さや侍のすべてはさやの中:『さや侍』

さや侍』鑑賞。一見、ウェルメイドな映画にみえるものの、実は松本の映画三作の中で最もエクストリームなメッセージを放つ作品ではないかと思ったよ。


立ち位置を再度説明しておくと、自分は『夢で逢えたら』を観て以降、ずっと松本信者だ。『ごっつ』も『ガキ使』も毎週録画し、『ひとりごっつ』と『働くおっさん人形』はDVDに焼いた。『放送室』はmp3レコーダーで何度も聞いた。『ダウンタウンの流』のLDと『松風'95』のTシャツは今や家宝だ。
だから、『大日本人』を駄作などどぬかす輩には口角泡を飛ばして説教だ。これこれこういう理由で『大日本人』は傑作なのだ、最後にちょっと逃げちゃったけどそれでも傑作なのだ、だからこそハリウッドからリメイクのオファーまで来たではないか、やっぱり日本人は海外からの評価無しでは異質な才能を認められないんだよねーーー……などとしたり顔で何時間でも語っていられる。
しかし、そんな信者にとっても『しんぼる』はちと辛かった。なんだか、比喩が直接的すぎて、隠喩が隠喩になってなくて、映像作品として薄っぺらく感じてしまったのだな。


だが、『さや侍』には驚愕した。特にラストに。


松本人志が作る映画のテーマは常に「自分」だ。
主人公が常に誰かに観察されていて、徒労のような作業を強制させられていて、未来は不透明で、ストレスばかりが溜まっていく……という構図は『大日本人』や『しんぼる』と同様に『さや侍』にも共通している。これはどう考えても、テレビ業界の様々なしがらみから自分の意に100%そぐわないバラエティー番組をやらざるを得ない芸人――ダウンタウン松本人志の隠喩であることは今更説明するまでもないだろう。


だが『さや侍』はこれまでの二作に比べるとウェルメイドな映画にみえる。一番の特徴は、前二作に比べて娯楽性が上がっていることだ。単にキャストが豪華とか、映像のクオリティが上がったとかいう意味ではない*1。人が人を好きになり、信頼するさまがきちんと描かれる点こそ娯楽作品の特徴だろう。主人公が祖父以外の人間から疎外される『大日本人』や、主人公が一人きりで奮闘する『しんぼる』に比べれば、娘や門番や藩主や賞金稼ぎや市井の人々までもが主人公のことを次第に好きになっていく『さや侍』のなんと娯楽性の高いことか。多分、松本は自分が意外にも周囲からそれなりに愛されているということに、この年齢になってやっと気づいたのではなかろうか。


しかし、これだけを採り上げて松本人志が丸くなったとか、優しくなったとか、子供ができて普通の人になったとかいうふうには思えない。


松本人志がやりたい「笑い」とは何だろうか。
映画三作の原型が、『VISUALBUM』や『とかげのおっさん』や『頭頭』にあることは間違いない。それは、家族がお茶の間でご飯食べながら和気藹々と爆笑する「笑い」ではない。もっと異質で、異形で、それまでの「笑い」の文脈を必要以上に踏まえたもので、善男善女にはクスリともできないものだろう。
もっといえば、松本人志がやりたいことは「面白いこと」であって、「笑えること」ではないのだ。「笑えること」は「面白いこと」の一側面であるかもしれないが、全てではない。時に、全く「笑えないこと」が「面白いこと」である場合もありうる。


だが、テレビのバラエティー番組で要求されるのは、確実に「笑えること」――テレビの前の善男善女にも笑える「笑い」だ。妻が死んだことがきっかけで浪人となり、罪人として捕まった挙句、腹に絵を描いて踊ったり、生きている蛸を齧ったり、人間大砲で海に飛ばされたりする野見勘十郎……その姿は、コント主体のバラエティー番組だった『ごっつ』が終了し、『ガキ使』でフリートークをやらなくなり、渾身の力を込めて企画したコント番組だった筈の『MHK』が視聴率的に大惨敗した結果、『リンカーン』や『アカン警察』で分かりやすい笑いをやらざるを得ない松本人志とどこか重なってはいないだろうか。


切ないのは、自分にとって不本意な「笑い」でも、周囲は幸せになることだ。
野見という素材を通じてなんとか「笑えること」を作ろうと奮闘し、その過程で人間的に通じ合う門番や娘の姿は、芸人松本人志という素材を通じて幸福を掴む放送作家や家族にみえる。きっと、松本はスタッフや家族を愛しているのだろう。だが愛する家族やスタッフと寝食を別にし、牢屋の中で一人微笑むしかない野見の、なんと孤独なことか。構造的に野見が入れられている牢屋が門番や娘が生活している位置よりも上部にあることも、非常に意味深だ。


以下ネタバレ。




だからあのラストにはびっくりだった。
あれは、父から娘へのラブレターなんて生易しいものではない。松本人志が腹の底からやりたい「面白いこと」。対して、皆が笑って応援してくれるけど、特にやりたくもない「笑えること」。その齟齬を正すためなら命をかける。それも、娘が生まれた今でもなお、ということじゃないか。そうとしか読み取れない。
父から娘へ〜さや侍の手紙〜
竹原ピストル
B0054MUFOU
その後の竹原ピストルによる歌は超感動的だが、よくよく歌詞を聴くと、男としてのあまりの身勝手さと切なさに涙が出てくる。娘に母を見出すとか、息子に父を見出すとかいった死生観はよく聞くが、これは早い話、父が自分のプライドの為に死ぬのを許して欲しいという内容ではないか。なんてことだ。松本は自分の異形さと心中する気なのだ。娘にとってこれほど身勝手なことはないが、信者として、これほど嬉しいことはない。


勿論、『さや侍』は手放しで褒められるような映画ではない。コントの状況説明のような説明台詞の多さや、編集のモタつき加減や、説明カットの多さは指摘されるべき点だろう。しかし、自分は満足だ。



北野武は「自分」をテーマにした『TAKESHIS'』、『監督・ばんざい!』、『アキレスと亀』の三作を監督した自分について「フェリーニ病に罹っていた」と自虐的に語っていた。だが、映画監督北野武は十四作もの長編映画を監督したキャリアを持っていて、その中の三作に過ぎない。
多分、これは松本にとっての業のようなもので、松本人志はこれからも「自分」をテーマにした異形の映画を作り続けるのだろう。それが楽しみでならない。

*1:元々、『大日本人』も『しんぼる』も映像的なクオリティは高かった