アニメの悪意:『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』

魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』鑑賞。「叛逆の物語」ってリベリオンの物語、ガンカタの物語ってことだったのか――というのは冗談としても、魔法少女のイチャイチャぶりとドラッギーな映像と残酷さがとにかく面白い映画だった。
観る直前、シネコンの駐車場で前の回を観た客とすれ違ったのだけれど、おれそっくりなムサい男三人組が特典の色紙*1片手に「やったー俺さやか!」「うぉー、俺マミさん」などとイチャイチャしていて、そのイチャイチャぶりがスクリーンでイチャイチャする魔法少女たちと重なったりした映画だったよ。


本作が素晴らしいのは、テレビ本編をふまえた劇場版としてのファンサービスと、作り手の悪意という名の作家性が、すんなり同居しているところだと思う。「皆の観たかったまどマギ」と「皆の観たくなかったまどマギ」が同居しているのだ。


以下ネタバレ。


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たとえば冒頭、五人の魔法少女がイチャイチャしながら部活感覚でナイトメア退治に勤しみ、まるで戦隊もののようにポーズを決めるさまは「皆の観たかったまどマギ」そのものだ。まどかからほむらへの視点の転換や、「世界」に秘められた謎の解明は、テレビ本編やその総集編である映画前作を観た人間には半ば予想されたものだろうし、繰り返し構造はゲーム的であると同時にスターウォーズのようなサーガ的である。まさかマジカルバナナで全てが解決して終わるヌルいアニメが『まどマギ』の劇場版だなんて、観客の誰一人信じて無かった筈だ。リベリオンを越えるガンカタアクションや劇団イヌカレーによるシンボリックでドラッギーな映像表現も「皆の観たかったまどマギ」だろう。
特に、橋をくぐり*2、バスに乗り、隣町である風見野を訪れた際のカッチョよさといったらない。たとえば黒沢清タランティーノがバスや車に乗った際、窓から景色がリアプロジェクションという手法でそれが異界への道であることを表現しているが、イヌカレーは同じことをアニメでしかできないしありえない手法でやっているわけだ。
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面白いのは、「皆の観たくなかったまどマギ」の部分だ。この映画、オチのつけ方というか風呂敷の包み方が、結構特殊なものだと思うんだよね。
ほむらが魔女化した後に悪魔になる部分は、普通の映画ならもっと丁寧に語るところだと思う。まどかのためならまどかの思いなんて関係ない、神にも悪魔にもなる――この歪んだダークナイト*3的展開を真っ当に表現するのならば、きちんとエピソードを作り、きちんとドラマを作り、あんなに抽象的でアーティスティックな映像ではなく、普通の映像で語るはずだ。そうすると前後編になるだろうけど。
映画は映像で語るメディアなので、「ま、カバン持ちみたいなもんですよ」とか、「希望より強く絶望より深い愛」とか、そんな台詞だけで全てを説明してしまうような台詞、間違っても吐かせないと思うんだよね、普通の映画なら。だって、そのカバン持ちみたいな存在がどういう存在で、その愛がどういう愛かを具体的なドラマと映像で表現することが映画だから。
実際、本作もほむらが魔女化するまでは丁寧にドラマで語っている。ほむらがまどかのみならず杏子に寄せる思いはわざわざ言語化されなくても理解できるようになっているし、ほむらが独白するマミが苦手だった理由――「本当は寂しいくせに強がっている」は、そのままほむら自身の心情を表していたりする。きちんとキャラクターに内面があるのだ。
しかしその後に続くのは、「言葉の人」である虚淵玄の書いた言葉の応酬から成る脚本を噛み砕いて変更すること無く、イヌカレーによる隠喩に溢れたドラッギーな映像を付け加えるという、エクストリームなクライマックスで風呂敷を包む映画だった。
ことここに至ってはキャラクターに隠された内面は無い。そして、それこそがこの作品の魅力であるとも思う。


あまりアニメを観ない自分だが、このやり口には覚えがある。『少女革命ウテナ』や最初の『エヴァ』劇場版も、このようにシンボリックでドラッギーな展開をラストに持ってきていた。魔法少女ものとして現役のプログラムピクチャーである『プリキュア』の劇場版だって、毎年春にやっている『オールスターズ』は必殺技バンクの連続でドラッギーな映像をクライマックスに持ってきているではないか。
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これは『まどマギ』の本質、大袈裟なことをいうのならば、アニメの本質というものに大きく関わっていることなのではなかろうか。


