青島刑事の敗北:『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』

「大ヒット!」とか「早くも興収◯億円」とかいった景気の良い話を聞くわりに、自分のタイムラインでは全く盛り上がっていない『踊る大捜査線 THE FINAL』を観たのだが、意外に面白かった。
踊る大捜査線』はシネコン時代のプログラムピクチャーだ。本作の冒頭は日本のプログラムピクチャーのパロディから始まる。絶対に湾岸署の管轄ではありえない下町風の商店街で主人公とヒロインの二人が唐揚げ惣菜店を営んでいる。ファースト・カットではご丁寧に寅さんの姿までみえる。そして、主人公である青島は「店仕舞い」を宣言する。この「店仕舞い」は当然のごとくシリーズ最終作であることの暗喩だ。そして、二週間に渡って騙されていたにも関わらず、無料で配られる唐揚げを貰おうと嬉々とした顔で並ぶお客さんたちは、自分のように今二つくらいつまらないことが分かっていながら嬉々として映画を観に来る観客たちを現しているのだ。
それでも自分は『踊る〜』というシリーズに満足している。自分はこのシリーズを一種の特撮映画として観ている。だから、5分に一回くらいの割合で映像的「ヌキどころ」があって、ライダーやウルトラマンがお馴染みの決めポーズで見得を切るような感じで、青島や真下や室井やスリーアミーゴスといったお馴染みのキャラがお馴染みの演技をしてくれれば全然文句がない。普段、「わざわざ映画館でテレビの続編なんて観たかねぇぜ!」などとホザいている自分だが、『踊る〜』シリーズだけは人工甘味料みたいな立ちまくったキャラクターの魅力に抗えず、どうしても観てしまうのだな。

今回も、ものすごく強引な展開や、クサくてクサくて感動というより白けてしまうシーンがてんこ盛りだったものの、やはり面白かった。なんと、最終作ということもあってか、シリーズ全体を通したテーマにきちんとした決着がつくのだ。それも、思いもよらない形で。


『踊る〜』シリーズがテーマにしてきたものは、「格差社会としての警察」や「警察と正義」といったものだ。
特に、「格差社会」や「警察機構の腐敗」が叫ばれ始めた頃に作られた劇場版では、それが顕著だった。脇を固めるレギュラーや個性的な新キャラクターを「庶民」が大好きな旬の俳優が演じる。犯人や犯罪動機は「庶民」が感じている世相を反映する。憎まれ役であり本当の悪役である上層部は「庶民」のことなぞ考えず、常に保身を第一とする。そして、「庶民」である所轄と「上流」である本庁との相克が、常にドラマの推進剤となり、元サラリーマンである主人公青島*1の属人的活躍が常に問題を解決する。


踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ! スタンダード・エディション [DVD]
B00361FLEA

ところが7年ぶりに製作された続編『踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!』では、少々事情が異なっていた。
小栗旬演じる鳥飼補佐官は、緩衝役として所轄と本庁との間に入り込み、問題が発生した当事者一人一人と丁寧に交渉し、それぞれの利害関係を把握した上で立場と利益を調整し、解決するのだ。鳥飼がいれば、硬直した警察組織と上と下から変えていこうという室井と青島の存在意義が無くなってしまうのだ。
これは、劇場版一作目や二作目で筧利夫真矢みきが演じた悪役補佐官には無かった特徴だ。その辣腕っぷりは、様々な価値観が存在する現代では「調整」能力こそが正義なのかと思わされるものだった。事件を解決したのは青島とその仲間の活躍があったからだが、鳥飼補佐官は筧利夫真矢みきのように善人化したり敗北を認めたりしなかった。
そして、直接の続編となる『踊る大捜査線 THE FINAL』でも当然のごとく鳥飼が登場する。本作の鳥飼はグラサンをかけ、もはや悪役であることを隠さない。鳥飼は「俺に部下はいない、いるのは仲間だけだ」という青島の台詞をなぞるかのように単なる部下ではない「仲間」をとりまとめ、青島最大のライバルとなるのだ。


