勝利の理由:『劇場版 マクロスF 恋離飛翼 〜サヨナラノツバサ〜』

書こう書こうと思っていたけれども、震災ですっかり忘れていたネタを書いてみるよ。
『劇場版 マクロスF 恋離飛翼サヨナラノツバサ〜』を観たのだけれども、本当に本当に面白かった。板野サーカスを超えた機動で動くメカニック、菅野よう子による天才的な作曲と良い意味で馬鹿な作詞による音楽、そして美少女が舞い踊るミュージッククリップのようなライブシーン。オタクが、童貞が、ボンクラが喜ぶものが盛りだくさん! バルキリーと美少女がほとんど同じ大きさで画面を占めながら唄ったり踊ったり戦ったりするクライマックスは、これぞジャパニメーションでしか為しえない映像世界だ! と日本人であることに誇りと嬉しさを感じたよ。いやほんと。
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ただ、ちょっと残念だったのは、中島愛が棒声優じゃなくなったことかな。なんか、テレビ版に比べるとアニメ声優として普通に上手くなっちゃったんだよね。マクロスといえばミンメイやら輝やらと、伝統的に棒声優――歌は上手いけど演技力は残念な声優がメインを張るアニメだと思うのだが、ランカ・リーというキャラにはそういう歴史的意味とは別の文脈での残念さがあったと思う。


で、『劇場版マクロスF』はテレビ版と全く違う展開で、三角関係の決着のつけ方もまったく違うのだが、よくよく考えるに、違いの原因はこの「残念さ」と大いに関係あるんじゃないかと思った。


以下ネタバレ



アイドルの魅力を語る言葉の一つに「完成度の中のほつれ」というものがある。ライムスター宇多丸がよく使うのだが、元々は「"アイドルの魅力"とは、完成度の高いものの中に、生身の女の子が見せる"ほつれ"。それが僕には最も美しく思える」という小西康陽の言葉から引用したらしい


アイドルというものは作られた存在だ。芸能事務所やレコード会社がマーケティングし、企画し、資本を投下し、楽曲や踊りが作られ、ボイス・トレーニングやダンス・トレーニングが繰り返され、プロ意識を植え付けられ、流行の一歩先を行くメイクと衣装が付与され、単に素材でしかなかったションベン臭い娘あるいは少年が「アイドル」に変わる。一連の作業が執拗であればあるほど彼ら彼女らは「完成度」の高いアイドルとなる。
しかし、そんな強化人間が時折「素」の部分をみせることがある。全くヒアリングできない方言を喋ったり、クイズ番組で誤字だらけのフリップを出したり、好きな食べ物はもずく酢ですなんて言ったりする。それが「完成度の中のほつれ」……というものらしい。や、自分はあんまりアイドルに詳しくないので、この理解で良いものかどうか分からないのだけれど、とりあえずそういうことにしておこう。


で、『マクロスF』テレビ版におけるランカ•リーの魅力って、まさしくそういうところにあったと思うんだな。
5000人の中からオーディションで選ばれたという触れ込みでランカを演じた中島愛は、確かに新人とは思えない抜群の歌唱力があったけれども、声優としての演技力に欠けていた。台詞という台詞はことごとく棒読み。共演者はある程度の経験を積んだ声優が多かったので、より一層棒読みが際立っていた。
しかし、それが「完成度の中のほつれ」だったのだ。「ランカの棒読みは良い棒読み」みたいな書き込みを何度か2ちゃんで見かけた覚えがあるが、宮崎駿が非アニメ業界の役者を声優に起用したり、富野由悠季がキャストの半数を舞台役者で揃えたりした結果発生する効果と同種の魅力があった。
また、恋のライバルとなるシェリル・ノームが、声優パートと歌唱パートをそれぞれのエキスパートが演じ分ける完璧超人だった、というのも大きい。普段の台詞はバッチリアニメ声の遠藤綾が担当する一方で、歌を唄う段になると『アクエリオン』の主題歌で実績のあるMay'nのボーカルが鳴り響き、アニメの中でしか存在しえない完璧なツンデレ歌姫が成立していた。アニメ完璧超人、アニメ完全サイボーグに、唯一対抗できるのは天然棒声優という構図が、『マクロスF』という作品が抱える魅力だったのではなかろうか……テレビ版においては。


ところが劇場版、それも二部作の後編にあたる『サヨナラノツバサ』になると、中島愛は歌い手としてだけではなく、声優として相当上手くなっちゃったんだよね。多分、相当努力したと共に、様々な深夜アニメで主演クラスを演じた経験が彼女を成長させたのだろう。棒声優、三日遭わざれば刮目してみよとはこのことだ。


しかし、『マクロスF』という作品においての中島愛の立ち位置は変化してしまった。結果として「普通に上手い」声優の一人になってしまった。「ほつれ」が無くなってしまったのだな。一人一役であるので、中島愛の魅力減退はそのままランカ・リーの立ち位置変化に結びつく。


こういう変化は作品内におけるキャラのパワーバランスに相対的な影響を及ぼす。
だから、シェリルの立ち位置が変わってくる。テレビ版ではアニメでしか成立しない完璧超人に思えたが、映画版ではアニメでしか成立しない儚くて切ない存在に思えてくるのだ。彼女が物語中で演じる役柄ーーサイボーグで、V型感染症で、声帯を取らなくては死ぬーーも、儚さや切なさを増幅させる。完璧なキャラを成立させる為の構造やアニメ的テクノロジーが「ほつれ」に感じられてくる。声優の演技力や歌い手の歌唱力が全く変わってないにも関わらず、シェリルが魅力的に思えてくるのだ。


だから、テレビ版では優柔不断に投げ出された三角関係が、劇場版ではシェリルがランカに勝つという形で決着がつくことに、とても納得がいった。Wikipediaによれば、河森正治はこの映画のラストパートをどうするかについてとても悩んでいたらしいが、頷ける話である。


しかし、中島愛にとっては「じゃ、どうすりゃ良いのよ!?」って話だろうな……