テレビがテレビであるだけで幸福な時代」に戻ったかのようでした。
(中略)
大貫さんのツイートは、けだし名言でした。
「テレビの最終回でいいぐらいの画ヅラです」

数週間前に『笑っていいとも!』終了が発表されて以来、世間はそれなりに大騒ぎなわけだが、樋口毅宏の『タモリ論』の存在感が益々大きくなっているように感じる。


タモリ論』という新書の凄さは、タモリ本人に一回も取材したことなく、あれだけ売れた――多くの人が共感したことだと思う。
取材無し、ということではない。樋口は『いいとも!』の観覧に行った際のルポを書いており、それは「聖地巡礼」という章題の通り、まるで神社仏閣の参詣のように描写されている。『いいとも!』の匿名スタッフに取材を行っているし、様々な参考資料も調べているようだ。タモリについてのみではなく、比較でタモリを語るために同ランクにいる芸人――たけしとさんまにもそれぞれ一章ずつを割いている。そして何よりも、自分――平均的なテレビ視聴者と「テレビ」という文化の象徴であるタモリとの関係性について語っている。
つまり、樋口が論じたいのは、タモリ本人の内面やパーソナリティーというよりも、タモリという存在が日本のテレビや社会や日本人の内面にどう影響を及ぼしたか/及ぼしているかという、一種の影響論なのだ。


ここで、その論の読者である我々というか自分は、一つのアナロジーに辿り着く。
前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)
濱野 智史
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ちょっと前に『前田敦子はキリストを越えた』という新書が上梓され、話題になった。

  • タモリはアングラ芸人としての資質や内奥に宿る狂気全てに折り合いをつけ、平日昼の帯番組の司会を30年以上やり続けている。
  • タモリは自分にも他人にも期待していない「絶望大王」であるので、孤独なルーチンワークを30年以上続けていても気が狂わない
  • タモリは日本のお昼を鎮護する「神」である。

……というのが本書の趣旨であるわけなのだが、明言こそしていないものの、樋口はタモリを、神は神でも、よりにもよって天皇に喩えているように思えてくるのだ。
それも、中世や近現代の政治に積極的に口を出し、国民を引っ張る強い天皇ではない。戦後の、発言を控え、皆がその心中を忖度し、絶大な孤独を抱え、皆が神輿として自然と畏れ敬う「空虚な中心」――戦後民主主義における天皇だ。
かつて、森達也が「今一番インタビューしたい人」として今上天皇の名を挙げたことがあった。だが、それは二つの理由で不可能だ。一つは、宮内庁が取材許可を出さないであろうこと。もう一つは、言葉が直接的に伝わることで、天皇の聖性が穢されること。法律や条例で天皇へのインタビューが制限されていないとしても、メディアや国民の側でそれを明文化されていない禁忌とする場合は当然のようにある。園遊会山本太郎の行いがどのような騒動を引き起こしたかをみれば明らかだ。
本書はこの構造を逆に用いている。タモリ本人に取材しないのは、タモリが自分の芸を説明することを良しとしないと同時に、敢えて取材しないことで本書における「タモリ=神」というアナロジーを強化するためだ。長嶋や馬場が野球やプロレスにおける「天皇」であるように、タモリはテレビの「天皇」なのだ。タモリの凄さをネタとして話す若手芸人は天皇を畏れ敬う庶民そのものだ。『いいとも!』の匿名スタッフなぞ、まるで宮内庁の匿名職員のようではないか。


『いいとも!』終了にあたり、樋口はこうコメントしている。

他にも冠番組はあるけれど、テレビの象徴をやめて人間に戻ることができて、ほっとしている。(22日の放送は)タモリの「人間宣言」だった。テレビの王様であり象徴であるとともに、奴隷でもあった。ようやく檻(おり)から出られることに、手をたたいて「お疲れ様でした」と祝福したい。

http://digital.asahi.com/articles/TKY201310220428.html?_requesturl=articles/TKY201310220428.html&ref=comkiji_txt_end_kjid_TKY201310220428

天皇は日本の象徴であると同時に、それぞれの時代の象徴だ。昭和天皇は太平洋戦争や戦後民主主義の象徴だった。
それではタモリは何の象徴なのだろうか。


定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)
ベネディクト・アンダーソン 白石隆 白石さや
4904701089
ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』において、言葉の共通化こそが国民意識の源泉であるという論を唱えた。それまで別々の地方言語を話していた多様な人間が、共通語としての「国語」で書かれた新聞やその他出版物を読み、共通語で意思疎通することにより、「国民意識」を醸成するというものだ。
かつて、「テレビ」が日本人のマインドを統合するものだった時代があった。『いいとも!』はその象徴だった。新宿のスタジオアルタで連日繰り広げられる「祭祀」は、電波に乗って配信され、北海道から沖縄まで、日本各地で視聴された。縁もゆかりもない地方都市で、初めて出会った食堂のおばちゃんと、『いいとも!』の話題を交わすことができた。「テレビ」が「想像の共同体」の統合に大きく寄与していた時代があったのだ。
そして、タモリこそが、本人が望むと望まざるに関わらず、大半の国民が視聴し、翌日の学校や職場で話題にするもの――「テレビ」の象徴だった。
だが、そんな時代は終わった。いわゆる「大きな物語」は喪失し、価値観は多様化した。テレビを観ていないと翌日の学校や職場で話題についていけないなんて時代はとうの昔に終わったし、そもそも学校や職場に通わない人間も多くなった。インターネットはそんな時代の象徴の一つだろう。テレビを持っていない若者のなんと多いことか。


タモリの「人間宣言」――あれは「テレビ」の時代の終わりを告げる玉音放送であり、生前退位であったのだ。日本人の中心にテレビがある時代は確実に終わった。