これまで『まどマギ』は残酷で汚いものを直接的な映像で表現することを注意深く避けてきた。一方で、『まどマギ』が語ってきたものはキュゥべえに代表される残酷で汚い世界のシステムだった。
まどマギ』テレビ本編を観て最初にぎょっとするのは、第三話でいきなりマミさんが泣くところだ。年上の頼れるお姉さん的存在でだったマミさんは、意外にも寂しがり屋であったことを表すと同時に、魔法少女が生きるこの『まどマギ』世界は、泣いてしまうほどに苛烈で残酷なものであるということを、残酷でも汚くもない表現――少女の嬉し泣きで表しているのだ。その後マミが惨殺されるシーンも「マミられる」という言葉が成立してしまうほど、ポップでアーティスティックなものだった。普通の映画ならもっと残酷で凄惨なものにしているはずだ。
他の魔法少女が死ぬシーンも影絵やシンボリックな処理を用いて、なるたけ残酷でない表現がとられている。これはアニメでないとなかなか成立しにくい表現手法だ。その最たるものが魔女化だろう。
つまり、「残酷で汚いものを残酷で汚くない表現でみせる作品」こそ『まどマギ』なのだ。この世界で最も残酷で汚いシステムを象徴するキュゥべえの、なんとポップで可愛らしいことか。


「残酷で汚いもの」をなるべく見せない映画はヌルくてつまらないものになりがちだ。だが『叛逆の物語』はそうではない。確実に皆の心に残る映画になっている。何故か。それは本作のクライマックスからラストにかけてが、ドラッギーでポップでかつ残酷なものになっているからだと考える。


残酷とはどういう意味か。冒頭で観客のイチャイチャぶりがスクリーン中のイチャイチャぶりと重なったという話を書いたけれども、本作はそういうイチャイチャぶりを最後に否定する。
この展開をもって初めて、本作は、自分の心の殻を打ち破ることが世界の変革に繋がるというセカイ系の話であると共に、『ジョジョ』と同じく人間讃歌の話になりえたと思う。どんな非人間的なシステムでも神や悪魔に匹敵するほどの人間の愛というか、自分勝手で打算を含めた欲望には敵わない、という。最後にキュゥべえがボロボロになって震えている(死んでいる?)のってそういう意味だろう。
ほむらがまどかに放つ「三年ぶり」という台詞も意味深だ。『まどマギ』の放映が始まったのは2011年1月、だいたい三年前だ。スクリーンの中から観客に語りかけているわけだ。ほむらが仲間の魔法少女を裏切る展開は、作り手が観客の期待を裏切っていることとリンクしている。これは『ウテナ』や『エヴァ』の劇場版と同じく、テレビ本編を楽しみ、ホモソーシャルな仲間たちと楽しく劇場にやってきた観客への悪意でもあるのだ。
真の悪意を持つ映画だけが人を感動させることができる*4。真の悪意を持つアニメだけが人を感動させることができる。だからこそ、この映画はすばらしいし、心に残るものになっているのだ。


考えてみれば、テレビ本編も同じだった。あれは 「皆の観たかった魔法少女」と「皆の観たくなかった魔法少女」の反復を何度も繰り返すことでドラマを作り、それまでアニメではあまり見たことのなかったアーティスティックでカッチョよく、なおかつ隠喩に溢れた画作りでドラマを語っていた。
本作もこれを踏襲している。というか、テレビ本編と同じ構造をわざと使っている。これぞ劇場版だよ!




ただ、やはりどうしても理解できないこともある。
今回の劇場版含めて『まどマギ』について思うのは、これ、普通ならほむらとまどかどちらか、あるいは両者とも男でやるべき話なんじゃないかということだ。
勿論、まどマギ魔法少女ものというジャンルについての二次創作であり、挑戦であるということは理解しているつもりだし、魔法少女ものを楽しんできた観客への一種の悪意だということもわかる。女性同士の話にした方が、恋愛経験の少ない男性が見たときに引け目を感じにくいという商業的理由も分かる。
それでも、別にほむらを男にしても成り立たない話ではないと思うし、ほむらが悪魔化する理由って、どちらかといえば男の友情的なものだと思うんだよね。自分はオタクなのでマンガを例に出すと、『ベルセルク』のガッツが鷹の団を抜けた理由というか、グリフィスがベヘリットを使った理由みたいなのと同種のものだと思うんだよ。


でもそれが、『まどマギ』では結果として百合話になってしまう。あまつさえ、「私が引き裂かれる!」みたいな台詞に代表されるように、セックスの匂いまで放ってしまう。女性キャラで男性キャラ同士の恋愛を描くという、何重にも倒錯した話のように思えてしまうのだ。無論、それはつまらないというより面白いのだけれども。
もしかすると、これこそがクールジャパンだってことなのかもしれない。士郎正宗のマンガは常に主役が女性になる、みたいな。

*1:数種類あって一人一枚しか貰えない

*2:特記すべきまでもないと思うが、橋や門を越えるというのは新たな展開に入るという映像表現だ

*3:ダークナイトも相当歪んでいたが

*4:柳下毅一郎の言葉を借りれば