以下ネタバレ。


鳥飼の「仲間」はいずれも青島のキャラクターの裏返しだ。
小泉孝太郎演じる小池は元々民間企業から出向した技術捜査官であった。警察官として特任された後、僅か数年で交渉課課長にまで出世している。元サラリーマンという要素を同じくしつつ、「正しいことをしたければ偉くなれ」といういかりや長介の台詞を最も体現しているのは小池なのではなかろうか。また、「そんなもの、官僚が勝手に決めたルールだ」という台詞は、元総理の息子に言わせているという点で興味深い。
香取慎吾演じる久瀬は、被害者家族のケアを担当していた。犯人確保を優先する上層部に反発し、常に被害者保護を訴えていたテレビ版の青島のもう一つの姿であるといえる。更に、どことなく両津勘吉を連想させる髪型と額の広さが面白い。両さんならば、無茶な命令を出す上層部に反発し、拳銃くらい撃ちそうだからだ。青島の影であると同時に、両津勘吉の影のようにも思える。
そして、鳥飼補佐官は完全にもう一人の青島だ。「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」は流行語になったが、本庁の会議室と現場を横断し、結果的に警察機構を変えてしまうのは鳥飼だ。鳥飼の企みは青島と室井によって露見するものの、テレビ版終了後に「ラスボス」として登場した津嘉山正種大和田伸也を結果的に失脚させてしまう。警察の権力構造を変え、室井に「正しいこと」をやれる権力を与えることになる。鳥飼はテレビ版の青島がたどり着いてもおかしくないもう一つの着地点であり、もう一人の青島だといえる。


更に、都合が悪いことを隠蔽し自己保身に走る上層部を否定していた青島だが、今回の青島は組織ぐるみで部下のミス――ビールの大量購入を隠蔽しようとしている。自分と身内の保身のためにミスを隠蔽しようとするさまは、主人公も悪役も、所轄も本庁も、同じなのだ。
ただ、鳥飼だけが違う。鳥飼が所轄の報告書をもみ消したり、青島と室井を陥れたりするのは、自らの保身ではなく自分の考える「正義」のためだ。最後にはメールを報道機関に送りつけ、全てを開示したりもする。
こういった、自らの保身や去就よりもイデオロギーを優先し、一個人や一組織の利益よりも公共の利益を優先して組織の秘密を開示する行動は、海上保安官sengoku38を名乗って中国漁船との衝突映像をYoutubeにアップロードした事件をどことなく連想させる。sengoku38の行動が「正義」であったかどうかは未だに議論の分かれるところだが、この事件は確かに政府組織の情報開示姿勢を変えた。
勿論、鳥飼らの考える「正義」は、勝手に悪人を射殺したり、何の罪も犯していない幼児を誘拐して殺害しようとしたりする自分勝手な「正義」だ。しかし、仮に誘拐はするも殺害までは考えていないというストーリーだったら、それだけでも随分と印象の違う映画になっていたのではなかろうか。
映画は青島の「お任せします」という台詞から始まる青島の演説めいたシーンで終わる。結局のところ身内と仲間内と半径数十メートルの「正義」しか守れない青島と室井の敗北宣言のように思えた。


そういうわけで、結構安易な鳥飼の提案にひょいひょいのる上層部や、ほとんどサイコメトラーな青島の捜査や、「子供は皆バナナが好き」で押し通すくだり等がどうしても受け入れられなかったものの*2、全体的にみればアナーキーな要素を多分に含んだプログラムピクチャーだと思ったよ。今、60年代や70年代のプログラムピクチャーを観るとすごく新鮮で面白いように、あと4、50年経つと最高に面白くなる映画なのではなかろうか、などと思った。

*1:そういや「スーダラ節」を作詞し、いじわるばあさんを演じた青島幸男は「庶民」の代表だった

*2:それでも、まるでEP4のハン・ソロみたいなすみれの行動は良かった。返却するブルーレイは『隠し砦の三悪人』にしとけばよかったのにwww